インモラルブルース | ナノ




今日、仕事を辞めた。二年働いて一年辞めていて、また最近戻ったばかりだった。けれどまた辞めてしまった。
理由はしょうもない。上司と不倫して、こじれて、面倒臭くなって、愛するのにほとほと疲れ果てて、なんだかもういっぱいいっぱいになって、ヒステリックに辞めてやると吐き捨ててやった。
どこかの下らない小説か何かみたいでその滑稽さに自分で自分を笑いたくなる。

だって仕方ないじゃないか。
いい歳になればなった分だけ周りの男は結婚するかリストラされているような時代なんだ。私みたいな阿呆な女が余って当然な世の中に一体誰がしてくれたんだ。本当にいい迷惑だ、馬鹿。
つい最近新調したばかりの仕事用の黒いパンプスを大袈裟に鳴らしながら歩けば、ヒールはあっという間にガリガリと削れて行く。せめて足元ぐらい、そう思って地味なりにもまだ少しは凝ったデザインのを選んだのに台無しだ。あんな男の為にお洒落なんかするんじゃなかった。全くもって金のムダ。イライラしたついでに鞄の中で揺れているシャネルの口紅も道路に思い切りぶん投げた。続け様、胸元にぶら下がるオープンハートも引きちぎる。どれもこれも男に纏わるものたちばかり。悔しくて惨めな思い出ばかりが詰まった、怨めしいものたちばかり。
こんなもの要らない。私にはもうなんにも必要ない。全部全部なくなった。あんな男死ねばいい。

「こんな思いする為に女に産んでもらった訳じゃないっつーの」

私の独り言は雑踏に溶ける。
こんな夜は馬鹿みたいに飲んでやる。ウォッカもテキーラも、ウイスキーだろうが芋だろうが、なんでもこい。受けてたってやる。こんなに悔しいんだ、だから私は誰の為でもなく、私だけに、私だけの為に、泣いてなんかやらない。














「なによ、まだまだのめるわよ」

厄日だな、そうげんなり思いながら不躾に肩に乗っかる細腕を引きはなす。この何時間かで俺は一体何百回同じ動作を繰り返したことだろう。もういい加減誰か変わってくれ。
普段から自分がハズレくじを引きやすいということはとっくに自覚している。ただ、今日は取り分けハズレだな、そう思う。こんなに面倒な目に合うとわかっていればわざわざ今日に限って飲みになんざ来るつもりも無かったってぇのに、どうしてこうなっちまったんだか。
今日の気分は居酒屋というよりは静かなバーで、いつも行く場所よりも新地開拓。ああそうだ、これこそが一番のガンだったに違いない。いつものように行き付けの居酒屋にしておけば良かったのだ。それをひっくり返してしまったからこそ、今俺はこうして見ず知らずの酔っ払い相手にいちいち相槌を打ったりツッコミを入れたり無駄なスキンシップを阻止するので忙しくなってしまっている。

「ちょっと、ぜんぜん、のみたりてないじゃんよォー」
「いや誰のせい?絶対君のせいでしょ、せめて一口ぐらい飲ませてくんないかなぁ?」
「うっさい」

いやいやいや、マジでなんなんのこの姉ちゃんは。
確か席はもともと2つ向こうだった気がするのは俺だけなんだうか。いいや、俺だけじゃないはずだ。俺が扉を開いて足を踏み入れた時にはもう既にこの女の手には空になったショットグラスが握られていた。そして、一瞬目が合った。まばらな客、酔っぱらいの女、詮索をしたがらないマスター、少しだけ強く光る店名を彩るネオンに、程よい高さのカウンターテーブル、色は深い黒。外はいつの間にか雨。

「マスターぁ、も、一杯、ああ違う違う、二杯、これとおんなじのを、こっちのぎんぱつめがねのカレとわたしに」

オイオイオイ、正気か。白い指に包まれた小さなグラスに入っていたのは確か、無駄に強い酒じゃなかったか。それと同じものが目の前に差し出されて、むわっと独特の匂いを放って揺らめいている。
「あのー…、もしかして俺も飲むとかそういうパターン?」
「のみなさいよ。おごったげる」
「いや無理しなくていいから!ただでさえ不況なんだから、な、それにホラ、何があったか知んねぇけどさぁ、飲み過ぎっつーのは身体に良くねぇし明日に響くって!よーしやめよう、こんな飲み方するような歳じゃねぇんだから、うん。ねえマスター早く下げて!」
「はいカンパーイ」

俺の言うことはまるで無視して高らかにグラスを煽る姿を見て、この姉ちゃんが相当ヤケになっていることを再確認した。真っ赤な顔に、よく見れば先程からずっと涙目なのにも気づいてはいたが、あえて何も触れずにいたのは俺が他人の面倒ごとにかまけるような気分では無いからだ。

「のまないの」
「……。あのねー、そうじゃなくて、俺とおたくは真っ赤な他人でしょーが。俺がノリノリならまぁ付き合うにしたって、生憎今日はそんな気分じゃねぇの。さっきからバッシバシ叩かれすぎて右肩負傷だよお陰様で」
「あんたもわたしのこと見捨てんのね」
「ちょ、面倒くさ!俺の話聞いてたねえ!!」
「なんの役にもたたないことぐらい知ってる」
「は」
「知ってる。わかってる。全部はじめっからね」



泣いているように見えて、やはり面倒だと思った。上からじゃ前髪がかかって顔が見えない。肩が少し揺れていた。それしかわからないのに泣いているだなんてどうしてわかるだろう。何を、こんな日に。関係ない。俺には何ひとつ関係ない。だが、外は雨が降っている。ここにも小さく雨が降っている。そんな気が、たまらなくする。

大方男なんだろう。
ありがちでみっともない、どうだっていいような下らないような。そんな理由なんだろう。
じゃなけりゃ女なんて生き物は、こんな風には泣かないだろう。


「…………………マスター、帰る」

気まぐれと、うっかりだ。


「…………待てよ」


こんなのは。
俺はいつの間に酔っていたんだ。
















蒼白く光る暗い部屋の訳は、窓を開けると目の前に立っている外灯のせいだ。びしゃびしゃに濡れた女を担いだおかげで傘をさせず、俺のワイシャツも肌が透けて水が滴っている。背中に乗っかる女をベッドに降ろして洗面所で服を脱ぐ。真新しいバスタオルなんかある訳がないので比較的綺麗に見えるものを手にもち先に女にかけてやった。むくり、やっと起き上がった女は渡されたそのタオルを掴んで体に巻き付けたようだった。そんな気配を感じながら自分もさっさと着替えを済ます。体は冷えきっていて、寒い。この女も同じだろう。

「ねえ、聞いてくれるの?」

ぼやけて聞こえる声を耳の奥でもう一度聞き取り直す。馬鹿馬鹿しいので返事はしないことにしよう。女を引き留めた瞬間に、俺は今日という日をただでさえ間違えている。

「雨にあたったからかな、さっきよりかは随分酔いがマシになってる」

大体騙された。泣いてるんだと思ったから引き留めるような真似をしちまったってぇのに、振り返った女は泣くどころかヘラヘラ笑っていやがって、次の瞬間にはその場でバタリと倒れ寝た。

「ごめんなさい、見ず知らずの人なのに」

ガシガシ頭を拭いた。俺は今、紛れもなく苛ついていて、それというのは勿論この女、じゃなくて、自分自身にだった。俺だってこんなつもりじゃなかったのだから。自分のハズレくじはいったいどこまでいつまでハズレくじなのか。そんな滑稽なことを考えながら。

「おら、これで良かったら着とけな」

部屋着の一枚である黒のTシャツを渡してもう一度洗面所に戻る。シャワーを浴びようとドアノブを捻った。眼鏡を外すとすぐに視界は曖昧にひね曲がり、熱い熱いお湯を被ればその倍に湯気で辺りが曇った。


時刻は1日を既に跨いで、少し時間が経った頃だろう。














女は俺に続いてシャワーを浴びている。終電なんざとっくのとうに無い。狭く、決して綺麗ではない自分の部屋に久しぶりに足を踏み入れた女は本当に本当に赤の他人で、面倒ごとの始まりだ。
寝ておきても仕事は無い。かといって特別用事もない。あるとするなら、今日生徒達から集めたプリントの採点ぐらいで、いつもと変わらない日曜だ。
ベッドに寄りかかりながら赤ラークをくゆらせると、舌にこびりつく酒の味と混ざりあってなんとも言えない味がした。部屋の灯りもつけていないくせに、型の古いラジカセの電源は入ってる。今朝、仕事の準備をしていた時に足をぶつけ、拍子に電源が入ったのだろう。興味本位で再生ボタンを押してみる。この部屋にBGMがかかるのはいったいいつぶりだっただろうか。

「お風呂ありがとう……あ」

風呂から上がった女の顔が少しだけ輝いた。ペタペタ足音を鳴らして隣にやってきたかと思えば腰を卸し、流れる古ぼけたCDの音を目尻を下げて聞き出した。さっきまで据わっていた目が、もう光を取り戻している。

「私も好きだよ、この歌」
「蒼氓?」
「古い歌だね。ああ、ここがいい」

凍りついた夜には
ささやかな愛の歌を



「惨めなのにさぁ、そうじゃないような気になれる」
「…自分結構ロマンチストなのね」

吹きすさんだ風に怯え
くじけそうな心へと



「オニーサンも、死んだような目の割には実はロマンチストじゃない。こんな歌聞くなんてさ」
「何、こんなオッサンにオニーサンなんて言ってくれんの?」
「多分たいしてかわんないと思うけど」
「まぁアレだな、悪くはねぇな」
「そうでしょ。悪くはないでしょ」


静かな会話に、暗い部屋と雨と山下達郎の声が妙に切ない夜だ。
見ず知らずの他人同士が過ごすような夜じゃない。

「ねぇ、男ってなんで勝手なの?」
「女だって勝手なんじゃねーの」
「みんな勝手ってことか」
「人間なんてそんなもんだろ」
「飲む前は、全部男のせいにしてた。頭に来すぎて興奮してたのかもね」
「……」
「仕事もぶん投げちゃって、なんかもう色々、むしゃくしゃして」
「安心しとけ、自宅警備は今流行りらしいぞ」
「オニーサン面白いね。何してる人?」
「国語のセンセー」
「その頭で」
「馬鹿にしないように」
「あ、それ先生ぽいよ」
「そいつはドーモ」


さみしさは琥珀となり
ひそやかに輝き出す



女の方をちらりと見やる。目が合った。不思議と面倒臭さはどこかに消えていて、そんならしくない自分に驚いた。赤の他人は、名前を名乗らず、俺すら名乗らず。
遠い雨音、要約落ちた外灯、消える達郎の歌声、脳の奥が小さくぶれる。思った以上に酒は抜けていないらしい。俺はこれでも男であり、目の前に座る失恋女は、当たり前に女だ。
僅かな熱っぽさに女は気づいているのだろうか。平たい沈黙を雨に包まれながら淡く発光する二人の瞳は例えがたい空気を写し出している。とうの昔に大人になっているのだから、酒の行きずりはありがちだ。だから間違ってる訳ではない。

「面倒って思ってたでしょ、ずっと」

視線は一ミリも外されていない。女の言葉は意外にも深い。こういう会話は嫌いではない。職業柄。

「今だって思ってんだけどね。オネーチャン酒臭いし」
「やっぱ人間て勝手。私全然正当化できちゃいそうだもの」
「つーか、泣かねぇの?」
「うん。泣かない。大人だから」
「変わった子ォー」
「オニーサンも変わった人だわ」
「あー、知ってる知ってる」

キスなんて簡単にしてしまえた。
そうして行きずる赤の他人の二人は誰も見てない夜を過ごす。最後まで名前を呼ぶことなく、人生に一度きりのお互いを酒のせいにして掌を一度だけ握った。はしたなく、とことん人間らし過ぎて、ロマンチックだか何だかはきっと床に転がって動かずにいるのだろう。それでも雰囲気に飲まれ酒に振り回され愛に傷つけられた女とそもそも人生どうだっていい男は後々この夜を穏やかに思い出すのだ。うねる互いの熱に希望を見た。目が覚めて、二人がそれなりに満足ならいい。後悔など無く、少しでも満たされていればいい。


「オニーサンのキスのがずっとずっとマシだわ」


朝、清々しい顔をして、"女に産まれて良かった"だなんて笑って去った彼女の名前を俺は知らない。
俺もまた、妙な清々しさを感じていた。
この日、俺はまたひとつ歳を取った。外はすっかり晴れていて、人生は捨てたもんじゃねぇと二日酔いで痛めた頭を持ち上げ静かに笑った。

面倒なハズレくじを引くのはそんなに悪いことではないのかもしれない。



インモラルブルース




20101012 おめでとう坂田