ビルさんとの生活は意外にすんなりと受け入れる事が出来た。
家事をしていれば手伝ってくれるし仕事をしている間は私の本を読んでいる。
日本語なのに読めるのだろうか、と思ったけれど今のところ何も言わなかった。
会話も出来ているからビルさんはもしかしたら日本語が完璧なのかもしれない。
伸びをして固まった肩を動かすと後ろで本を閉じる音がした。
ビルさんが持っているのは私の好きな作家のミステリー物。
紅茶でも淹れようか、と立ち上がるとビルさんが首を傾げた。
「紅茶、淹れるの?」
「うん。ビルさんも飲む?」
「僕が淹れるよ」
にっこり笑って本をテーブルに置くとキッチンへ向かう。
その背中を眺めながらソファーに移動するとビルさんの読んでいた本を手に取る。
そこに書かれている文字は確かに日本語で、何も変わったところは無い。
お湯を沸かしているビルさんを見て考えてみる。
これまでに会話に困った事は一度も無い。
堅苦しいからという理由で敬語を取っ払った今でもそう。
けれど、ビルさんはテレビを見ようとはしない。
「お待たせ」
「あ、有難う」
ふるふる、と首を振って自分のカップを持つ。
私も自分のカップを持ち上げるととても良い香りがした。
同じティーバッグなのに、何故かビルさんが淹れると美味しい。
ビルさんが居るのだし、茶葉を買ってみようか。
「ビルさんは、前に日本に来た事があるの?」
「無いよ。日本語も解らないんだ」
「え?でも今喋って…私の言葉、何に聞こえる?」
「英語、に聞こえるけど」
二人で顔を見合わせて同じように首を捻る。
確かに私にはビルさんの喋る言葉は日本語に聞こえるのだ。
「じゃあ、この本は?」
「あ、それは…実は読めないんだ」
苦笑いをしてビルさんは本当の事を話し始める。
本を読んでいれば私が気兼ねなく仕事に集中出来るだろうと考えたらしい。
全く気が付かなかった上にビルさんに気を遣わせてしまった。
尋ねなかった私も私なのだけど。
全く読めない本を眺めるというのは退屈な筈。
「ビルさんは英語なら読める?」
「うん」
「解った」
「名前さんは、英語喋れない?」
「全然駄目。英語の授業なんてさっぱりだったんだから」
そっか、と小さく呟いてビルさんは紅茶を飲む。
何かを考えているように見えたから、話しかけるのは辞める。
彼がテレビを見ない理由も解ったし、本が読めないのも解った。
テレビはもう仕方無いとして、本ならどうにか出来るだろう。
手帳で予定を見ながら考えてみる。
以前なら打ち合わせで出掛けたりした時はこんなに急がなかった。
近くにあるお店で食事を済ませたり、買い物をしてみたり。
けれど、ビルさんが待っていると思うと自然と足が速く動く。
少し寄り道をしてしまったから余計急がなければと思うのかもしれない。
でもあの寄り道は必要な寄り道だったのだ。
「ただいま」
「あ、お帰り」
返事があるというのは何だか自然と嬉しくなる。
やっぱり人間は独りでは生きていけない生き物だ。
「何か、荷物多いね。持つよ」
「有難う。でも大丈夫」
「名前さんは女の子なんだから、貸して」
部屋までだし、それに女の子という年齢でもないのだけど。
半ば無理矢理に荷物を取られて甘える事にした。
それに、女性として見られて悪い気はしない。
ビルさんに続いて部屋に入ると買った物の中から紙袋を持って差し出す。
「あのね、これなら読めると思うの」
「え?」
「内容はよく解らないんだけど、何冊か買ってみた」
ガサガサと紙袋の鳴る音がして現れた英語で書かれた本。
タイトルが全く読めなくて、悩みながらも感覚で選んできた。
ジャンルだって解らないし面白いかも解らない。
けれどこれでビルさんは読むフリをしなくて済む。
ビルさんは本を見つめたまま固まってしまっている。
やっぱり、面白そうとは思わなかっただろうか。
「ど、どうかな?」
「うん、読めるよ。有難う名前さん」
恐る恐る声を掛けた返事がとても無邪気な笑顔付き。
とりあえず喜んで貰えたらしく、ホッと息を吐いた。
(20130417)
4