夏がきたら死んでしまう | ナノ





真夏になるのが恐ろしい。毎年思うことだった。去年は初夏の縁側で、今年は一番初めに向日葵が咲いた日に、ああまたこの季節が来てしまったと、何度も何度もため息をついた。古い家屋が並び、夏になるとうんざりする程空気が茹だる私の住む小さな村は、6月の下旬にはもう蝉が鳴く。

みん、みん、みん。
みん、みん、みん。

その頃既に春は姿を山の向こうに引っ込めてしまって気配すら感じられない。この村の夏は突然この地に居座っていて、ちいちゃな頃からあつかましいと思っていた私は16になった今も同じくあつかましく思うのだ。だから、私は今日も機嫌が悪い。夏は毎日こうだ。張り付く衣服、煩わしい虫刺され、火照る身体、吹かない風。ゆったり流れる時間の真ん中をことさらゆっくり通り抜けて行こうとするこの季節を尻目に眉根を寄せた。気休めの扇風機に当たりながら畳に寝転ぶ私の名前を母が呼ぶ。蝉の声が重なって随分ぼやけて耳に届いた。身体は畳から離れたくはないらしい。呼ぶ声が、1回、2回、3回…ああ、とうとう怒鳴られた。











暑さがそうさせる。人を怒らせる。おかしくさせる。

「行儀良く食べんと!」

縁側に寝そべり西瓜を喰らう私の頭を母がピシャリと打った。手にはハエ叩きが握られている。私はハエなのね、成る程。きっと今、口答えなんぞをしようもんなら、この人の機嫌はもっともっと悪くなる。そうしたら私の機嫌だって倍悪くなる筈だ。暑さに負けず、利口になろう。やっと身体を起こしたが足はしっかり胡座を掻かせた。流石にこれには何も言わなかった母は、ハエ叩きをうちわに持ち変えて器用に切り分けられた西瓜を食べている。私の西瓜はもう皮が近い。甘いような酸っぱいような野菜の味がした。手から腕にかけて真っ赤なみずみずしい筋が垂れ落ちている。

「あんたの夏休みはいつまでだったっけかねぇ」
「8月の初めぐらい」
「そう。そのときには髪の色、母さんの染め粉できっちりしなさい」
「考えとく」
「あんたって娘は」

こんなぼうぼうとした熱気の中では、恐らく母も私もこれ以上押し問答はしたくないのだ。けれども何かしら会話がないと、それはそれで参ってしまう。脳が暑さで溶け出してしまうのではと、不安に思えてきてしまうから。
温い風がむわり押し寄せ近所中に垂れ下がる風鈴を鳴らした。きっかけはそれだった。

「今年の風鈴は何色かねぇ」

西瓜をかじり尽くしてしまったおかげで私には現時点で没頭できる事柄がない。だから、動揺した。今年。風鈴。何色。一昨年は空豆色。去年は浅葱色だった。風鈴の音色はあまり好きではない。そして今年の我が家にはまだ、風鈴は無い。

「…さあね」

汗ばむ瞼で瞬きを。そんな瞼の裏側で、うっすらと影が揺れた。記憶が生み出す奇跡。私の恐怖。がらんどうの縁側に私はいつだって独り。あの夏も、その夏も、どの夏も。いつだってあの男は私を夏に取り残して、そうして気がつくと消えていた。私をさびしくさせておいて、自分は勝手に行ってしまう。そのさびしい夏に脅かされながら私は日々を生きている。それはとても恐ろしいことだった。大きな手のひらが髪に触れ、額に、頬に、首に。駄目だ、暑さで脳みそがむせかえっているんだ。べとべとの肌を乾いた手のひらが滑っていくあの感触。決して首より下には触れないあの男の手のひらを思い出すだけで、私を囲む熱気が増す。体は面白いくらいに火照った。冷ましかたを私は知らない。ああ。

「今年はいつこっちに帰ってくるのかねぇ」
「知らないよ、だっていつも突然じゃん」
「もうそこら辺まで来てたりしてね」

雲も空も自分が主役だと思いこんでいるかのようにコントラストを強めてる。そこに我が物顔で光を放つ太陽は、もっともっと高飛車だ。庭の向日葵が誇らしげで羨ましい。私だってそんな風になれたらいいのに。夏の間中ずっとずっと胸を張っていたい。

「ふ、まさか」

会いたくない訳ではない。ただ、会っても会っても変わらないあの男に抱いてしまう小さな殺意や焦燥と、それからほんの少しの幸福感が恐ろしい。幸せは、夏の終わりに私の心を殺すから、怖くて怖くてたまらない。

ちりん。

音が聞こえた。

「あら、まぁ、銀時!」

母が喜びの声を上げたので、ついつい目線をやってしまった。ゆるり、濃い黒の影がくっきりと人間の形を真似て、縁側から伸ばしたままの私の両足を染めている。ちりん。ちり。ちりん。手元で揺れる風鈴が控えめに音を立てる。私の目玉は一点に釘付けされて、微動だにしない。白目が乾きそうだ。それほど見開いている。

突然影は忍びよる。物音を立てずに、しかし堂々と。いつの間にか私の目の前に立っていたこの男こそ、私の夏そのものなのだ。
男の唇の片方がつり上がって、赤い瞳が悪びれずに笑っている。なんと言っても、視力を奪うみたいに照り返す銀色。大きな手のひらに小さな風鈴。今年は、脳を揺さぶる鮮やかな黄色。黄色い風鈴。銀、赤、黄、どれもこれも身勝手な色。


「ただいまー」

間延びしただらしない声を合図に私の夏が咽び泣く。















ちいちゃい頃、河原も畑も道端も銀ちゃんのものだって思っていた。そして私もまた、銀ちゃんのものなんだと思っていた。気だるげに私の手をひいて歩く銀ちゃんの当時の背中にありったけの優しさやら希望やら好奇心やらを勝手に乗せて、わくわくしながら追いかけた。誰よりも、何よりも輝く人だった銀ちゃんの側にいられるのは永遠に私だけで、ここに銀ちゃんがいる限り、私には怖いもの等あり得やしないって思ってた。

でも違った。ずうっとここに、すぐ近くにいてくれると思っていた銀ちゃんは、中学を卒業したと同時に私の前から姿を消した。この村から出てってしまった。どこか遠い、「都会の学校」に行ってしまったのだ。私はそれを知らないままその晩眠りにつき、明くる日、号泣。そして涙が枯れたそのすぐ後に絶望を感じた気がする。あの時は、ぼんやりとしかわからなかった。でも今はわかる。あれは絶望以外の何物でもない。暗い夜。畳の、たった四畳半しかない小さな部屋で独り味わう究極のさびしさ、不甲斐なさ、悔しさ。私は絶望したその日に恋を知った。もう側にはいない男の人の背中を思い出しながら、醜い醜い感情ばかりが吹き出す中で、私は恋をしている自分にがっかりしたのだ。
だってそれから夏休みになる度に一瞬一瞬銀ちゃんが帰ってくる。

「大丈夫よ。毎年夏休みには必ず帰るって、銀時ちゃんとそう言ってた」

小さな、思春期の私を母が慰めてくれた。母の言う通り、銀ちゃんは毎年夏に帰ってきた。刹那的だ、こんなのは。嬉しくない。夏のほんの少しを切り取って奪い去ってゆく銀ちゃんが憎い。それでも私はこの三年間を必死に紛らわして生きてきたの。今年、銀ちゃんがまた帰ってきた。風鈴の音色を携えて、また。翌日、我が家の縁側にやっと風鈴が飾られた。銀ちゃんが近くに寝ている。母はいない。うちには今、誰もいない。なだらかな肌を触ってやりたくて仕方がなかった。私は高校生になった。田舎の女子高生になった。目の前に転がっているのは得体の知れない都会人だ。いや、宇宙人だ。その手で私に触って欲しい。むしろ、触れ、バカやろう。鼻の頭にかいた汗を舌で舐めとると、銀ちゃんのぴたりと閉じられた瞼が歪んだ。あまりに綺麗で嫉妬がしたくなる。あなたがいなくなって私は綺麗ではなくなってしまいました。だからもっともっともっと。我慢をするのはもう限界だ。私の体に生を吹き込んで、女を吹き込んで、頼むから。


私はこんなにも耐えた。


「なぁ、何したいの、お前は」

瞼を開けた銀ちゃんの赤い瞳に映る私は下着姿で髪が汗に犯されていて、そして手が銀ちゃんの襟元のボタンを外すのに躍起になってる真っ只中で、それはそれは惨めな姿だった。構わない。

「来年の夏は、ここに来るの?銀ちゃんはもう、三年生でしょ」
「社会人になろうと思うよ」
「じゃあもう夏休みはなくなっちゃうね」
「そうだな」
「今年の夏は、本当の本当に私をひとりにするんだね」
「母ちゃんがいんだろ」
「私の世界には銀ちゃんがいる夏しかないよ。でもね、それのおかげで私は毎日毎晩怖い思いをしてる」
「しょうがねーことばっかだなァ」
「そうだね」
「それで、お前は何。俺とどうにかなりたいの?それでお前は満足すんの?」
「都会ではこんなの日常なんでしょ。私とそういうことになってよ。そしたら私は怖くない。さびしくない。遠くにいようがどうだろうが、私の近くに、一番側に銀ちゃんを感じることができる気がする。それって、満足ってことなんじゃないかな」

銀ちゃんを久しぶりに真っ直ぐ見ながら、私は子供のようにわがままを並べる。筋の通らないことと知りながら、口を勝手に動かす。長い私の金色の髪が銀ちゃんの銀色の髪と交わって、けばけばしい。銀ちゃんの体に乗っかりながら世界を征服した気分でいる私にナイフが刺さった。鋭利な言葉のナイフが。

「してもいいよ。けど、したら本当に最後になるな。お前の知ってる俺は多分死んじまうけど、それでもいいならしてやるよ。俺はお前をいつまでも可愛いガキとして扱いたかったんだけどね」

それからのことは、暑さであまり覚えていない。だらしない声を出してみても蝉がそれを消して、無かったものみたいにしようとした。頭も体も暑くて熱くて、なんだか全部幻みたいだった。蜃気楼ってこういうのもそう呼ぶのかしら。ただの女に成り下がった私に銀ちゃんはもうなんの期待もしないのだろう。そしてもう会わないのだろう。だからあんなに気持ちがよかったのかもしれない。一生分の熱を、夏を感じたのだ、多分。だからもう怖くない。怖くないよ。だって来年はもう夏が来ない。

「銀ちゃん」
「んー?」
「私はありとあらゆるものを犠牲にして、夏を捨ててやったわ」

裸のまんま、畳に全身を預ける二人を窓の隙間から太陽が見ている。形だけ寄り添う私達に再び絶望が浮かび上がる。銀ちゃんの返事はない。だから最後まで銀ちゃんの気持ちはわからないままなんだなって思ったのに、視線を向けたら銀ちゃんはなんでか涙目で、私は心臓がぎゅんとした。

「あーもう、お前、なんでそんなバカなの」
「どうしたの?」
「俺、お前が大好きだったよ。本当、マジで。なのに、バカか、クソ。ああ違うか。バカは俺か」

銀ちゃんの言う大好きがどういう意味なのか、少しわかってしまった私に罪悪感に似た何かが生まれた。そしてこの恋の終わりが見えて、心のどこかでホッとした。


みん、みん、みん。
ちりん、ちりん、ちりん。


蝉がうるさい。風鈴もうるさい。心いっぱいに涙を浮かべながら、私の夏が去ってゆく。怖くはなかった。ただ、ほんの少しさびしい。さびしさは永遠に埋まらない。私はもう少女ではないから、この人の背中には何もしょわせられない。それでいい。私がいつか、例えばそうだ、高校三年生になった時。銀ちゃんと同じ歳になった時、そこで要約この日の本当の意味を知ることになっても。


「私も大好きだった」


温い風が通り抜ける。最後の夏を見送った。私の頭の中では、惜しむように一面の向日葵畑が浮かんでいる。年老いて死ぬ直前に、もう一度この景色が目に浮かぶことを願った。

果たしてそこに、あなたはいるのでしょうか。




夏がきたら死んでしまう










20100712