▽ 赤司くんの恋心
熱が出たから休ませてほしいと白雪姫役の女子から連絡があったらしい。急遽代役を立てることになったが誰も白雪姫のセリフなんて覚えていなかった。
もちろんストーリーは大体の人が知っているだろうが、誰だってうろ覚えのまま演技なんてしたくはない。かと言って中止になんてできるはずもなく、どうしたものかとクラスメイトたちが囁き合っていたときだった。
「いつも一緒に練習してたから、白雪姫のセリフは全部覚えてるよ?」
何とも頼もしい発言にクラスメイトたちが一斉にそちらを振り返った。そして全員が、お前が全部覚えていて何になるんだと思っただろう。
「橙矢くんが白雪姫役をしたら、王子役がいなくなっちゃうんだけど…」
こんなときにそんな天然発言はやめてくれと言いたげに、実行委員が頭を抱えていた。
かと言ってあずさは主役代理の最有力候補である。用意されていた衣装もあずさだったらピッタリだろうし、こうなったら白雪姫はあずさに任せて王子役の代理を決めようという話になった。王子のセリフは少ないから一時間もあれば覚えるだろうと。
「ということで赤司くん、王子役を頼んでもいい?」
「いや、オレは…」
「いくらセリフを全部覚えてるって言っても男が女の子の役をするわけだし、赤司くんが一緒の方が橙矢くんも安心するんじゃないかなと思って」
実行委員の向こう側に、ドレスに着替えたあずさが女子に囲まれているのが見えた。似合ってるよ、橙矢くんカワイイと、はしゃぐ女子に困ったような笑みを浮かべたあずさを見て、オレは、
「……オレでよければ」
セリフも動きも完璧に覚えたはずだった。本番前に軽くリハーサルでは何も問題はなかったし、そもそもオレが失敗するなんて微塵も思わなくて。
棺の端に置いた手が滑るだなんて誰が想像できただろう。寸止めではあったがキスをするために上体を倒していたこともあり、オレは思い切りバランスを崩してしまった。
一瞬だったのかもしれないし一分ほどそのままだったのかもしれない。時間の感覚が分からなくなるくらい、唇に当たるそれの正体に気が付くまでえらく時間を要した。
あれは事故だとあずさに弁解しなければならない。早く謝って何もなかったことにしなければならない。そうすればこれからも、何も知らないあずさの隣で過保護な幼馴染みを演じていられるから。
だけどこれ以上、自分の気持ちを隠したままあずさの隣で笑っていられる自信がなかった。
***
「今日の昼休みは練習試合の打ち合せがあるとメールしただろう。虹村さんがご立腹だぞ」
「え、あ、うそ…っ!」
将棋がしたいとオレを訪ねてきていたあずさは、赤司の言葉に真っ青になって教室を飛び出していった。あずさと入れ替わるようにこちらに近付いてきた赤司の視線は広げたままの将棋の駒に向けられている。
「お前は行かなくていいのか?」
「ああ。それより次はどちらの番だ?」
「オレなのだよ」
どうやらあずさの代わりに相手をするつもりらしい。あずさのおかげで戦況はこちらの方が断然有利で、もしかしたら今回はこちらに軍配が上がるかもしれないと淡い期待を抱いた。
「打ち合わせがあると直接教えてやればよかっただろう。なぜわざわざメールなんだ」
クラスも一緒、家も隣同士。学校でも部活でも大体一緒にいるというのに、わざわざメールで伝えるだなんてコイツはどういうつもりなんだろう。
……いや、そういえば最近はあまり一緒にいるところを見かけないような。
「あずさと喧嘩でもしたか?」
「……喧嘩ではないよ」
それまで微動だにしなかった赤司が不意に一つの駒を手に取った。もう動かす場所はどこにもないだろうと思っていたオレは驚いて赤司の顔に視線を移す。
「たぶんもう、今まで通りではいられない」
いつの間にか勝負はついていた。あの劣勢から見事に大逆転して見せた赤司は得意げでも満足そうでもなく、何かを耐えるように俯いていた。