編み針を動かしながらテレビの音を拾う。
桜の開花予想が案外遅くて、間に合えば良いなと無意識に考える。
途端に不安とも焦りとも言えない感情に襲われた。
これではいけない、と深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。
ビルが居なくなる可能性はずっと、それこそ出会った日から解っていた事なのに。


「ただいま」


扉の開く音とビルの声、それから服と袋の擦れる音。
お帰り、と声を掛けると身を屈めたビルの唇が頬に触れた。
そして買ってきた物を整理しに向かう。


「大分出来たね」

「ん、半分位かな」

「楽しみだな」


ビルのポニーテールが動きに合わせてゆらゆら揺れる。
楽しみという言葉が嬉しくて気合いを入れ直す。
私はきっとビルのお母さんのように上手じゃない。
それでも楽しみだと言ってくれるのなら、頑張ろう。
それに、私が編んだセーターを着るビルを見るのも実は楽しみだったりする。


「名前、お昼サンドイッチで良い?バゲット買ってきたんだ」


ほら、とバゲットを見せるビルに頷くと笑顔が返ってきた。
やり取りに幸せを感じながらまた編み針を動かす。




昼食を終えてビルの背中に体重を預けながら英語のテキストを眺めていた。
ああ、やっぱり難しい、と思いながらもぶつぶつ単語を呟くとビルが偶にアドバイスをしてくれる。
どうやら私が英語を話すと流暢だった話し方が途端にたどたどしくなるらしい。
逆にビルが日本語を話すと確かにたどたどしく聞こえるから同じような物なのだろう。


「難しいなぁ」

「そうだね。外国語は難しいよね」

「ビルは日本語どう?」

「ちょっとだけだよ。単語は言えても会話は出来ないなぁ」

「…買い物の時どうしてるの?」

「ふふふ」


秘密とでも言うように笑うビルの背中が揺れた。
きっと魔法を使っているんだろう事は解る。
突然触れ合っていた背中が離れてビルが立ち上がった。
空になっていたカップを二つ手にキッチンへと進む。
お湯を沸かす一方でティーポットに茶葉を入れている。
この一年ですっかり見慣れた動作だった。


ジッと観察していると顔を上げたビルがにっこり笑う。
何て事はないやり取りだけれど、私の心を満たすには充分。
テキストに目を戻してまたアルファベットを追う。


「名前」

「え…ビル!」


名前を呼ばれた事より切羽詰まった声に慌てて顔を上げるとビルが見えなくなった。
慌てて立ち上がり、ビルの所へ行くと床に座り込んでしまっている。


「ビル、どうしたの?体調悪い?」


声を掛けてもただビルは首を振るだけ。
目を閉じて、片手で頭を押さえている。
もしかして頭が痛いのだろうか。
空いているビルの手を握るとギュッと握り返される。


「大丈夫?」


もう一度声を掛けるとゆっくり顔を上げたビルと目が合った。
いつもと同じ、綺麗な綺麗な青色の瞳。


「一緒に居たい」


そう言った瞬間にビルの姿が消えた。
握っていた筈の手も、見ていた青色の瞳も。
先程まで確かに目の前に居た筈なのに。

まだ手がビルの手の感触と体温を覚えている。
いつかこの時が来ると解っていて、そのいつかが来たまでの話だ。
ビルだってちゃんと近いうちだと言っていたじゃないか。


「セーター、間に合わなかったなぁ」


ポツリと呟いた自分の声が何だか震えているような気がした。




(20140424)
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