とても尊く思うから | ナノ
※ネタバレを含んでいます









初めて彼と会った時に感じたのは、"ああ、きっとこの人は腹の底に住む獰猛な獣を無理矢理飼い馴らして生きているのかもしれない"だった。エースは初め、熱した刃物のようなぎらつく瞳をしていて、次第にそれは静かに威勢を無くし鎮静していき、やがて良く笑うようになっていった。その一連の変化を見届けても尚私の本能はそう言ってサイレンを鳴らしたが、長くは続かなかった。日に日に穏やかな色を見せるエースの瞳に安心したのだ。"良かった、もう大丈夫ね"って。
良く順応してくれたと思う。心をきちんとプラスの方向へ自ら導いてくれたのだと。周りの人間は彼に良くした。新しい仲間に無償の愛を注いだ。勿論私も同じで、彼を受け入れたいと願ったし、快活に笑う彼の健康的な笑顔を守ってやりたいとそう思った。それが効を成したのか、ある程度の時間が経った時にはもうエースに初めのような不安定で危うい何かは息を潜めることをしなくなったように感じて、私達は誰も口にはしなかったけれど皆心底安堵仕切っていたのだ。エースの方も私達に懐いてくれたし、私達の為にその底知れぬ強さを差し出してくれた。その中でも幸せなことに特に私には皆とは別の感情から懐いてくれて、私はそれに答えていつの間にかベッドだって何度となく共にするようになっていて。巡る夜を二人で過ごす。それはとても幸福なことだった。真っ白なシーツにエースと一緒に包まり訪れる朝に同じ希望や好奇心を抱いて。世間はそんな二人を恋人と呼んだ。私も同じくそう呼んだ。何度も言うが幸福だったのだ、私は彼を愛していたのだから。彼も私を愛していたのだから。これだけは間違いない。嘘なんかじゃない。そう、間違いなんかでは無かったの。けれど後に、私は彼の中に居座る獣に頭から爪先まで容赦なく喰われることとなる。気付けば私は喰われていた。自分でも知らぬうちに背後から襲われていた。いつの間に。いや、ひとつだけ心当たりが、ある。それはきっとあの日。なんてことはないいつもの夜。私は平気で彼を傷つけていた。ような。それはそれは、自分でも気が付けない程意外なやり方で。

あ。

たった一度、彼に言ったことがある。


「ね、中に出して」

「‥‥‥‥‥‥なに言ってんだ」


熱を伴う行為の、クライマックスよりも少し手前で息も絶え絶えに必死になって捻り出した私なりの最高の愛の言葉である。女として産まれたことに幸せな意味を持たせるこの上無い愛をねだる。下心は無かった。純粋に、無垢な心で彼に願った。理由なんてそんなの愛しているからに決まっている。卑しくもなんとも無い本心からの願いだった。荒れる海の上に私達は生きているのかもしれない。嵐のように暴力的な時代の先に立って生きているのかもしれない。だけどそれでも私の生命は愛する人との奇跡をその身体に宿したいと切に願った。これは、自然の摂理だ。女なら、男なら、人間なら、動物なら、誰しもがそんな奇跡を起こしたいはず。私と彼が起こせるたったひとつの奇跡。だから口にした。冗談だと捉えられたとしても笑って付き合ってくれたならそれで良かったし、本気に捉えてくれたら尚更幸せ。どちらでもいい。どちらにせよ、エースは優しく微笑んでくれると思った。なのに、今思い返せば。
彼は確かに笑ったけれど、一瞬怯えたように顔を歪ませなかっただろうか。ほんの一瞬、私はその一瞬確かに危険を感じたような無かったような。やっぱり本気にしては貰えなかったけどあの時はさして気にもしなかった。彼は茶化すように呆れた笑顔を浮かべていたから。そうしてまた私の身体を揺らしたから。疑問に思うタイミングを逃したまま津波のように押し寄せる快楽をせき止められずにそれに身を投じた。二人はいつものように熱に溺れた。大きな掌が頭を包んで引き寄せキスを落として行く。気を良くしてその手にきつくしがみつく。果ててもその手を離さずに、もっともっとしがみついた、あの夜。


「なぁ、俺の子供、欲しい?」
「‥‥さっきのこと?」
「ああ」
「そりゃあ、まぁね。エースはびっくりしたかもしれないけど誰だって愛してる人の子が欲しいと思うわ」
「へぇ」
「エースは私の子はいらない?」


熱を冷ますように冷たい無機質なブラシを髪に通しながら悪戯に笑って振り返ると、裸のまま俯せにだらし無くシーツに埋もれた姿のエースと目が合った。少し虚ろな目は事が終ったあとのお馴染み。だからここでも私は見落とした。

「髪、とかすのやめてこっち来いよ」
「なに、どうしたの?」
「いいから」
「はいはい、ちょっと待ってて」


急かすエースに答えてやる為に早々にブラッシングを切り上げて彼の腕の中に身体を捩込ませた。待ってましたと言わんばかりに暖かい腕が背中に回る。内側から溢れる愛おしさに顔がゆるんでしまった。


「もし、万が一俺の子供なんて出来ちまったらどうすんだよ」
「産むわよ」
「それ本気かよ」
「当たり前じゃないの」
「だって俺だぜ」
「何か問題ある?私は充分よ」
「‥‥‥‥どうかな」
「なに?小さくて聞こえない」
「なんでもねぇ」
「なによ、気になるでしょ」
「だからなんでもねぇって」
「感じ悪い」
「あー眠ィ。寝よ」
「ちょっと!」
「‥‥‥‥‥‥」
「‥‥‥エース?」
「‥‥子供に好かれる自信ねぇなぁ」
「男ってほんっとビビりよね。大丈夫よ、あなたほど素晴らしい父親はいないと思うから。それに誰だって親を愛してるでしょ?」
「‥‥‥そうかな」
「そうよ」
「‥‥‥だと、いいな」


見上げたエースの表情はこの時も笑顔だった。見慣れた穏やかな。‥‥見慣れた、穏やかな?ちょっと待って、違う。あれは全然穏やかな笑顔なんかじゃない。
ここ。ここだ。気づけなかった。解らなかった。私は彼を見落とした。一番大切な所で大きなミスを。私の愛は身勝手に彼の喉元に刃を宛てた。そのことに、気づけなかった。あれは、私を諦めた笑顔だった。


私は、もう随分前から彼を喪っている。


その翌日からの日々はまるで空虚なものだった。それにすら気が付けずにこんな所まで来てしまった。ひとつ綻びただけで、幸福だった記憶が次々に同じく綻びていく。何故解らなかった。あの日からエースが私に向け続けていた笑顔とは、正にそれだったではないか。彼はいつだって悲しい笑顔で私を抱いて、その顔で愛を囁いて、その顔で、その顔で。ただ怖じけづいていただけだと思っていたのに全然違う。あれはそんな軽いもんじゃない。あれは彼の本心だ。今ならわかる。今なら。‥‥‥今更過ぎた!


彼の父親は私達のヒーロー、と同時に民衆にとって最低最悪のヒール、だ。
では、彼にとっては何だったのか。


「それこそ"獣"じゃないの」


繋がっていく。出会ったばかりの憎悪しか巣喰っていないエースの瞳。私達が感じていた強烈な彼の危うさ。確かに一度は鎮まった。だけどまたその獣は姿を現した、今度は憎悪を通り越した深い悲しみの姿で。そうさせたのは、私だ。おかげで彼は私を諦めてしまった。諦め?いや、失望?どちらもだ。愛を囁きながら腹の底ではいつも私に失望していた。そりゃそうよ、私はエースの何もかもを余りに知らなさ過ぎていた。それどころかわかったような気になって。それであんな、あんな。

"誰だって親を愛してるでしょ"

リフレイン。軽率にも程がある。自分の物差ししかもちえていなかった自分がどうしようもなく憎い。駄目だ、遅い、遅すぎる。私はもっと早くに彼に気付いてやりたかった。彼が零す言葉の意味や奥行きをもっと追求してやるべきだった。例え彼がそれを望まなくとも、無理矢理にでも聞き出してそして本当の意味で理解をしめすべきだった。何が中出し、だ。子供なのか私は。思い出せば出す程恥ずかしい。エースは怯えていたのよ。私の言葉に怯えていたの。私と繋ぐ命は自分と同じ地獄を味わうかもしれないから。
背筋が冷えた。たった今、エースの真実が最悪な形で世に知れ渡った。もし万が一、エースが言った通り私が彼の子を身篭り、そして産みおとしていたら、どうなっていたか。そしたらエースはきっと自分さえ憎んでしまう。あ、駄目だ。まっくら。



エースまで遠い。もう手も届かないぐらい遠い。どこで気づけていれば私達はひとつでいられた。



緩やかに緩やかに、巨大な氷が一滴一滴汗を垂らし次第に形が無くなって行くみたいに、気が遠くなるような長い時間をかけて、私は彼を喪っていた。けれど実際は振り返るととてもあっという間だったのだ。こうしてたやすく口に出せる程、何かの例え話を引き合いに出せてしまえる程。それに気がついたのが、呆れる程遅すぎた。

そうして私は今度こそ彼を本当に失う。エース、あなたは本当に優しい人。私に失望していたはずなのに、それでも旅立つその日まで私に優しい嘘をつき通してくれていた。愛してると、優しい嘘を。あなたに詫びたい。詫びたいのに、詫び方がわからない。きっとあなたは私に詫びられたいとも思ってなかったね。私が気付かなくても構わないって思っていてくれていたのかなぁ。だとしたら、それはお人よし過ぎる。何度も叫ぶ。あなたは優しい。誰を憎んでいても、誰から生を授かっていても、獣をその体に住まわせていても、あなたの優しい本質はきっと何にも侵されない。


それとも、獣を飼っていたのは私の方だったのかもしれないね、エース、エース。






とても尊く思うから






お題/亡霊
20100406