キュッと音を立てて蛇口を捻り、降ってくる水滴を被る。
温かいそれは冷えた体を温めていき、とても心地が良い。
それに先程までしていた甘ったるい匂いも消し去っていくようだ。
終わった途端に触れる事すら嫌悪するなんて。
自分が女だったらこんな男はお断りだが何が良いのか。
ブラック家という名前が関わっているだろう事は明白だ。
落ちる湯と一緒に肺の中の空気も吐き出すと少しだけ心が軽くなった気がする。
「ただいま、シリウス」
突然の声に嫌な予感しかせず、首だけで振り向く。
予想通りの貴族服にブーツ姿の名前がニッコリ笑って立っている。
シャワーが出しっ放しで水滴が飛んでいるというのに一切濡れていない。
恐らく魔法だろうとは思うがそんな事は問題じゃ無いのだ。
「俺は今裸なんだぞ!」
「知ってるわよ?でもシリウスに会いたかったんだもーん」
無邪気に笑う名前から隠すようにシャワーを止めてタオルを腰に巻く。
残念という声を無視してシャワールームを出てパジャマを着る。
当たり前のように髪の毛を拭く名前の手を感じながら溜息を吐いた。
「裸なんて見られ慣れてるでしょ?今更隠さなくても良いじゃない」
「そういう問題じゃ無いと思わねえか?」
「まあまあ、機嫌直してよ」
口元に腕が伸びてきて何かを口に押し込まれる。
それを何かと確認しようと舌で転がすと甘味が広がった。
甘さに思わず顔を顰めると耳元で聞こえる名前の笑い声。
腕が伸びてきて、後ろから抱きつかれた格好になった。
「どう?美味しい?」
「甘い」
「ベルギーの高級チョコレートよ。もう少し美味しそうな顔で食べてよ」
「俺は甘い物が苦手だって知ってんだろ」
腕を引き剥がして歩き出せばやっぱり後ろから足音が追い掛けてくる。
追い抜く事も横に並ぶ事も無く、ただただ後ろを歩く。
談話室までずっとその状態だったのに、気が付いたらポットから紅茶を注いでいた。
「はい、紅茶。甘くしてないから大丈夫よ」
「…おう」
暖炉の前に座ると名前も同じように座る。
火が消えそうだと文句を言いながら薪をくべる姿は服装とは似合わない。
「随分、時間が掛かったんだな」
「あら、寂しかった?」
「別に」
「つまんないなぁ。寂しがってくれたら良いのに」
ゆらゆらと赤が揺れる名前の瞳を見ないように手で覆う。
手を退けられた時にはもう赤は消えていた。
俺をからかって遊んでいるのだろうが、瞳が赤くなると構えてしまう。
本気にならなくたって名前なら大抵の事は出来てしまいそうだけれど。
「ベルギーはやっぱり遠かったのか?」
「まさか。ちょっとオリオンに会いに行ってたのよ」
「は?」
相変わらずでねー、と言いながら名前はチョコレートを口に放り込む。
いつも口煩く言うのは母親で、父親も確かに厳しいけれどあまり会話をしない。
昔は母親の目を盗んで色々と話を聞かせてくれた事もあったけれど。
会話をしなくなってどれ位経つだろうか。
「顔は好きなのに、オリオンったら惜しいのよねぇ」
「…まさかとは思うけど、何も無かったよな?」
「なーんにも。ああ、添い寝してくれとは言われたけど」
自分の中にあるイメージの父親からは全く出てきそうに無い言葉。
ガツンと頭を殴られたかのような衝撃を和らげようと紅茶を流し込む。
というか、仮にも母親が居る家ではないのだろうか。
「ふふ、意外?」
「意外も何も、想像も出来ねえな。猫被りかよ」
「貴方の前では父親の顔って事よ。まあ、こうしてバレてしまった訳だけどね」
「お前がバラしたんだろ」
「そうねぇ。じゃあバラすついでにもう一つ」
ニコッと笑う顔はまるで何かを面白がっているようだ。
小さく手招きをするから仕方無く上半身を乗り出して名前の口元に耳を近付ける。
耳元で話し出した声とその内容に思わず名前の顔を見つめた。
「嘘だ」
「嘘じゃ無いわよ。言ったでしょう?悪魔は嘘を吐かない」
「そんな事、あいつが言う訳無いだろ」
「貴方やレギュラス、ヴァルブルガの前ではね」
そう言っていつの間にか手にしているワイングラスを傾ける。
名前は悪魔だから良いのかもしれないが、此処は談話室だ。
前にも同じ事があったし、気にするなんて言葉は浮かばないのだろう。
モヤモヤする感情を追い出すように息を吐いて立ち上がった。
「あら、もう部屋へ戻るの?」
「寝る。別にお前に付き合う理由も無いだろ」
「まあ、確かにね。おやすみなさい」
案外あっさりと見送るのだなぁ、と思いながら階段を進む。
実際眠くはなく、先程名前に言われた言葉がぐるぐると頭の中を回っている。
そんな事がある訳が無い。
そんな事があるのなら、今までの俺は何だったのか。
ベッドに潜り込んでからも、名前の言葉は離れなかった。
瞼が重くて仕方が無い中で、自然と目が見つけてしまう。
いつもは擦れ違ったって気付かないのに。
向こうは一人だし、俺も今は一人だ。
挨拶すら禄にしない関係だけど、良いだろう。
「おい、レギュラス」
「…兄さん」
「あのー…何だ、その、親父の事なんだけど」
ピクリとレギュラスの眉が動いて空気が変わった。
俺がその単語を言う事が不思議だとでも言うように。
「もし、親父が俺の思うままに好きなように生きれば良いって言ったって言ったら、信じるか?」
「父上が、ですか?」
「そんな顔すんなよ…俺だって信じらんねえんだから」
レギュラスの顔には信じられないと書いてある。
やっぱり、名前が面白がって言っただけなのだろうか。
ニヤリと笑う名前の顔を思い出して溜息が出て来た。
「忘れてくれ」
じゃあな、とレギュラスに背を向けて一歩踏み出す。
どう考えたってあの父親がそんな事を言う訳が無いのだ。
どうしてこんな事を信じてレギュラスに言ってしまったのだろう。
黙って、嘘なのだと流してしまえば良かったのに。
何回目かの溜息を吐いた時、後ろから呼び止められる。
振り向いた先のレギュラスは複雑そうな顔をしていた。
「何だよ」
「…いえ、何でもありません。失礼します」
スッと表情をいつものように戻すとレギュラスは背中を向けて歩き出す。
いつの間にか大きくなっている背中に少しだけ、心が動いた気がした。
(20131005)
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