僕だけのアリス

 考えてみれば、兆候はあったのだ。
 分かってはいた。それでもいつも情に絆されて、こんな風になってしまう自分が愚かしくてならない。

 そう、あれは昨日の昼時、一人散歩をしていたときのこと――







「田村先輩」

 名を呼ぶ声に振り返ってみれば、にこにこと笑みを浮かべた生意気な後輩の姿がそこにあった。

「……伊賀崎、」

 三木ヱ門は自然と身構えるようにして、きりりと睨み付ける。
 なんとも怪しいではないか。平常なら、こちらを見れば一番にしかめ面が飛び込んでくるものを。たとえそれが互いのポーズだったとしてもだ。
 なにか裏があるに違いない、そう決めつけて、三木ヱ門はぐっと口を引き結んだ。猫のように威嚇する三木ヱ門に構わず、孫兵は目を細めて笑う。

「そんなに睨まないでくださいって」

「……何が目的だ」

「目的なんてありませんよ」

 まあ強いて言うなら、と孫兵が懐から取り出したのは笹の包み。三木ヱ門はそれを訝しむように覗きこんだ。

「なんだ、それ」

 答える代わりに開かれた包みのなかには、鮮やかな薄黄色が綺麗に並べられていた。
 三木ヱ門は、思わずぱっと瞳を輝かせる。もしも犬だったなら、尾っぽが大きく振られていたことだろう。包みの中身は、彼の好物の卵焼きだったのだから。

「差し上げますよ」

「……要らん」

 本当は礼を言って受け取りたかったのだけれど、妙な意地が邪魔をした。三木ヱ門は、そのままふいと顔を背ける。
 孫兵はさして気にした様子もなく、そうですか、と頷いた。そうして再び包みを直すと、懐にしまいかけて言う。

「それじゃあこれは捨てるしか、」

「……寄越せ」

「はい?」

「勿体無いから、その、持て余すなら貰ってやらなくも……」

「いいですよ、どうぞ」

 やけにあっさりと差し出されたそれを、三木ヱ門は拍子抜けしつつも受け取った。孫兵は、どこか嬉しそうに微笑んでいる。なんだか腑に落ちないその顔を横目に、三木ヱ門はそれを口に含んだ。正直言えば、それは非常に好みの味だった。けれどもそれを口にするのは躊躇われて「不味くはないな」と呟く。
 そう、何の変哲もない味だった。むしろ美味しいとすら感じたくらいで。今思えば、それがすべての元凶だったのだけれど。







 ――そして、その翌朝の今に至る。


「伊賀崎ッ!」

 バンッ、と長屋の引き戸が勢いよく開く。しかしながら、中の孫兵は三木ヱ門の来訪をすっかり予見していたようで、眉一つ動かさずにこりと笑う。

「おはようございます、田村先輩」

「おはようじゃない!おま、これ……っ!なに、を……」

 三木ヱ門はわなわなと身体を震わせる。しかし、そんな怒りの意もこの相手には全く通じていないようであった。

「ずいぶんと可愛らしい格好で」

「ふざけるな!」

 三木ヱ門がそう言いたくなるのも仕方のない話であった。

 先ほど目を覚まして、布団から身を起こした時だった。夜着が急にはらりとはだけて、生まれたままの姿を晒していた。咄嗟に夜着を手繰ると、しばらく固まっていたが、ようやくいつもと様相が違っていることを察する。せめてもの救いは、休日で同室者は未だ夢の中であったことだろうか。誰にも見られていない。
 周囲をきょろきょろと見渡し、ようやっとひとつの事実を受けとめた。部屋が少し大きく感じる。いや、自分のほうが縮んでいるのだ、と手のひらを見つめて気がついた。
 思い当たる節はひとつしかない。昨日の卵焼き。あれになにかが盛られていたとしか考えがつかなかった。実際、この態度から犯人は明白である。

「何入れたんだよ……!」

「偶然見つけた毒草を、善法寺先輩に差し出したらお礼にと頂きまして」

 それが何かまでは知りませんでした、と後輩はしれっと嘯く。

 ――ああ、それにしても何たることか。あの保健委員長から入手した品を盛られたという。ならばこの非常識な事態にも頷けるかもしれない。

「解毒剤は」

「知りませんよ、頂いただけですから……そもそも毒じゃないと思いますし」

「どう責任とってくれるんだ!」

「まあ一生戻らないような危険な代物なら、下級生には渡さないのでは」

 知れたことか。三木ヱ門は内心で毒づく。これ幸いと実験台にされたのに違いない。
 ところが、この事態の根元を運んだ人のところに乗り込んでやろうにも、昨晩から帰省されておられるようで。保健室も長屋も、もぬけの殻だそうだ。
 内心、混乱やら不安やらでぐるぐるしていたのだけれど、この後輩の前であからさまに弱みを見せるのは嫌だった。知ってか知らずか、孫兵はまあまあと宥めるように口角を上げる。

「その格好じゃ困るでしょうから、これどうぞ」

 僕が一年のころに着ていたものですが、と私服らしき着物が差し出される。下着は保健室に一年生用の予備がいくつかあったらしい。
 こんなに準備がいいなんて、やっぱり計算ずくなんじゃないか。そう言いたい気持ちを抑えて仕方なしにそれを受け取った。着替えようと夜着を開くと、孫兵が観察するかのようにまじまじと見つめているのに気がつく。

「……なんだよ」

「いえ、一年くらいの頃はこんなに可愛かったんだなと」

「馬鹿にしてんのか」

「まさか。でも、こんな性格になっちゃって可哀想ですね……」

「お前にだけは言われたくないな」

 じろりと睨むけれど、孫兵はどこ吹く風だ。
 纏ったばかりの着物は、この後輩の匂いがして落ち着かない。三木ヱ門はあからさまに頬を膨らして見せた。小さくなった今では、いつもに増して似合いの表情で、それを見た孫兵はくすりと笑う。

「残っている生徒に見られるのは嫌でしょう?いっそのこと、外に出かけませんか」

「絶対に嫌だ」

「そう言わないで」

 脇の下を両腕がくぐったかと思えば、ひょいと担がれていた。止めろ離せ、と手足をばたつかせてみても、一向に効果はない。小さいとはこんなに無力だったのか。唇を噛み締めているうちに、門の外まで運ばれた。外をしばらく歩いてから、すとんと地面に下ろされたけれど、ここまできたら一人で戻るのも嫌だった。詮無く、孫兵のあとに続いてゆく。

「……どこ行くんだよ」

「町まで散歩に。詫びのしるしに、道中で団子でも奢りますよ」

 詫びるつもりがあるなら最初からこんなことをするな、と言いたいけれど、徒労に終わることは知っていたので黙っていた。
 孫兵はといえば、少しばかり小さくなった身体を気遣ってだろうか、いちいち振り返っては「疲れませんか」「おぶりましょうか」なんて言ってくるから面白くない。そのたびに歩くペースを速めてみせる。ただでさえ、今はこいつより身長が低いという事実に腹が立つというのに。

「いちいちお前はうるさいんだ、これくらいでへばるか!」

「はいはい」

 苦笑するように前を向いてしまうその背が憎いったらない。
 そのうちに途中の茶屋に着いて、一服することにした。一年の頃にはこの位大したことはなかったが、身体の慣れとは恐ろしいもので、三木ヱ門は全身に疲労を感じていた。
 ふう、とひと息ついて木の椅子に腰掛ければ、ぷらぷらと地に着かない足がなんだか懐かしい。

「やっぱり、疲れたんじゃないですか。だから言ったでしょう」

 そう言って差し出される団子の皿を、黙って受け取る。「やけに素直じゃないですか」と揶揄する後輩に、これくらいされないと割が合わないとそっぽを向いた。
 ちょうど出てきた茶屋のおばさんが、それを見て問う。

「可愛らしいお二人さん、ご兄弟?」

「ええ、そうなんです」

 そう答えたのは孫兵である。三木ヱ門はぎろりと睨みつけるが、孫兵はその笑みを崩そうとはしない。

「町まで?」

「はい、市へ行こうかと思いまして」

「しっかりしてるんだね、気をつけて行くんだよ」

 きっとご両親はさぞかし器量よしなんだろうねえ、と豪快に笑うとおばさんは奥へ引っ込んでしまう。
 その姿がすっかり見えなくなってから、三木ヱ門はつかみかかるようにして詰め寄った。とは言え、身長が縮んでいる今では、合わせの下方を掴むことしかできなかったが。

「お前な……、誰が弟だって?」

「落ち着いてくださいよ、だって他にどう説明するんです?」

「……うう」

「それより、おばさんが戻ってくるみたいです」

「え、なっ……、」

 再び両脇の下を孫兵の手がくぐり、くるりと膝の上に座らされてしまう。小さくなったとはいえ、身長は少ししか違わないのにいいように扱われているのが悔しかった。
 孫兵の言葉通り、おばさんが茶をつぎに戻ってくる。膝の上の三木ヱ門を見てあらあらと微笑んだ。三木ヱ門は、ぱっと俯くと、羞恥に顔を赤らめたのである。

 詫びのしるしは、団子ひとつでは到底採算がとれないようだ。茶屋を発ってからというもの、三木ヱ門はすっかり元気をなくし、とぼとぼと歩いている。

「大丈夫ですよ、今の先輩は十くらいには見えますから」

「だから落ち込んでいるんだろう」

「まあ、僕も改めて分かりましたよ」

 田に囲まれた道を歩きながら、孫兵は言う。どうやら町はもうすぐそこのようだった。
 三木ヱ門は、何が分かったのかと首を傾げる。孫兵は歩みを止めないまま、ちらっと振り向いた。

「もとの先輩が一番だってこと」

 その言葉に、三木ヱ門は大きなため息をついてみせる。いつもと違って、大きく感じる背を見上げながら言った。

「お前な、なんでこんなことしたんだよ」

「気がつかれていましたか」

「当たり前だろ」

 すべては計画されていたことだなんて、とっくに分かっていた。兆候からいえば、それこそ昨日から。いつも流されてやってしまうのは、本当にどうしてなんだろう。
 ふ、と笑うと、孫兵は足を止めた。今度こそ振り返って、少し身を屈めてくる。

「それは……」

「なんだよ」

「それは、たまには先輩とこうして歩きたかったから」

「そんなこと、だったらそう言えば……」

「断ったでしょう?」

 ぐ、と三木ヱ門は詰まった。
 確かに、頼まれても即座に拒否してしまうに違いなかった。それこそ昨日の卵焼きのときのように、意地に邪魔されて。

「あー、分かった!たまには付き合ってやるからもうこんな真似するな」

「……本当に?」

「ああ、もうこんなのごめんだ」

「小さい先輩も可愛らしいですけどね」

「うるさい阿呆」

 本当は、頭でも小突いてやりたかったが、届かないので我慢してやる。そう、届かないから。
 うんうんと頷いて、そんなことを考えていたときのこと。

「あ、先輩。そろそろ身体が戻る刻ですよ、草むらに隠れて」

「はっ!?お前、やっぱり効果知ってるんじゃ」

「大丈夫です、替えの衣も用意してきました」

「って、なんで女ものなんだよ!」

「化粧の道具もあります」

「伊賀崎ぃぃぃ!」

 前言撤回。もう二度とこいつには関わらないと固く誓った。町に突けば随分可愛らしいめおとだね、なんて言われてしまうし、もう絶対、絶対にだ。一緒に歩くのが少しでも楽しいなんて思ったのが馬鹿だった。最低、最悪だ。
 帰り道、孫兵におぶられながら、そんなことを思う三木ヱ門なのであった。

「こうなるから、小さくなってる時におぶりますと言ったでしょう」

「うっさい!」

 森の中に、三木ヱ門の声がこだまする。
 既に夕日が傾くころだった。その背に埋めた顔は今の空の色によく似て、真っ赤に染まっていた。





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