▼ くちびる
冬の世界は、酷く冷たい。
それは、凍えてしまいそうなほどに。自分はどうしようもなく一人なのだとひしひしと感じるのだ。特に、こんな夜は。
一日限りの宵の宴から抜け出して、孫兵は一人、つんとした冷たさの中に踏み出していた。
今日は一年の終わり、大晦日だ。年の瀬が近づいてきたと思えば、いつの間にか今日を迎えていた。時の流れとは早いものだ。改めて実感する。
友人たちには悪いけれど、少し席を外したかった。
毎年のこととはいえ、この時を彼女たちと共に過ごせたら、いくらか楽になるだろう。この冷は、自分には些か厳しすぎる。
自分でも馬鹿げている、とは思う。ただ、暦が進むだけのことだ。今日が明日へと変わる。ただそれだけのことなのに、酷く胸が苦しくなる。世界が明日終わってしまうかのような錯覚を覚えるのだ。
こんな憂いを理解できる者など、ただひとりもいないのだろうけれど。
孫兵は静かに息を吐き出した。
その白は、ぼんやりと浮かんで夜空へと消えていく。見上げるように傾いだ空には、星ひとつすら見えない。
足は自然と生物小屋へと向いていた。彼女たちはいない。それでも、残る温もりに触れたかった。
宴はまだ続いているのだろう。人の気配は少しもない。自分の足音だけが、静かな空気に溶け込んでゆく。
肌を刺すような寒さが、一歩一歩進むたびに染み渡る。
暖かい時分には、毎日のように通っていた小屋。いつもと変わらずにそこに立っていた、誰もいない空の小屋。分かってはいたけれど。
孫兵は近づいて、ああ――、と無意識に声をあげた。
ここに来れば、全てなくなると思ったのに。余計に募るばかりだった。
胸が締め付けられるように苦しくて、こんなにも、切ない。
あの子たちがいなかったら、どうして毎日を過ごしていけるのだろう。あとどれだけ待てばいいのだろう。
――もう、戻ろうか。
これ以上小屋を見つめていたら、苦しくてかなわなかったから。
今日は早めに戻って寝てしまうのだ。そうすれば、こんな思いを抱えていたことなんて忘れて、新しい日はまたやってくる。毎年そうやって越してきたのだ。
孫兵が踵を返そうとした、その時であった。
不意に背後からその人の声が響いたのは。
「……伊賀崎?」
何でこんな時に。一番こんなところを見せたくなかった相手かもしれない。内心で悪態をつくものの、それを相手に見せることは余計に避けたかった。
そんなことを知る由もないそのひとは、ちょこんと首を傾いでいる。
「田村先輩……」
きちんと振り向いて見やれば、三木ヱ門はどこか腑抜けた表情でこちらを見つめていた。ふわりとしたその視線はいつもとは対極のそれだ。宴の酔いを覚ましにでもきたのだろうか。
長屋はこっちじゃありませんよ、と言う孫兵に、うん知ってる、と微笑する。
本当に酔っているのかもしれない。
面倒だけれど、送り届けるくらいはしたほうがいいのだろうか。
そんなことを考えていると、いつの間にかふらふらともたれかかるように、肩を抱かれていた。
「あの……、大丈夫ですか?」
「うん」
どうやら全然大丈夫ではなさそうなのだが、三木ヱ門は平気、と繰り返す。
まあ、素面ではなくてよかったかもしれない。
孫兵はため息をついて、回された腕を持ち上げた。
「それにしても、お前も寂しいやつだよなあ、こんな日なのに」
世話になっているというのに、そんな態度は微塵も見せずにからりと笑った。
孫兵が睨むのも、まったく気にする様子もない。
こちらがこんなに心を痛めているというのに。
そんなことは知らないとばかりに傷をぐりぐりと抉ってくる。
確かに自分の弱いところなど見せたくはない、それでも、このひとは十分に知っているのだろうに。あるいは、わざとなのだろうか。
その意図は読めないままだけれど。もういいか、全てを投げてしまおう。
「ええ、寂しいですよ」
「なんだ今日はやけに素直だなあ」
あなたこそ、と小さく呟く。
外気に晒されていた肌には、酔いで火照った身体はちょうどよく温かい。
見つめた瞳の奥がゆらりと揺れて、なんとなく理解した。
このひとがどうしてふらふらとした足取りでここまで歩いてきたのか。
結局は同じだったのだろう。
「先輩」
「なんだよ」
「明日、世界が終わったらどうします」
我ながらおかしいことを聞いた。けれど相手も浮かれているのなら、興に乗ずるのも悪くはないと思ったのだ。
案の定、三木ヱ門は笑い飛ばすこともなく、うーん、と首を捻る。
ようやっとその口が開いたかと思えば、かえってきたのはどこか外れた問い。
「明日、お前、いなくなるのかよ」
「……いえ、いますけど」
三木ヱ門は、うんうん、と何度か分かったというように頷く。
軽く酔っているだけだと思ったのだけれど、これは本格的に危ないのかな、などと思っていると、三木ヱ門ががしりと小屋の網に手をかけた。
呂律も上手く回っていないというのに、自信満々に胸を張って言う。
「なら、大丈夫だろ。どうせ……、」
小さく吐かれた言葉と、白い息がくちびるにかかってこそばゆい。
酔っ払いの言うことだけれど、こんなにも安心を覚えるのは一体どうしてだろう。悔しいけれど。
「まったく、馬鹿ですね」
馬鹿とはなんだ、と言うその口に、指をあてて。
孫兵はもう一度、きちんとその身体を支えなおした。長屋まで送りますから、ちゃんと歩いて下さい。こくんと素直に頷いて四年長屋へ歩き始めるものの、すぐに足を止めてしまう。
「そっちじゃない」
「はいはい」
――まったく、今年は静かに眠れそうもない。
二人分の白が、ふわりと上っては消えてゆく。
誰にも理解してもらえなくてもいい。我侭な利害の一致。
彼女たちがいなくても世界は終わらない。そして、その穴を埋めてくれるものは脆くも優しい。
明日もまたこうしていたいと思えるのは、そのくちびるのせいかもしれなかった。
紅く、妖艶に。それはゆるりと弧を描いてみせる。
"I am not in the world without you."
2012/12/31
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