トプシー・ターヴィー | ナノ


着物の着付けすら面倒な朝だ。灰色の気持ち悪い雲の隙間から無理やり光を差し入れようとする太陽を、見ているだけで腹が立つ。髪を結うのも腹を満たすのも布団から出るのも億劫で億劫で仕方がない。いつも寝床のそばに転がっている煙管を手繰り寄せるので精一杯だ。古ぼけてはいるが、漆の柄は良く手に馴染む。部屋の箪笥を探ればこんなものより上等な煙管は馬鹿みたいにあるのに、もうずうっと、これしか使っていない。

こんな朝はいつも、あの阿呆のことを思い出す。最後に会ったのは遥か昔だ。次に会うのはいつだろう。出来れば死ぬ間際がいい。














幼い私はそれはそれは貧乏で、おべべのひとつも買ってもらえず、まんまの一膳ままならず、風呂に入るとなればまるで奇跡でも起きたのかと、飛び上がる程に嬉しく楽しく、そんな不憫な暮らしの中を不幸にも気付かず過ごすような憐れな子でありました。
お父ちゃんとお母ちゃんは貧乏でしたがそれなりに笑っており、姉も弟も仲が良く、やはり自分達が不幸だということに気が付かない、一家揃って実に能天気に暮らしをしておったのです。
今となっては思い出すだけで嗚呼頭痛が。なんて頭の悪い幼少時代を過ごしていたのでしょう。吐き気がします。

少女になった頃、私はそんな貧乏で堪らない暮らしを捨てて、江戸へとひとり赴いたのです。お父ちゃんの怒鳴り声が耳にこびりついてなかなか今でも離れません。
憧れの江戸の夜は、いっそ燃えているかの如く華やかでして、下世話なネオンがせめぎあい、膨らみもおくゆかしかった私の胸は期待と甘美で今にも破裂しそうな程に質量を増しました。まんまをろくに与えられずに伸びるだけ伸びた貧相な足はしっかりと土を踏み締めて、光の帳へ一歩、また一歩。
汚い格好でしたから、そりゃあ惨めでもありました。当然のように好奇の目に晒されましたし、皆が口元に手をあてくすくすくすくす。お馬鹿な人たち。あなた方は、毎日それなりのまんまと色のついたおべべを当たり前に与えられて生きてきたでしょうが。私の地獄をあなた方は知らないでしょうが。

こころだけは逞しいのだから、ちっとも、毛程も、悔しくなんかありません。だから涙も流しません。決して、決して。

「娘ェ、なんだ、ひでェ格好じゃねぇかァ」

ネオンとネオンの隙間は深い洞穴のようで、そこから耳に届いた声を頼りに近付くと、見たこともないぐらいに白い肌をした漆黒頭の男が血だらけで倒れておりました。ぬらりと光る眼は野良猫のそれと瓜二つで、危うく美しく私をい抜くのです。
ひでェ格好なのは、私よりもあなたではないのですか。見たままをそのまま言葉にしてみれば、黒い野良猫は口元を卑しく吊り上げて、荒い呼吸をそのままに、

「違ェねェなァ、は、言えてら」

大層嬉しそうに笑い出して、それから痛そうな咳をひとつ溢しました。
野良猫は足から大量の血を流しており、見るも残酷な傷痕が両目に焼き付きそうで怖い怖い。

「来るか」

けれどもすんなり頷いてしまったのは、今日の宿が丁度無かったからで御座います。



ただそれだけ。













古い記憶を引っ張り出しては不愉快極まりなく盛大に舌打ちをする。これは私の悪い意味での十八番だ。煙管から立ち上る白い煙が部屋を覆って臭いったらない。腰まで伸びて辺りに散らばる髪を掬って簡単にまとめ、そこらに落ちている簪で括った。面倒な結いはあとで下っ派にでもやらせよう。大体今日は、早く起きすぎた。もう少し眠っていれば良かった。
ぼんやり窓を眺めながら役目を終えた煙管を投げる。少し気分がいい。ならばと思い、目につくものを手当たり次第拾って投げた。ガッチャン、ガリン、バコリ、ゴロン。愉快愉快。物を投げると気分はこんなに晴れるのか。いいことを知った。

「…あら」

万年布団にまぁるい染みがポタリパタリ。

「…雨漏りだ。やあねえ」

おかしいものだ。外はだらりとした曇り空、そればっかりだというのに。


雨なんか降っちゃいないのにねえ。













「赤を着ろ」

渡されたのは真っ赤に金色の刺繍の入った見るからに上等そうな素敵なおべべ。
大きく派手な毬をあしらった見たこともないようなおべべ。

「泥と垢、すっかり落としてからそいつを着てこい」

それから、花の匂いのするお湯に浸かり言われた通りにすると、野良猫はまた卑しく笑ったのでございます。

「傷は痛まないのですか」
「血ィさえ止まればなんてこたァねェさ」
「私はどうなるのですか」
「おいおい、随分と人聞きの悪い言い回しじゃねェか。自分ェでついてきたんだろ?」

手を貸してやり、体重を預かってやり、やっとの思いで言われた通りに引き摺ってきた先は何の変鉄もない普通の家屋で、着くなり女や男が野良猫の手当てにかかりきりになったので、私はしばらく手持ちぶさたに部屋の隅っこで座るだけ。言われるままに動いて、今に至る訳ですが、野良猫の話す言葉の意味がよくわからないのもまた事実。
ほいほいついて来てしまったのは確かに私の方だというのに、そもそもどうしてこのような汚い娘に手を差し伸べるような真似をしたのでしょう。
もしかして、食べられてしまうのかしら。

「取って喰おうだなんて考えてない。安心しろよ、お前みてェなガキにそんな趣味はねぇ」

あら、このお方は千里眼でもお持ちになっているのか。

「野良猫さま」
「あ?なんだァそいつァ」
「野良猫さま、私をどうするおつもりですか」

野良猫は大きな窓の燦に腰掛け、ゆらりと煙管をふかしております。外は満月で、重なった野良猫はより野良猫のようで、喋りながらもついうっとり見とれてしまいそうでいけない。

「金は好きか」
「はい、私のたったひとつの憧れです」
「男は嫌いか」
「いいえ、さして気にもなりません」
「ほお。体も感情も捨てられるか」
「さあ、やろうと思えば出来るかもしれません」
「俺の為に生きていけるか」
「野良猫さまの為にですか」
「お前を売ってやろう。入った金はくれてやる。前賃だ。体を使って男相手に大金を稼げ。そうしながら、ひとつふたつ、俺の欲する情報を盗んでこい。それを文にして寄越せ。どうだ、やるか」

どうせ行く宛も頼る場所もありませんから、私は容易く頷いて、何も知らないわからない男にあっさり売られてしまいましたとさ。

「貸してやる、俺に誉められるようになったら返せ」

ごっそりと渡された大金と黒い漆の煙管を一本携えて、私は江戸のあんだーぐらうんど・わーるどに売り渡されてしまいました。子汚い私のような娘がこんなに沢山の壱万円札の価値があるだなんて、都というのは本当に華やかな所なんですね。それから、早、ン年。














毎年誕生月の頭に、決まって赤い着物が届く。歳を重ねる度に豪華絢爛になっていく真っ赤な着物が、いつも差出人不明で。
一番初めの出会いから、あの男とは会っていない。交わされる穏やかではない内容の文のやり取りと、いつも纏っている真っ赤な着物、たったそれだけが長い間私と男を繋いでいた。細い細い糸のような、その程度の縁しかない。

部屋はひっくり返ったみたいに散らかり放題。せっかく纏めた髪の毛も後れ毛がばさばさ零れ落ちてだらしがない。
春が商売道具なこの仕事には、もうとっくに慣れてしまって、真っ赤な着物を脱いでは着て、脱いでは着て、の繰り返し。たったひとりの男の為だけにそうやって生きてきた。何年も。

「鬱陶しい雨漏り」

今日のように、私はたまにこうして情緒不安定に感情をめちゃくちゃにしてしまう日がある。心が病なのだ。金はたんまり稼ぎに稼いで、ここいらの人間は私がもともと貧乏だっただなんてことは誰も知らない。もしくは、すっかり忘れてしまっている。私の給料はあの頃のお父ちゃんとお母ちゃんのおおよそ何倍なのだろう。
男を思い出せば出す程軋んで虚しくなる胸は、毎晩違う男に包まれ掴まれ次第に何も感じなくなってしまった。年頃を過ぎ、女らしさが心ごと増した私はいつかあの男に手を出されたいと思っている。あの頃の汚い小娘とは全然別人になった私を。まぁ、叶わぬ望みだろう。笑えてくるもので、身体なんてものは売れば売る程感覚が薄れていくものなのだ。五感を、毎日毎日少しずつ削られていきながら、ひっそりと大切な人間らしさを手放していく。
全ての感情が平らになったら、0のひとつ多いお札が天から降ってくるように沸いて出る。

「姉さァん、手紙が届いてるよォー…て、あら、え?」

襖を不躾に開いて妹分が入ってきた。目を見開いてこっちを見ている。そりゃあ、そうか。

「ちょっとォー!姉さんたら、いったいぜんたいどうしちゃったのさァ!部屋もひどけりゃ、やァだ、顔まで涙でびっちょりじゃないのよ!」
「…朝から騒がしいねえ、ちょっとした憂さ晴らしだよ」
「冗談やめてよ、憂さ晴らしで泣く奴がいんのォー?」
「ああもう、やかましい。放っておいてくれて結構。…それより手紙、早く寄越して」
「人がせっかく心配……あぁもういいわよォ、放っておきますゥー」
「て、が、み」
「ああ、そうだったそうだった」

嵐はあっさり去っていき、乱雑な部屋には私と薄っぺらな手紙だけが残された。
豪快に、けれど中身を破かないぐらいには気を使って、とにかく早く読みたくて読みたくてたまらなかった。ばりばり裂かれた封筒の中に収まる紙を取り出して開いた。
そこには、男の嫌味みたいに美しい文字が短くつらりと乗せられていた。
毎度のことだ、本来知らなくていい興味もわかない難しい話を寝床でたっぷり盗んでこいと。あぁああああ、あぁああああ!いつものことじゃないか、たかが知れて、いるじゃないか。

たった一度きりしか会ったことなど無いのに私が泣く理由を野良猫様、あんたは知っているのかい。

ほとんど人間じゃあ無い私がほんの一瞬だけ人間の女に戻れる瞬間がある。この、やけに整った文字が、時にたまらなく甘美な響きを私の視覚を震わせるからだ。
たまにというか、稀、そうだ、稀に。一言添えられる。


"次に会うことがあるなら、その時は赤を"



















「男に身体をくれてやってる女がたかだかこんなことで、どうして死にたくなったりしなくちゃならないんだ!!!いちいち顔面を緩ませたり歪ませたり忙しいったら無いよ、私にはそんな暇なんざこれっぽちも無いっていうのに、全く、馬鹿にするな!!!だから曇りなんか嫌いなんだ!!まるで狙ったみたいに、こんな、寄越して、どうせ私は駒のひとつで、たった、たった一度会っただけの、畜生、畜生……!」

焦がれてやまない。私に人生をもたらした、あの瞬間からずっと焦がれてやまない。

「こんなものいるか!!!!!」

黒漆の煙管を両手で掴んで力を入れた。みしり。軋んだ。

手折れやしない。するはずもない。

だらりと手から落ちたそれはカラカラと間抜けに転がった。
気がついた時、既に遅し。
真っ赤な着物が涙に濡れる。
きっときっと死ぬまで会えない。死んだって会えない。こんな生ぬるい自分が堪らなく嫌だ。それでも、私は奴が××で××でたまらないのだ。


「…死んだって…口になんか出してやらないつもりさ」


女である喜びなんか欲しくはない。ただただ貧乏が嫌いだっただけ。


「のらねこさま」


今日も私にお客が群がる。早く起きすぎた。外はやっと本物の雨が降り始めたようだった。


雨と恋愛は少し似ている。
鬱陶しいのにどこか優しいところが、特に。
否が応でも万人に襲い掛かる所なんかが、特に。


あ、雨漏り。



トプシー・ターヴィー





20101018 お題/歌舞伎