▽ とんでもないハプニング
一瞬だったのかもしれないし一分ほどそのままだったのかもしれない。時間の感覚が分からなくなるくらい、唇に当たるそれの正体に気が付くまでえらく時間を要した。
観客もクラスメイトも王子が仕出かしたとんでもないハプニングに気付いていない。衝撃的な出来事に目を見開き固まる白雪姫と見つめ合いながら、白雪姫が目覚めたあとは何をするんだったかと必死に考えた。叩き込んだはずのセリフは頭から抜け落ちてしまっていて、心臓が口から飛び出しそうになる。
ああ、どうしてこんなことに。棺の中からむくりと起き上がった白雪姫の顔は、その身を犯した毒リンゴよりも真っ赤に染まっていた。
***
「お前はどっちかっつーと王子より姫じゃね?」
青峰くんのその一言にあずささんがへそを曲げたのは一週間ほど前のこと。あずささんは「文句あるなら見に来ないで!」と怒ってクラスの演劇が何時から始まるのか教えてくれなかった。
口止めされたらしい赤司くんも曖昧に笑うだけで教えてくれなくて。結局ボクたちが演劇の開演時間を知ったのは文化祭当日のことだった。
「え、あずささんの演劇ってもう始まってるんですか?」
「は、早く行こうよ…!あずさくんの出番は最後の方だし、もしかしたら間に合うかも!」
クラスメイトにシフトを代わってもらい、執事服のまま体育館への道を急ぐ。同じく衣装を着たままだった黄瀬くんは一緒に写真を撮ろうと女子に呼び止められていたけれど、「ごめん、またあとで!」と適当にあしらっていた。
薄暗い体育館に慌てて駆け込んだものの、ステージでは軽音楽部の出し物が行われていた。どうやら間に合わなかったらしい。
「あ?何だよお前ら、今来たのか?」
「虹村、先輩……。こんにちは」
ちょうど体育館から出ていくところだったのだろう。息を乱すボクたちを見て、虹村先輩は呆れたようにそう言った。
「橙矢が出るっつーから見に来たけど、なかなか面白かったぜ?」
「えー!見たかったっス……」
「青峰くんがあずさくんを怒らせなければこんなことにはならなかったのに…」
「あー、そういやあの衣装のまま文化祭回るって言ってたな。校内に戻れば会えるんじゃねえの?」
「ホ、ホントですか!?早く行かないと…!」
失礼します、と先輩に頭を下げて、先ほど走ってきた廊下を逆走する。そんなボクらの後ろから、「橙矢に会ったら、なかなか良かったぜって言っとけよー!」なんて虹村先輩の声が追いかけてきた。
***
折角だから衣装のまま文化祭を回ってきて、とクラスメイトたちに言われたけれど、とてもそんな気分にはなれなかった。
演劇の成功を喜ぶクラスメイトたちの輪の中に征くんはいないのかと探したものの、あの赤い髪はどこにも見当たらない。どうやら演劇が終わったと同時に消えてしまったらしかった。
いつもだったら征くんは忙しいからなあ、で済むことなのに。それでも今回ばかりはこの場にいてほしかった。
なぜなら先ほどまで立っていたあの舞台上では、とんでもないことが起こっていたのだから。
何と言ってクラスメイトたちの輪から抜け出してきたのか、自分でもよく分からなかった。文化祭を楽しむ生徒たちの喧騒なんて気にならないくらい、校舎裏は静かで人気がない。
とにかく一人になりたかった。借り物の衣装だから汚したら怒られるけど、なんだかもう、そんなことはどうでもいい。地面にペタリと座り込んでぼんやりしていると、ジャリ、と砂を踏みしめるような音が聞こえた。
「あららー?あずさちんってばこんなとこで何やってんの?」
掛けられた呑気な声にゆっくりと顔を上げる。フリフリのドレスを恥じらうことなく着こなした紫原くんにいろいろと突っ込みたくなったけれど、それよりも先に「さっき赤ちんと会ったんだけどさあ」と気怠げに言った。
「何で赤ちんが王子様の格好で、あずさちんがドレスなんて着てんの?」
こてん、首を傾げる紫原くんと見つめ合う。
唇にはまだ、あの柔らかい感触が残っていた。