翳りゆく部屋 | ナノ

俺は何にも、見ちゃあいやせん。
総悟は全身でそれを語っているようだった。
それが簡単に見破れる嘘だということぐらい、私にだってわかる。総悟の座る椅子のすぐ横に、大きな出窓がある。そこにあたり前のように置かれている白い紙が全てを物語っていた。
封筒に包まれていたはずのそれが堂々たる態度でそこに姿を現しているということは、誰かが開いて読んでそのままにした、ということ。そしてその人物とは、家主である私よりも先にこの部屋の鍵を開けて先に寛いでいた総悟以外には考えられない。
たかが文、されど文。
これが総悟ではない別の誰かだったなら、言い訳だってあっさりと出来ていた。今夜の夕飯を二人で食べようと誘ったのは私の方で、今しがた家に帰ってきたばかりの私の両手には二人分の鍋の材料がどっさりぶら下がっている。それをゆっくり床に置き、諦めたように腹を括りながら私は部屋の本棚の奥から埃を被った刀を一本持ち出し迷うことなく鞘から柄を引き抜いた。
西の光を浴びながら、総悟はそこから動かなかった。
笑いも、驚きも、怒りもせずにただ目だけが冒頭でも言った通りに私に向かって告げているのだ。

俺は何も見ちゃあいやせん。

しかし慈悲はそこに一ミリたりとも無い。







翳 り ゆ く 部 屋







脳裏を掠める記憶達は四季折々で、それほど長い時間総悟のすぐそこで過ごしてしまったのだと再確認せざるを得ない。記憶の断片というか、破片というか、とにかくどんな些細な思い出の中にも総悟の姿や声が溢れていて、私の刀を持つ手は何度も何度も躊躇する。不思議な話だなぁ、そう他人事のように思いながら。今、この瞬間からどんなに新しい総悟との記憶さえ、もう思い出としか呼ぶに相応しい言葉がないだなんて。例えば今朝、総悟を想いながら目覚めた朝日を。例えば昼、勤務中の総悟を視界の端くれに偶然捉えて思わず微笑んでしまったことを。例えばつい先程、総悟の笑う顔を浮かべながら夕飯の材料を買い物かごに入れたことを。何故、そうとしか呼んではならないのか。そんなことは勿論愚問で。

そんな私のこと等知らずに依然として、総悟は何をする訳でもなく椅子に座りじっと私を見据えるだけを頑なに通し続けていた。
総悟が読んでしまったその文の内容は、実にシンプルなものだ。
私が今、手に握る刀がそれを裏付けている。何も知らずに恋に溺れた訳ではない。知っていながらどうしようもなく膨らみ、自分で自分を見逃しながら、あくまで総悟に愛されたがった。少しの絶望と淡い期待で日々を過ごし、辿りついた先が、やはり地獄であったというだけ。

でも、そればかりではない心の裏側には、お釣りにしては幾らも多い深く愚かな悲しみや愛しみが溜まりに溜まり、涙が出るか出ないかの瀬戸際であることもまた確かで、なのに溢れないよう蓋をしようとしているのは、総悟のこの真っ直ぐすぎる赤い瞳の意味を私は少なからず理解しているからなのだ。

「……その、物騒なモン仕舞いなせェ」

夕暮れのしんとした静寂を、総悟がようやく揺るがした。かけられた言葉とは真逆に、私は彼に向ける矛先の柄をぎっちりと握り直す。やれやれ、言わんばかりに総悟は視線を落とし、深呼吸をした。

「俺は何にも、見ちゃあいやせん」

けど勘違いだけはするな、俺は決して情けをかけ、贔屓をしている気なんざこれっぽっちも無ェ。

実際には続けられないそんな総悟の心の言葉を、私は感じとる。わかってる。返事を短く胸の奥でこぼすと、総悟の顔は少し歪んだ。お互いに、言葉ではなく、見慣れすぎた表情を使っての会話をした。それが出来てしまうから、尚更に切ない。

刀を抜けばいい。
私は、総悟の力になんか到底及ばない。一捻りで死んでしまう。

自惚れてんじゃねーや、俺は、ほとほと呆れ果ててるんでさぁ。
悔しいだとか、むかっ腹が立つだとか、そんなもん全部通り越して。

「鍋、今日はまだ早いんじゃねェですかィ」
「まだ少し暑すぎたね」
「珍しく風も吹かない秋晴れでしたからねィ」
「昨日は寒かったね」
「昨日、すれば良かった、とか思ってるんで?」
「…ううん、思ってない」

思っていない。そんな後悔はしていない。もっと大きな、もっと救いようのない後悔をしてはいるのかもしれないけれど。

それきり、総悟は黙りこくって、刀を抜く気配はよりいっそう消え果てた。
傾斜していく日の光が総悟の栗色の髪を金色に染め上げている。
この奇跡のような美しさを、私は独り占めしすぎてしまっていたのだろうか。

「総悟、私にがっかりしたんでしょ」

返事は無い。代わりに総悟は空を見上げた。年端も行かない少年の癖に、こんな時総悟は誰より大人だ。それがまた切なくもあり、寂しくもあり。
いつもどこか斜に構えて、理屈や屁理屈を飄々と散りばめて軽口をたたく。普段絶対に私を誉めない総悟が、夜の帳の中抱かれた時にだけ一言「綺麗」と言う。少し震えながら。弱音を、愚痴を吐かず、でも辛い時、総悟は決まって上の空になる。そんな総悟の手のひらを包むのが好きだった。ほんの少し、わかるかわからないかギリギリの力でそっと私の手のひらを握り返す。素直じゃないから、目線は顔ごと反対に向けて頬杖なんかついちゃって。私が野蛮な男に絡まれでもした日には、男にも私にもこれ以上無い仕返しをされたし、おやつに作るカボチャ団子を食べながら懐かしそうに笑って、昔良くお姉さんに作って貰っていたと話してくれた。私が泣けば、右ほほをペシャリと軽く打ち、総悟の機嫌が良ければオマケのキスをくれた。口喧嘩は本当は両成敗。でも、わざと負けてあげる。そしたらふてくされて狸寝入りをしてしまって、その日はいつもよりちょっとだけ罰が悪そうにしている。誰かを護ることがすごく上手で、でもそれを表現するのがとても下手な人。だからいつも体いっぱいに、本当は心だっていっぱいに、傷ついてきた人。だから総悟は強かった。キラキラキラキラ、この西日みたいに金色に光っていた。そんな総悟が、とても、とてもとても。
私の誇りでさえあったのだ。
例えそれが私のわがままだったとしても。

幸せな日々だった。
台所に、大きな土鍋がひとつ。昆布と椎茸でだし汁をとった、土鍋がひとつ。春の初め、冬にする鍋を約束していた。総悟は、私に呆れ果てた。
呆れ果ててくれた。
あつかましいのは承知、でも願わせて欲しい。
何もかもを知りながら、金の少年は目の前で似合いもしない微笑みを僅かに湛え、ただ静かに私を逃がしている。
言葉もない。物音もない。橙を色濃く強めた西日がゆっくりこの部屋を照らし、私を無言で追い詰めた。
遠い昔の出来事みたいに愛の走馬灯が駆けて、ふと、スピードを緩めた。
浮き立つ影は微動だにしなかった。刀を握る手が悲しく震えた。
何を間違えて、どうして正解で、どうすれば許して貰えるというの。
こんな表情をさせ、刀すら握ってもらえず。雰囲気だけが優しく緩やかで、本質を探ればそれは部屋のどこそこに御座なりにもたれかかっている。
そうか、そうなのか。
今までを天秤にかけてみれば、なんて随分なことか。それぐらいに投げやりな愛の捨て方だった。
そしてその愛はもう二度とふたりに帰ってこない。
失われた楽園にも似た。

だから、私はここで死なない。殺されない。
総悟、あんたは本当に、心底酷い。
目元に水の膜が張る。総悟はもう、私をとっくに放棄して、遠い遠い彼方で姿を見ることも難しい。
斬ってくれた方がずっとずっとマシだった。
それにすら及ばない程、私と総悟の間に確かにあったあの激情は一瞬で消え去った。
口をつぐんだまま、言葉も交わさず、目もあわさず、部屋を出ようと扉を開いた。窓のない長い廊下は真っ暗闇で、足元から吸い込まれてしまいそうだ。
足先は冷たい。なのに少しだけ陽だまりの暖かさが土踏まずに残る。薄い扉がパタリ、私と総悟を永久に遠ざけた。
胸の中、胸いっぱいに、手を振った。
総悟、総悟、総悟、何度も何度も胸の中だけで叫び泣いた。
謝ることはどうしてもできない。
運命とは、正に今この瞬間のために回っていたに違いない。
この長い暗闇を抜け、愛しい時間だけを捨て降ろし、もう二度と交わることのない明日へ行く。
もうすぐ廊下は終わって、西日を飲み込んで、そして。


愛していた。
愛していた。
真実だった。
どれもこれも、何もかも。
尊い金色。
さようなら、私の一生の輝き。
足音を、次第に消して。


逃がされた情けないこの命を愛の代わりに背負わされ、行くあての無くなった刀を鞘に納めて、静寂の翳りの最中、進める私のつま先は総悟だけを切り取った自らが選んだ人生を、ひたすらに途方に暮れ見つめ続けていた。


総悟、私をどうか許さないで欲しい。
例え私が今、死んでも。




「綺麗」




ありがとう。











一周年リクエスト ベニー
20101124 song / yumi arai