×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -

■ 忘却の彼方

私は森の中にいた。一人ではない、私の腕を掴んだ男の人も一緒だった。おそるおそる見上げる私に、彼はニタリと笑う。
牙が見えた。普通の人間ではありえないほど、鋭くとがった牙だった。

『うまそ』

そう言って舌なめずりをする男が私の首に顔を埋める。私の抵抗など物ともせず、男の舌が私の首筋を舐め上げた。怖い、こわい、コワイ。誰か助けて、誰か、

『……っ!』

私を捕まえていた男が吹き飛ばされる。その拍子にふらりと傾いた体を、誰かが後ろから抱きしめた。
土煙の向こうで吹き飛ばされた男がゆらりと立ち上がる。それを見て再び覚えた恐怖にガタガタと震え始めた私を抱き上げたその人は、私と目を合わせて呪いの言葉を呟いた。

『君は今見たことを忘れる。そして、』

『次に僕が起こすときまで、しばらく眠っているんだ』

途端に重くなる瞼の向こうで、血ではない赤を見た気がした。





はっとして目を開くとベッドの中だった。今のは夢…だったのだろうか。ただの夢であるはずなのに、昔経験したことがあるような懐かしいような、何とも言えない奇妙な感覚だった。深く息を吐きながら寝返りを打って天井を見上げる。昨日の記憶がひどく曖昧だ。たしか赤司さんに吸血されそうになって、屋敷を飛び出して、森を彷徨っていたらオオカミに…。

「…あ、れ?」

昨日私はオオカミに襲われたときに肩にケガをしたはずなのに、痛みどころか違和感さえ感じない。襟元を引っ張ってケガをしたはずの肩口を見たけれど、特に傷なんて付いていなかった。
…ケガ、しなかったっけ。それとも昨日のことは全部夢だったのかな。屋敷を飛び出したことも赤司さんに吸血されそうになったことも、全て悪い夢だったのかもしれない。
…それじゃあ、昨日あの人がオオカミから助けてくれたのも夢だったのかな。落ち込む私とは裏腹に窓の外はとてもいい天気だった。

「…?」

バルコニーに何かが落ちている。首を傾げながら窓を開けてそれに近づくと、それは色とりどりの花束だった。誰がこんなこんなことを。訝しく思いながら花束を拾い上げて周囲を見回してみたけれどそれらしき人は見当たらなくて。とりあえずその花束を抱えて部屋に戻った。
花束には手紙が付いていた。宛先に"縹木かえで様"とは書いてあるけれど差出人の名前がない。怪訝に思いながら封を開けて便箋を取り出すと白いきれいな紙にはたった一行のメッセージが綴られていた。

―――もう森に入ってはいけないよ。危ないからね。

心臓が音を立てて跳ねる。うそ、でしょう?だってこの言葉は、

『もう森に入ってはいけないよ。危ないからね』

あの人が…森で迷子になっていた私を助けてくれたあの人が、私に掛けた言葉なのに。
花束を抱えたままバルコニーに飛び出したけれど、先ほど確認したように屋敷の周囲には誰もいない。でもたぶん、いや絶対、この花束の差出人はあの人なんだ。それに私が森に入ったことを知っているということは、もしかして。
やっぱり私を助けてくれたのは、あの人なんじゃ…?
たった一行の手紙なのに飽きることなく何度も何度も目を通して、それから花束をそっと抱きしめる。嬉しくて嬉しくて、気づけば私の目からは涙が溢れていた。

title/秋桜


[ prev / next ]