力尽きた★


からり、と異界の扉を開けたのは、いつも通り、一人の学生だった。
彼女は小さく、「ぬくい」と呟いた後、着ていた厚手のダッフルコートを脱いだ。この温室の中は、異界と言っても差し支えもない。そろそろ寒さの忍び寄る外とは打って変わって、年中変わらずぽかぽかと温かい場所。それがこの温室、市立みなみ植物園だった。植物園、といっても、小さな市が建てた、小さな温室だ。市内で自生している珍しい植物や、外国の植物が集められている。この温室では、温かい所で育つ植物を見ることができる。
少女は慣れた様子で広い温室を真っすぐ突っ切ってゆく。温室の隅には、一据えのテーブルがあった。白く塗られたプラスチックの安っぽいそれの上には大きなじょうろが置かれている。中を覗いてみれば並々水を称えている。彼女は一つ溜息をついて、じょうろを持ち上げた。
(いつもより、部屋を囲む植物が蒼いみたいだ)
手近な植物から水をやっていく。
葉に水をかけるのではなく、根本付近の土にかける。回りに小さな水溜まりが出来るくらい、たくさん。水やりはもう手慣れてしまった。何年もここに通いつめているのだから。
部屋中をわさわさと生い茂る緑はどれもよく手入れされていて、窓から差し込む日光を受けてきらきらと輝きながら、息づいている。その植物達の立派たるや、育てている者の愛情が観ている者にそのまま伝わってくるよう。余程、大切に育てなければ、仮令鑑賞植物といえど、ここまで美しくはなるまい。思わず、溜息をつく。
私もこんな風に大切にされたら。
なんて。少女漫画の読みすぎだ。
彼女は手入れの行き届いた植物を眺めながら、ふと、じょうろを握る自分の手に視線を落とした。決して手入れしているとは言い難いそれを見て、少し笑みを漏らす。
彼女、笹原が放課後すぐ、この緑の支配する植物園に直行するのは珍しい事ではない。もはや、笹原の習慣と言える程、頻繁かつ日常的な事だ。
「おや、笹原さん。水やり、お疲れさまです」
じょうろの水が無くなりだした頃、不意に背後から声をかけられた。瞬間、笹原の顔が輝く。勢いよく振り向けば、壮年の男性が柔らかな笑顔を称えて、立っていた。少女は蕩けるような笑みを浮かべて、彼の名を呼ぶ。
「香坂さん!」
彼、香坂氏は少女を見下ろして再びにこりと笑んだ。
香坂氏はこの植物園の園長である。この小さな植物園は実質、彼一人が切り盛りしている。
「水やりお疲れさま、なんて。テーブルの上にわざとじょうろを置いてたくせに」
圧力です、とふくれて見せれば、彼は困ったように笑った。
「みな美さんは水やりは上手ですから。上手な方に水やりをしてもらった方がこの子達も喜びます」
慇懃な口調で香坂氏は語る。
彼は優しくベンジャミンの葉に触れ、撫でる。その姿は植物に対する愛情を表しているよう。思わず、笹原はそんな彼に見とれてしまう。そんな少女の気持ちを知ってか知らずか。彼はふと、少女を見下ろして、
「水やりをしてくれたご褒美、あげましょうか」
と、笑った。
「ご褒美って?」
香坂氏の笑顔にくらくら打ちのめされかけながら、少女は彼を見上げた。
「これです」
香坂氏は作業着のポケットから小さな紙袋を取り出した。少女の手にそれを渡す。
「これは?」
「キンセンカの種です。この時期に種を蒔けば、春には可愛い花が咲きますよ」
「あっ、ありがと!」
キンセンカ。
秋に種を蒔く一年草。春なると、次々、黄や橙の花を咲かせる。花言葉は、
(「別れの悲しみ」……)
笹原はぎゅうと紙袋を抱き締めた。
「お仕事、辞めるそうですね」
香坂氏を仰ぎ見れば、彼は目を丸くした。「ばれてしまいましたか」と、苦笑される。
そりゃあ、分かっちゃうよ。こんな分かりやすいもの貰っちゃったらさ。
非難めいた言葉を少女はなんとか呑み込んだ。
「やっぱり、迷惑だったよね。あんな告白されてさ……」
泣くな、ばか。

[2013.0405]




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