さよなら、またいつか | ナノ
行かないでとか寂しくなるなんて、毛頭言う気はない。
これは、そんなものじゃない。
そんなことは適切じゃない。
寂しくはある。それは当然。
でもそうじゃない。
それに、彼自身そんな言葉は望まないはずだ。
彼のお父様とお母様との約束、サッカーと同じくらい大切な夢。
それを叶えるために、彼は今日、ドイツへ向かう。
あたりは薄暗い群青で、星は既に見えないものの、朝焼けにはまだ遠い。
こんな時間にバスを待つのは、わたしと彼の二人だけだった。
近頃は暖かくなって来たものの、こんな早朝ではまだまだ気温は低くて、吐き出される息はうっすら白い。
ひとつの街灯の灯りの下でふたつ分の白が空中で空気に溶けていくのを、わたしはただ見ていた。
いつも通り、殆んど会話はない。
ただ淡々と始発のバスがやって来るのを待っている。
この静かに流れる空気がわたしをひどく安心させる。
何も言わない彼は、だけどこんなに優しい空気を作ってくれる。
こうしていられるのはとても幸福だと思うようになったのは、いつからだったろう。
沈黙から息苦しさや気まずさがなくなったのは、いつだったろう。
いつだって、何度だって、わたし達の距離は、離れては近づいてきた。
最初にお別れをしたのは、いつかだったしらと思い返す。
宇宙人事件を思い出したら自然と口元が緩む。
チームからやむ無く立ち去って、再び現れた彼。
それからその後、わたしは海外へひとり飛び出したのだ。
誰かの役に立ちたい一心で。
悲しいことも、楽しいことも、たくさん経験した、がむしゃらになった。
なんて色の濃い青春時代だったろう。
彼と出会って、すべては始まった。
「どうかしたか」
隣から声をかけられて、ゆっくりそちらに視線をやった。
わたしと同じくらい、目付きのきついそのひとは、怪訝な顔をしてこちらを見ていた。
「昔のことを思い出してたのよ」
「昔の?」
「全国大会に、エイリアに、世界大会に、あなたが初めて雷門でサッカーをした日」
そう言うと、ああ、と相づちをうつ彼も思い出しているんだろう。
目は遠くを見つめて、いつもは頑なな口角が、少し上がったのが分かった。
過去を懐かしむその瞳があまりにも優しくて、それがとても愛しいと思った。
彼のいる、わたしの思い出のすべてが。
「あなたが雷門に来て、変わったのよ。
サッカー部が変わって、雷門が変わって、わたしも」
変わったんだと思うの。
高飛車で世間知らずなお嬢様は、あの頃よりは多少性格が丸くなって、ひとりで人並みに料理も出来るようになった。
まだまだ失敗もするけど、少なくとも彼がお世辞抜きで誉めてくれるくらいには。
ちっとも蹴れなかったサッカーボールだって、的外れな方へは飛んで行かなくなった。
サッカーの楽しさも、同級生の女の子達との内緒話も、世界の醜い面も美しい姿も。
彼が来なかったら、わたしはいつ知ることが出来た?
何より
(・・・あなたを好きになって良かった)
寡黙で頑固で、口より先に行動で、妹さん想いで、ひとの心配ばかりして、自分の悩みは全然口に出来ない不器用で優しいこのひとに、わたしは、会えて良かったと心から思う。
わたしより料理が上手なのは、ちょっと癪にさわるけど。
「頑張ってきなさい」
彼の横顔から視線を外した。
今更向き合う必要はない。
わたしたちは何時だって、並んで、前を見据えて歩いてきたのだから。
「ああ」
「せっかく留学するんですもの、首席で卒業してくるくらいのつもりで行ってらしゃい」
これは理事長の言葉と思ってもらって構わないわ、なんて懐かしい口癖まで続けてしまえば、大袈裟だと彼が苦笑いしたのが、空気で伝わった。
さよならは言わない。
何度だって離れてきたわたしたちは、だってまた会えるのだから。