0535 | ナノ
明け方、腕時計の針が指すのは午前五時半とちょっと。客は来ない。
人目がないのを良いことに隠すことなく大きくあくびをして、モップをたらたらと動かす。
別に床は汚れちゃいないんだけど、なにぶんヒマ。
深夜勤務だと、決まった時間に行う品出しや納品チェックをこなしてしまえばレジ打ち以外にやることなんて、これくらいしかない。

深夜のコンビニ勤務は、眠気にさえ負けなければ大して大変じゃないっていうことがこの一月で分かった。
早朝勤務のバイトが合流する時間まで、あと30分くらいか。

びっくりするくらいゆっくりと進む秒針を見つめることに飽きて、窓の外へ顔を向けた。
やっと明るくなってきたみたいだ。

朝がやってくる前の、もやもやと淡く白む窓の外の空を見ていたら、昨日の進路面談のことを思い出した。
担任と、一対一のやつ。

文武両道な名門帝国だから、そりゃあね。
そんな時期ですから。
だってもう、高校三年生だからね、俺。

そう。

そう、なんだけど。

受験生としての自覚はあるつもり、だけど、何が足りないのか、いわゆる進路に関して何も明確に考えられないでいる。

将来やりたいことが分からない。
行きたいところが思い付かない。
今やらなきゃいけないことは、勉強とか自己分析とかそういうのだっていうのは、分かってるつもりだけど。

例えばの話。
好きなサッカーは卒業しても続けたい。
だけど、それはきっとメンバーとボールさえあればどこでも出来る。
例えば、それでプロになりたいのかと誰かに聞かれたとしたら、自信を持って頷くことは出来ない。
かならずその場所じゃなきゃいけないとか、絶対行きたいとか、そう思えるような情熱が無いんだ。

なんだかイマドキの若者っぽいよねって自嘲するにはちょっと、笑えないくらいには危機感を感じている。

自分で言うのもなんだけど、今まで上手に要領よく、適当にやっていてもそつなくこなせた勉強が最近、上手く出来なくなった。
一学期早々に行われた校内模試は、俺の今までの成績にはあるまじき結果で。
とてつもなくヒドイ、ということは決して無かったんけど、でもどうしたの?と親や先生が首を捻る程度には順位が落ちていた。

正直俺自身が一番びっくりした。
いや、俺、いつもどおり勉強したじゃん?って。
どうして頭の中に入ってないのか、分からなかった。

先生は苦笑いしていた。
たまたま調子が悪かったんだよなって明らかに気を使っているふうなフォローがすごく居心地悪くて、だからそれ、本当にそうかなって不安になった。

調子が悪かっただけ、なんだろうか。

進路に関しては「もうみんな、大体は決まってるんだがなぁ」って言われて、ですよねぇ、なんて相槌ながら愛想笑うことしか出来なかった。
まともに先生の顔を見れなかったのが、イタイ。

そりゃあ、帝国学園ですから、大多数の同級生達は志し高く、学園の名に、家の名に恥じぬ良い大学とやらを目指しているんだろう。
家を継ぐためとか親の期待とか、自分の野望とか?
俺にはそんなの無いからよく分からないけど。
自分自身が大学受験を控えた身なのは理解していても、背負うほどの特別なプレッシャーとか、頑張る理由がないからなのか、なんで集中出来ないのか。
集中出来ないことに焦って、から回って、また焦って。
堂々巡り。

だから、というのもおかしな話かもしれないけど、でもだから、こんな時期に、バイトなんて始めてしまった。

だって、忙しくすればまだ目をそらせると思ったんだ。

受験とか勉強とか将来とか、そういう諸々から。

まぁ、こうやって悶々としている時点で俺の目論みは大方失敗しているわけだけど。

ぴりっとした痛みを感じた。
無意識に唇を噛んでいたみたいだ。
最近癖になっている気がする。
こういうの、なんか、よくないよなぁ。

噛んだところを誤魔化すみたいに舐めた。

そういえば、もうすぐ部の朝練が始まる頃だろう。

ずっと、中等部の頃から所属していたサッカー部。
高3は受験に専念せよ、という学校の方針で強制的に引退させられる。
けど、試合には出れなくても、公に練習に参加出来なくても、サッカーはサッカーだ。
放課後、後輩達の練習にちょっかいを出しに行くことは少なくない。

部活のことを考えると、進路のこと以上に、唇を噛む痛みとよく似た鈍い痛覚が胸の奥でじりじりと疼いた。

帝国は高校までエスカレーター式だから、中高ほとんど変わらないメンバーで部活をすることになる。
校舎は敷地内だし、グラウンドはフェンスを挟んで隣だから高校サッカーをする先輩達の活躍を間近で見ることが出来たし、大体、たかだか1年待てばまた同じメンバーで、暴れることが出来たから何の不満を持つことも無かった。

けど、今は違う。

彼等は大学生になった。

この春に晴れて無事に帝国を卒業した先輩達は、見事にバラバラな方向へ旅立って行ってしまった。

あの人達が、あの無駄に威圧的な門を潜ることがなければ、購買で鉢合わせて人気のパンの奪い合いをすることも、廊下ですれ違うたびに軽口を叩きあうこともない。
休み時間にわざわざ色の違う学年ジャージを貸し借りしあってそのまま授業を受けに行くとか、そういう悪ふざけも、更衣室でばか騒ぎすることも、そこでごくたまに交わされる真面目な相談も、もう、ない。

大体は進学で、中には就職した先輩も、帝国ではすごく珍しけど、今回はいた。

とにかく、あの人達はもういない。
帝国のサッカーをしない。
帝国という括りは高校生で最後。

その後なんてない。

もうこれから先、あのメンバーで、チームで、帝国のサッカーをすることは無い。

当たり前のことなのに、それが当たり前に来る未来だなんて目の当たりにするまで想像もしなかった、俺にだけじゃなくて誰にでも訪れる、在り来たりな卒業と言う名の別れ。

あの日から自分の中にずっとあったものが突然消えたような、物足りないような違和感が拭えないでいる。
ぽっかりと穴が開いて、そこからポロポロと落ちてしまったような。

なんていうか、こんなことを考えることになるなんて思ってなかったんだ。
女々しいと思うし、馬鹿馬鹿しいとも思う。
あんな口うるさくて暴力的でやかましくて煩わしかった先輩達にこんな未練があるなんて、まじかよって自分でも思う。

でも、でも。

俺には帝国サッカーが、俺が生きている狭い世界で、大好きな場所で、ライフワークだった。
大袈裟かもしれないけど、他に言いようがない。

ずっと、サッカーだけをやってきたんだ。
そうしていられるんだと思っていたんだ。
朝早くから練習して、適当に授業を受けて、たまに居眠りをして、放課後が待ち遠しくてしょうがない、そんな毎日。

中1でレギュラーになることが出来て、そこで出会った先輩達は近年でも特に優秀なプレーヤーで。

黄金期じゃん、帝国の。
いろいろ、あったけどさ。
良かったことも悪かったことも。

中等部の頃は、最後まで雷門の連中には勝てなかったけどさ。

それでも、あの先輩達と駆けた決勝戦は、素晴らしく価値のある戦いだった。
本当、かっこよかったんだよ、あの人達。
悔しいくらいに。

今の後輩達だって見所のある奴が多いし、これからの帝国サッカーだって、名門としての誇りを守っていくんだろう。

でも、俺にとっては、あのメンバーが最高で最強だったと信じてやまない。

だって、考えてみたら俺のサッカー人生のほとんどをあのメンバーでやってきたんだ。
なんだよそれ、きもちわるい。
なのに、どうしようもなくむず痒い、居心地の良い、今はもう思い出になってしまったこと。

そら、寂しくもなるじゃん、あんなやかましくて騒がしい人達がいなくなったんだから。

ていうか、大体、俺は今こんなにも悩んでるっていうのに先輩達はどうやって進路なんか決めてたんだよ。
あの人達あんなにサッカーサッカーしてたくせに、いつ勉強とかしてたの?俺以上に器用なの?コツがあるんなら、こっそり教えて下さいよ。

こんな時、あの人達はどんなことを考えていたんだろう。
どんな気持ちでサッカーをしていたんだろう。
俺が今こうして悩み過ごしてる一年前に、何を思って高校生活を送っていたのだろう。

自分が同じ立場になるまで、考えたこともなかった。

一年前、先輩達に囲まれてバカみたいにただ楽しく笑っていた俺の悩みと言えばサッカーのことに、好きな人のこと。
そんな話を聞いてくれていた彼等から、少なくとも何らかの不安とか、受験生独特のピリピリした、そういう気を使うような空気を、あのロッカールームやグラウンドで感じたことなんてなかった。
あの人達、どんなことを考えて笑っていたんだろう。
余裕綽々?自信満々?
あの人達が優秀だったのは、サッカーだけじゃないってことなのか?

こんなに、あの場所に執着しているのは、俺だけなんだろうか。

もしかしたら、寂しいとか、そういうこと、あの人達は思ってなかったのかもしれない。

・・・なんだそれ。

もしそうだったら、ちょっと薄情じゃないですか。

ねぇ。

丁寧に撫で上げられた灰の髪に、子憎たらしい笑み。

あのメンバーの誰より先にあの人を思い起こしてしまうのが可笑しくて、悔しくて。

元気に、してるんだろうな。


「・・・先輩の、ばぁか」

わざと大きめの声で吐き出してみた悪態は、当たり前だけど、誰の返事も貰えるはずがなかった。

ああ、ちくしょう。

また唇に歯を立てる。

ぐちゃぐちゃもやもやした気持ちを消したくて、モップを掴む手に力を込めた。

バイトが終わったら、くだらない内容のメールでも送りつけてやる。
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -