無自覚恋愛 | ナノ
りゅーごくん
なんて、唐突だった。
それはあんまりにも聞き慣れない、丸っこい音だった。
口の中でゆっくりと甘さを含ませながら吐き出されたそれに、染岡の心臓はどきりとした。
それから自分の名前を呼ばれたのだと彼の脳が処理を下すのに、随分と時間がかかってしまった。
染岡は自身の足元を見ていた目線を、不可解な言葉の発信源である吹雪に向けた。
どこからそんな声を出したんだと、訝しげに。
夏特有のぎらついた日射しがバカみたいに痛くて蒸し暑いなかを、二人は歩いていた。
横に並んでのろりと行く二人の間には大きなビニール袋がガサガサと音をたてている。
それぞれの左右の手から下がっている袋の中身は十数人分のスポーツ飲料水のペットボトルだ。
キャラバンのみんなでじゃんけんをして負けた二人が全員分の飲み物を買ってくる、という簡単な賭け事が発端だった。
見事に二人揃って負けて、その買い出しの帰り道でのことだった。
「なんだよいきなり、変な呼び方して」
「さっき、買い出しのじゃんけんが始まる前に木野さんと音無さんと話してたんだけど」
歩いている速度のように、染岡には吹雪の口調がいつもよりのろのろして聞こえた。
雪国育ちの吹雪には、染岡が体感しているよりもこの暑さはしんどいものに違いない。
それでも、テンポが悪いわりに口調は愉しげな雰囲気を含んでいる。
「二人が、好きな人を下の名前で呼ぶのって特別な感じがしないかって言ってたんだ」
「・・・なんだそれ」
染岡の眉間にしわが寄るのを見て、吹雪は微笑んだ。
「最初は好きな人いないの?って二人に聞いてたんだけど。
そこからこういうデートが理想だよねっとか妄想話に発展してさ、そのひとつに名前呼びっていうのが出てきたんだ」
可愛いこと考えてるよねぇ。
そう言いながら、マネージャー達の姿を思い浮かべる吹雪の目元は優しく細められた。
染岡にしてみればマネージャー達と所謂恋バナめいたものを軽い調子で出来てしまう吹雪の器用さに感心せずにはいられない。
「女の子ってそういうのにこだわるところ、あるよね。
付き合ったら名前で呼び合うのが理想だってはしゃいでた。
男子はなかなか友達同士でも名前を呼ばないし、女の子もよっぽど仲が良くないと男子の名前を呼ぶことってないから、特別な感じがして嬉しいんだって」
「名前、ねぇ」
「そう」
吹雪が頷く。
眉間のしわをより深くしながら、染岡はうーんと唸った。
「よくわかんねぇかも」
呼び方なんて。
自分自身が身内以外から名前を呼ばれる機会が全くと言っていいほど無いからだろうか。
苗字で呼ばれることが当たり前過ぎて、下の名前で呼ばれるのはなんだか心臓に悪かったと、ついさっき吹雪に呼ばれたときのことが頭に過った。
それに、男がそういうことにこだわるのはなんだか女々しく感じられて、如何にもそういうのが似合わない自分には関係のないことに思える。
女子に聞かせたら夢が無いと、呆れられるのだろうけど。
そう答えれば「染岡くんならそう言うと思ったよ」と吹雪に予想していた通りだったと言わんばかりな顔で頷かれたので、染岡はうるせぇと悪態をついた。
なんとなく、まだ出会って間もない吹雪にそんなふうに笑われたのは照れ臭かった。
「じゃあお前はどう思ったんだよ」
「それが僕もよく分かんなかったんだ」
「お前も人の事言えねーじゃん」
「うん、だから、試そうと思ってさ。
ねぇ、呼ばれてどうだった?特別って感じした?」
吹雪が熱心な声で聞いた。
好奇心とイタズラめいた色がちらつく目で染岡を見る。
「・・・聞き慣れねぇわ」
少し考えてから染岡が率直な感想を洩らすと、吹雪はその目を三日月に歪めた。
「そっか」
そう答えると、ふいに染岡の顔を覗き込む。
「染岡くん?」
「おう」
「りゅうごくん」
「なんだよ」
「りゅうくーん」
「・・・しつけえって、この、バカしろう」
染岡のその言い方に吹雪は思わず目を見開いて、それから、声を上げて笑った。
嫌そうな口調ながらも染岡が笑いながら律儀に返事を返して、更にはノリ良く自分の名前を呼んだことに嬉しくなった。
それから二人は、互いの名前を呼び合ってふざけ始めた。
「吹雪さん」
「なーに、染岡さん」
「なんでもねーよ」
「あはは」
ビニール袋を揺らして、思い付くままに呼びかける。
「そめそめ」
「ぶっ・・・なんだよそれ、えーと、士郎さん」
「また他人な感じ?じゃあ、りゅーちゃん」
「・・・しーちゃん」
吹雪は猫なで声を作って、染岡は無理矢理に変な高い声を絞り出して、言った。
互いのあんまりな呼び方に二人は一瞬顔を見合わせて固まって、同時に勢いよく吹き出した。
空いている手で腹を抱えて、涙目になるくらい大笑いするふたりの肩が自然と寄り添う。
二人の近づいた足に挟まれることになったビニール袋がザラザラと肌に当たる。
ビニール越しに伝わるペットボトルの冷たさが心地よかった。
「でも染岡くんは、染岡くんが一番しっくりくるなぁ」
「お前も、吹雪のが呼びやすいよ」
ひとしきり笑ってから、やっぱり呼びやすいのが一番じゃないかと染岡はしみじみと言った。
吹雪の疑問から始まった応酬で、やっぱり秋達の言うことを理解出来たわけでは無かったが、こういう悪ふざけもたまには悪くない。
しかし、染岡はそう思った後にふと違和感を覚えた。
「そうだね。
木野さん達はああ言ったけど、呼び方なんて関係ないんだね」
納得したように吹雪が頷いたのと同時に、ぴたりと染岡が足を止めた。
おっと、と言いながら吹雪も出しかけた足を慌てて引っ込めて、立ち止まった。
「つーか、お前、これ・・・」
染岡が言い淀む。
二人の間でビニール袋が中途半端に揺れて、黙る。
どうしたの?と言うように吹雪が振り返ると、染岡は不思議そうな顔で吹雪を見つめていた。
「いや・・・これじゃあ、なんか、お前と俺が特別だと思い合ってるみたいで、変じゃないか?」
染岡の言葉に吹雪の表情が固まった。
「・・・あれ、本当だ」
それもそうだ。
君と僕はまだ知り合ったばかりで、ついこの間までおたがいの印象はそれはもう最悪で、それがいくら解消されたといっても、そもそも僕らは男同士だ。
それだけで彼女達が言ったそれに、もう比べるに値しないのに。
何を言ってるんだろう、と今度は吹雪のほうが眉をうーんと歪めた。
染岡は呆れたように笑う。
「とぼけてるよなぁ」
「・・・そうだね、ごめん」
「・・・や、なんで謝るんだよ、お前のことじゃなくて、俺たちのことだって。
俺だって乗っかってたんだし、謝られるようなことじゃねーから」
「う、うん」
「ほら、な」
そうだよね。
そうだよな。
言葉が重なって、妙な空気が流れる。
とうとう二人して黙ってしまった。
(好きなひとのこと、下の名前で呼びたいな)
照れたようにはにかんでそう言った秋のやらわかな表情が、再び吹雪の脳に浮かび上がる。
想う人を想像しながら言ったのだろう。
だって彼女はとても幸せそうな顔をしていたから。
そんな秋が吹雪には可愛くていとおしくて、それから少し、良いなと思った。
そうやって想う相手の存在がいることがとても輝いてみえた。
僕にはまだ好きな人はいないけど、そんな人が現れたら木野さんのように思う時が来るのかな、とぼんやり想像させるほどに。
でも知らない感情のことをうまく考えられなくて、この気持ちを誰かと共有したくて、そう思ったときに真っ先に吹雪が話したくなった相手が染岡だった。
そうだ、ただそれだけのことだ。
それなのに、なんでこんな空気になってしまったんだろうと、吹雪は肩を落とした。
ああは言ってくれたけど、困らせちゃったな。
そう思いながら染岡の表情を盗み見るが、その顔は困惑しているようにも不機嫌なようにも見えて、何を思っているのかなんて吹雪が知ることは出来なかった。
それから程なくして、気まずい空気を引きずったまま、二人はどちらともなく歩き出した。
キャラバンのみんなの飲み物を運ばなければいけないことをようやく思い出した二人はガサリ、ガサリと袋を鳴らしながら帰り道を急いだ。