約束 | ナノ
見上げた空には月も星もなかった。
目の前に広がる海も、黒かった。そこには日の下で見るエメラルドグリーンの面影ひとつない。
ただ暗いだけの景色は、なんとなく気持ちを不安にさせた。

別に、夜の海を見に来るなんて初めてのことじゃない。
夜の砂浜には人がいないことが多く、匿われていた身としては、特訓をするのにうってつけだった。
休憩の時や、帰り道、常にそこにあったから。
月の映る明るい夜も、風の強い荒れた夜も、今のような夜も、見てきた。それも何度も。疲れた体に触れる夜風は心地よくて、表情をころころと変える海にこんな感情抱いた覚えは無い。ふと、離れていた仲間達のことを思い出して感傷的になることはあったが。


俺より数歩先で立ち尽くす雷門は、もうしばらく前方を見つめたままだ。随分熱心に見ているのは、海そのものが珍しいからか、黒い景色に何か思うことがあるからなのか。
表情は伺えない。
近寄れば可能だが、隣に並ぶのは、躊躇われた。
そこに立つ雷門の姿は、その向こうに広がる景色にピタリと当てはまっている。雷門がそこに立つことによって完成させられた絵のようで、近づいたら、壊してしまうと思った。
壊してしまうには、あまりに雷門の後ろ姿が真剣だから。
どこか浮き世離れした景色は不安をじわじわと広げていく。どうにかしたくて、でもどうしたらいいか分からなくて、その景色を目に留めておくことしか出来ない。



急に笑い声が届いた。
ひとりふたりではなく、大勢によるもの。

静かだった景色は、わずかに緊張感を崩したように感じた。

背後を振り返る。暗い闇の広がる海とは対照的に、その先では民家の明かりがぼんやりと輝いていた。

声の正体は聞き慣れた、けれど久しく聞くことの無かった喧騒。
ここからは見えないが、聞こえてくる方向はキャラバンが待機しているほうからだった。一際良く通る声の持ち主は円堂だ。強く温かみのある声色が、今になってひどく懐かしく感じて、俺はようやく戻って来れたのだと実感した。

皆のいるところに。

当たり前に一緒にいると思っていた仲間たちとの別れはただただ辛かった。理由も言えないまま立ち去ることしか出来なかったそれは木戸川を辞めた時と同じようで、また繰り返してしまったのかと思うと、少しも成長出来ていない自分が嫌でたまらなかった。
大切なものを守れない無力さ。仲間を裏切るような行為。どれもこれも。ひとりでは何も出来ない現実を突きつけられ、打ちのめされた。

それでも、今日の再会は、そのどれも吹き飛ばせたような気にさせた。
こんなところまで来た円堂達は、変わらない熱意で俺を受け入れてくれた。
なかには初めて会う奴らもいたが、円堂のもとに集う者は皆似た何かを持っている。それが心地よくて。
そんな仲間と、再び同じフィールドで戦えた。俺の居場所は、確かにそこに存在していると体感した。

どれほど嬉しかったか。楽しかったか。皆がいれば、もう何にも負ける気がしないと思えた。



相変わらず騒がしい陽だまりのような空気は、俺に早く帰って来いと言っているようだった。
鼻の奥がツンと痛む。

やっと取り戻したところに、無性に帰りたくなった。

なぁ、帰ろう、と雷門に声をかけようと前に向き直る。

しかし出そうとした声は、喉に張り付いて吐き出されはしなかった。
音に鳴らない呼吸だけがすり抜けて、動揺する。

どこまでが海でどこからが空なのか、水平線の混ざり合った曖昧な黒に、雷門の姿は今にも飲まれて溶けてしまいそうだった。

いや、そんなこと、あるはずないことは分かってる、でも。

不安が加速する。不安はやがて恐怖に、急速に変化した。心臓の音が早まる。

慌てて手を伸ばして、雷門の手首を掴んだ。
触れた素肌は、確かな人の感触がした。
勢い良くこちらを振り返った雷門の目は大きく見開かれていた。

「・・・どうしたの」

尋ねてきた声と視線に、気まずさを感じて、思わず目をそらした。

「いや・・・」

別に、と口篭るしかなかった。
どう説明すればいいか分からない。


雷門が、消えてしまうんじゃないか。


そんなことを思ったなんて。言ったところでおかしいだけだろう。

「・・・帰らないか」

それだけ言うと、そうね、と雷門は頷いた。
離すタイミングを失った手をどうしたらいいか分からず、けれど雷門も何も言わないから、その手首を掴んだまま、歩くことにした。強く握り締めないように、慎重に掌に力をこめた。

俺が一歩踏み出せば、雷門も一歩、歩を進めた。
動き出したことで景色から離れていく。黒い海も、空も、もう雷門を包んではいない。
早く離れなければという気持ちが、わずかに足を速めさせる。


「地球って本当にまるいのね」

ふいにそんなことを言われたので、雷門のほうを見た。

「ずっと空と海の境目を見ていたの。あんなに広い水平線をじっくり見るなんて初めてだったから。ああいうところで見渡すとちゃんと分かるのね。
それが当たり前だと頭では理解していても、実際に目で見て実感するとなんだか感動的で」

雷門は、瞳を輝かせている。その輝きは向かう先のように希望に溢れている。
俺にとっては恐怖の対象でしかなかったそれは、雷門の目にはとても魅力的に映っていたのだ。

同じ景色を見ていたはずなのに、こんなにも見えていたものが違うとは。

後ろ姿ひとつからその真意を図ることなんて出来ないらしい。

「豪炎寺くんは、何を考えていたの?」

尋ねてきたその声は、興味津々といったふうだ。
しかし、どうにも正直に話す気にはなれない。

「黒いと思った」

「・・・黒い?」

訝しんだ口調で、雷門は聞き返してきた。

「ああ」

「それだけ?」

「・・・ああ」

もっとちゃんとした、面白みのある返答を期待していたのだろう。そう、とつぶやかれた気のない相槌がそれを物語っている。
申し訳なく思うものの、それでもやっぱり上手いごまかし方は考えつかなかった。


掴んだままの手首は、わずかにだが血の巡りを感じさせる。じんわりとぬくいそこに、雷門がちゃんとここに存在することに、ようやく少し安堵した。
それと同時に思わず溢れたものは、切実な希望だった。

「どこにも行かないでくれ」

なぜ言ってしまったのだろう、とすぐに頭を抱えたくなった。
柄にもなく、確かな約束が欲しいと思ってしまった。そんな不確かなもの、なんの意味も無いとは分かっているつもりなのに。
この手に今感じるぬくもりも、向かう先の居場所も。守りきる自信の無い弱さを露見させてしまったようで、歯噛みする。

「・・・そんなこと言って、いなくなったのは豪炎寺くんのほうじゃない」

何を言っているの、と不満げに言い返されて、苦笑いする。確かに、そのとおりだ。

雷門が手首をゆするので手を離すと、空いたそこにするりと指を絡められた。
しっかりとつなぎ直された掌と掌の間には温かみが増した。

「ねぇ、豪炎寺くん」

雷門は歩幅を大きくして、俺の隣に並んだ。
意識して歩調をそれ合わせて、ゆっくりにする。
横顔を見ると、穏やかに微笑んでいた。きれいだった。

「どこにも行かないっていう保証は、どこにも無いと思うの。
今回のあなたのことのようにどうしようもない理由や、そうじゃなくても個人の意思や、そういうものでいつも同じ場所にいることを選べるとは限らない。
絶対なんて無いと、わたしは思っているわ」

俺の発言を否定するような言葉は、けれど、冷静な意見だと理解出来る。絶対なんて無いことも、当たり前にあると思うものはそうでないということも、嫌というほど身をもって経験した。
ここで有りがちな、その場しのぎの同意などされれば、余計空しい気持ちになるだろうことは容易に想像がついたから、雷門の正直な物言いにほっとする。

「でも、わたしはそれでも平気よ」

しかし続けられた言葉は、俺には予想外なものだった。

「だって、あなたはこうして戻ってきたじゃない」

意図が分からずに、狼狽える。

「・・・そんな保証は、無かったじゃないか」

俺が戻って来るなんて。
つい今、雷門自身も言ったはずだ。保証なんて無いと。

「あら、それは出ていった時の話でしょ。離れても会いたいと願っていれば、それは行動になるもの。同じ世界にいる限りまた会えるわ。
だいたい、あなたがここに戻ってきたいと思わないはずないじゃないの。あなたが今ここにいることが、その証明だわ」

ほとんど屁理屈のようなことを自信満々に言う雷門に、唖然とする。

今日までのことをそんなふうに思っていたのか。

「・・・不安じゃ、なかったのか。怪我で離脱しなくてはいけなかった奴らもいるのに?」

聞きながら、風丸や染岡たちのことを脳裏に思い浮かべた。雷門サッカー部の見知った連中が、何人もここまで来れなかったことは気がかりだった。
あいつらは、無事に戻って来て合流出来るのだろうか、不安を拭えないでいる。

「全くなかったと言ったら嘘になるけど。彼らだって、いずれ戻って来ると、わたしは信じてる」

だって皆、サッカーのことも円堂くんのことも、大好きでしょう?

さも当たり前のように言った雷門の声は、静かだったが、確かな強さを感じさせた。

「・・・そんなものか?」

雷門は頷いた。

「好きという気持ちは偉大よ。友愛でも敬愛でも、恋愛でもね」

そんな、不確かな気持ちひとつが、何よりもの証明だと言う。
けれど、心のどこかで俺は、その不確かな確信に期待をしたかった。

「待つ側が不安がっていては、向こうだって戻ってきにくいのではなくって?
あなただって笑顔で迎えられたのだから、今度はあなたが迎え入れる番よ」

ふふ、と笑う雷門の長い髪を、ゆるやかな風がなびかせた。

「それで、話を戻すけど、わたしはいなくならない保証は出来ないと言ったわね」

「ああ、そうだ」

「でも、どこへ行っても、かならず戻って来るわ」

繋いだ手が強く握られた。

「かならずまた、会いに来る。どんなことがあっても。どんな道を選んでも。またあなたや、皆に会いたいと思うから。
だから豪炎寺くんも。もしもまた、離れなくてはいけない時がきたとしても、こうして戻って来てね」

真っ直ぐにこっちを見て、約束よ、と念を押された。

「・・・ああ、きっと、かならず」

約束は交わされた。
それは形には出来ない、ものにして確かめることの出来ない、本当に守られるかは分からない、不確かな言葉だった。

それでも。
信じたい、実現したいと思える力があった。



ほどなくして、皆の姿が、遠くに見えてきた。
どちらともなく繋いでいた手を離すと、仲の良い木野の姿を確認出来たのだろう。雷門は小走りで輪のほうへ向かって行った。

駆けていく後ろ姿を目で追い、それから繋いでいたほうの掌を見下ろした。

この手ひとつでは、何も出来ない。
いつ何に、誰に、邪魔をされたっておかしくはない。
それでも、仲間がいれば、ひとりでは抗えない物事にも立ち向かうことが出来る。
大きな力になる。

例えばまた、仲間と離れる時が来たとして。
ひとりにならなくてはいけなくなったとして。
けれど、それは本当にその存在を失うこととは違う。

どんな道を選んでも、何を選択しても。
それがどれだけ遠く離れた距離になってしまおうとも。

約束を果たそうと、思った。
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