不器用な傷跡

 朝の日差しがさし、ゆらゆらと現実と夢の世界を行ったり来たりして微睡む。なにか遠い異国の夢を見たようだな、などと思いながら、三木ヱ門は布団の温もりに身体を預けていた。そうして、少しだけ目を開き、微かに身を捩る。
 と、温かい何かが首筋を伝うのに気がついた。何だろう、と身体を更に傾ければ、白い夜着の肩がじわりと紅に染まる。三木ヱ門は目をぱちりと見開いて、一度、二度、瞬きした。
 右手を首元に添えてなぞれば、温かいものの正体を知る。べったりと手のひらについたそれは、赤々とした血だ。たった今流れだしたかのように、それはとても熱くて赤い。
 痛い――、とその時ようやく首を襲うそれに気がついた。枕元に切れそうなものなど置いてはいないし、誰かにやられたのなら、気配で目覚めて気がつくだろう。不可思議だ。三木ヱ門は、未だどろりと血が流れる首を抑えながら身を起こした。
 ぽたり、ぽたりとそれは布団に落ちて、紅い花を咲かせる。
 一体全体、どうしたことだろう。けれど、この肌を伝い濡らしてゆくそれは、とても美しい――。
 三木ヱ門は手のひらを見つめ、そっと口付けるとぺろりとそれを舐めた。とても甘やかで、優しいあじ。潤んだ瞳は、呆けたように咲いた花びらを見つめていた。







「すみません、ありがとうございます」

 保健室の引き戸を閉めて、三木ヱ門は溜め息をついた。首にはくるくると包帯が巻かれている。この傷は、朝の鍛錬で苦無が掠ったということにしておいた。自分では見えなかったが、実際、苦無の傷のそれだったらしい。
 脈などは上手く逸れているが、深く切っているので、あと微かにズレていれば危なかったかもしれない、と言われた。
 もしも脈が切れていたら。想像するだけで怖気がする。今もずくずくと伝わってくる痛みは、この命を奪っていたかもしれないのだ。
 本当に、いったいどうしてこんな傷が出来たのだろう。三木ヱ門は考えるが、思い当たる節はやはりない。
 気味が悪い。忘れてしまおう。
 三木ヱ門は、その日、いつもと何ら変わりなく過ごした。覚えているのは、滝夜叉丸が巻いた包帯を見て、鍛錬が足りないな、と笑ったことが癪だったことくらいだろうか。


 けれど、これは一度では終わらなかった。次の日も、また次の日も、三木ヱ門が目覚める度に、首の傷は増えていき、血が流れるのであった――







 そのうちに、とうとう本当のことを新野先生に話すことにした。朝、目覚める度に首の傷はできるのだと。心当たりもないのだと。
 三木ヱ門の首に包帯を巻きながら、先生は言う。

「……無意識のうちの、自傷行為かもしれないね」

「自傷行為……」

 三木ヱ門はその言葉を繰り返した。その可能性に、ショックは小さくなかった。
 自傷行為……?この私が……?

「田村くん、何か思い当たるところは」

「あり……ません……」

 確かに、この傷も、血も、美しく甘やかで、愛しいと感じる。けれど、この得体の知れない傷を、恐れてもいる。この傷が、いつか命を掠めてしまうことも。
 いや……、だからこそなのだろうか。自分を傷つけても死なないような位置に、無意識に触れているのだろうか。どうして。
 三木ヱ門の瞳は、何をも見つめていない。映る現実は、それこそ、夢のなかの世界のように思えた。虚ろなそれを見据えて、新野先生は言った。

「手を軽く結わえて寝てごらん。保健室の布団も貸してあげるから、今日はここで」


 その翌日、三木ヱ門の首に傷が増えることはなかった。



 その日、三木ヱ門は全ての授業を休んだ。
 長屋の布団に一日中籠もっていた。それでも、決して眠らないように言い聞かせた。眠ることは怖かったから。また、知らずのうちに自身を傷つけてしまうのだと思うと、恐ろしかったから。
 そう、この傷をつけていたのは他の誰でもない、私だったのだ。
 涙が頬を伝う。弱い自分が苦しい。低く嗚咽を噛み殺した。

 一度、夕食どきに同級の生徒が粥を運んできたが、床の中で少しだけ口に含むと、それきりだった。戻してしまいそうで、何も食べられやしないのだ。

 そのうちにまた夜は巡ってきて。
あんなに眠らないと決意していたのに、いつの間にか迫る眠気に抗えず、意識を手放していた。







 ふわふわと微睡む朝と同じような感覚。
 もう朝なのだろうかと目をうっすらと開ける。が、まだ部屋の中は暗く、夜なのだと理解した。

 と、ずしりと身体の上にのし掛かる重さに気がついた。夜着の合わせから、するすると入り込む冷たい手に、身をぞわりと震わせる。
 ……何だろう。ぼんやりと開いていた目を大きく開けた。すると、その人物は、驚いたような顔をする。

「いが、さき……?」

 三木ヱ門の上に覆い被さっていたそれは、名を呼ばれ、はっとしたように身を起こした。その眉が苦しげに歪められる。
 すみません、と小さく囁くような声が聞こえたかと思えば、胸元に触れていた手はいつの間にか抜かれ、自身の懐へと伸びる。そうして、彼が取り出したものを見やれば。

「そっか……、お前だったんだな……」

 黒い血がこびり付いた苦無に、深く安堵する。そうだ。自分の苦無は全く汚れてなどいなかった。苦無を目の前にしているというのに、三木ヱ門にあるのは自傷行為ではなかったという安堵、ただそれだけだった。
 今まではどうして起きることがなかったのか、保健室で寝たときには傷ができなかったのか、その理由は、今、こうして対峙していることが全ての答えなのだろう。

「もう、駄目なんです……、苦しくて、だから今日こそやらなくちゃって……思うのに……」

 ああ、なんて不器用な後輩なんだろう。苦悶を浮かべる表情が、どうにも愛しく見えた。そうして、告げる。

「いいよ……好きに、しろよ……それで、楽になれるなら……」

 ゆっくりと目を閉じる。
しゅるりと包帯が解かれて、冷たい刃が、肌に触れる。こうして、いつも触れていたんだな、と思う。じわじわと力が込められて、新しい痛みが開いてゆく。また、あの美しい紅が見られるのだな。三木ヱ門は思う。けれど、辿り着く前にそれはそっと離れていった。それは妙に寂しく感じた。からん、と苦無が落ちる音を聞く。

 驚いて、目を見張った。
首元で敷布がぐっと握られる。気がついたら、唇に熱いものが触れていた。三木ヱ門は自然とそれを受け入れる。まるで、そうなることを知っていたかのように。雁字搦めにされた心がするりと解けていくようで、心地がよかった。
 しばらく触れたそこは、名残を惜しむかのように離れて、三木ヱ門は、相手の肩に少しだけ紅が移ったのを見る。

「あなたが……いけないんです、分からせたりなんかするから……」

 うん、と訳も分からないままに頷いた。しかし一つだけ確かに分かることがある。

「もう、苦しまなくていいんだ」

 お前も、そして私も。
その頭を抱いて、三木ヱ門は微笑む。とろりとした瞳は、夢を見ているのだろうか。もはや分からない。ただ、確かめるように、もう一度その熱を繋いだ。


 首の幾筋もの痕は、それからも消えることはなかった。
 けれども、愛おしい傷だと三木ヱ門は思う。時には、そっと触れて、撫ぜてみたりもする。指に伝う感触に、甘美なあじが懐かしくも、少しだけ、未だ痛むような錯覚をする。

 それは、不器用な二人の歩んだしるしのようなものだったのかもしれなかった。





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