情けなど無用どうせならキスがいい | ナノ



玄関先でみっともないキスをしている。


それはそれは目茶苦茶な、身勝手な、暴れ回るみたいな、そんな余裕の無い大人なキスを。私の唇に蜜でも乗っているの?と聞きたいのだけど生憎息継ぎをするのがやっとで、聞けず了いになりそうだ。クラシックベージュのグロスが剥げて唾液と溶解。潤んだ吐息が辺りを湿らせ時折結ばれる視線は熱を孕んでどうしようもない。この男のキスはいつもそうだ。好きなように好きなだけ、私の事などお構いなし。男だからね、それでいいと思うんだけど。このくらい我が儘なぐらいがベストだと思うんだけど。

けど少しくらい愛を含めてくれてもバチは当たらないのにね。


「‥‥‥‥‥あ」
「なに?寂しい?」


唇が蝶みたいにひらひら去った。さっきまでの情熱的なそぶりは何処へやら。名残惜しかったのか、ただの拍子抜けなのか、わからないけど声が出た。それに得意げになって笑う男の顔に愉快さが交じっていてあまり良い気分じゃない。でもそれはそれで馬鹿馬鹿しい。こんなことで不愉快なんかになっていちゃそれこそこの男の思うツボ。返事の代わりに靴べらを渡してやった。男は大人しくそれを踵に宛がい顔に似合わない上質な革靴をさらりと履いた。こんな簡単な動作にですら一々格好つけちゃって。本人に自覚はきっとないんだろうけど。

「じゃあね、またなんかあったら呼んでくれていーから」
「うちの電球は多分しぶといからしばらくはそんな機会ないと思うけど」
「わかんないでしょ。今日みたいにいきなりブツンと切れちゃうかもよ」
「明日ホームセンターで脚立でも買う」
「あそ。ま、いーんでない」
「今日はどうも。助かりました。おかげで快適なバスタイムを送れそう」
「はいはい、本当は一緒に入ってやりたかったんだけどねー明日はえーんだわ、教師ってこれだからね〜」
「おやすみ」
「お前可愛いげって言葉知ってる?」
「じゃあね坂田。恩に着る」


なんだかなぁ、と頭を掻いて部屋を出て行く坂田はドアの閉まるギリギリでまたにっこり笑って「またね」と口を動かした。何事も無かったみたいに鍵を閉めて部屋に戻る私の顔はきっと真っ赤な林檎みたいに熟れている。なんてことだ、自分が自分で恥ずかしい。紛らわしたくて冷蔵庫からビールを取り出す。グラスにアイスを適当に入れ無理矢理喉越しの手伝いを。これぐらいに冷えていなくちゃ私の熱は治まらない。一杯だけ、一杯だけ飲んだらいよいよお風呂に入るとしよう。シャワーで済まそうとしていたけれど折角だからお湯を溜めて。グラスを片手にバスルームへ向かい潔くカランを捻った。勢いづいた熱めのお湯がもやもや蒸気を放って揺れる。一瞬にしてむせ返る程の熱気に包まれた決して広くはないバスルームに私はひとり。グラスが汗をかいて雫が垂れる。


「相変わらず嫌な奴」


呟いた言葉は喧しいお湯を注ぐ音に掻き消された。リビングまで待ちきれなくてビールに口をつける。冷たくて冷たくて、つい先程まで熱にうなされていた唇が我に返った。どうしてこんなことになってしまったのか。虚しいため息をつきながら脱衣所の床に座りこんだ。あれは、私の欲望のみが成せる業。計算づくの私の独りよがり。灯る明かりに目が眩む。たかだか60ワットの電球がこんなにも眩しい。だって彼が触ったんだから、当たり前じゃない。なんて、私はいったい何を気取ってそんなこと。それにしてもお酒が美味しい。とても気持ちが良いのだ。アルコールがこの世にあって幸せだ。なんだか色んなことが紛れていくからどんどん身体が軽くなる。一杯だけって決めてたのにね、もう無くなっちゃうわよどうしよう。‥‥どうしよう。





◇◇◇





坂田が部屋に来たのは30分前のこと。シャワーを浴びようと、服を脱ぎながらバスルームのライトをつける為にスイッチを押した私は異変に気がついた。カチカチと縋る思いで同じ動作を繰り返してみたが全く無意味に終わった行為に減なりしながら最後にもう一度懲りずにスイッチを押してみた。物言わぬ電球がだんまりとこちらを見ている。私は一気にうなだれた。まさか、今日このタイミングで電球が切れるだなんて運が悪いったらない。今日は汗もかいたし早くサッパリしたかったのに。とりあえず買い置きしていた電球を手にしてみるもどう頑張っても私の背じゃ届かない。しばらくどうしようかと悩んでいたが拉致があかなくて、とうとう携帯を開いた。こんなこと頼めるような人間なんて他にいない。こんな、どうでもいいようなこと。すんごい癪だけど仕方ないじゃない、何が悲しくて元彼なんかにおめおめ連絡しなくちゃならないの。ついてない。そうだ、今日はついていないのだ。ただそれだけ、それだけだ。通話ボタンを押して目をつむる。あの男は絶対私の電話に出る。だって奴は世界一嫌な男だから。





◇◇◇





「はい、終わり」
「ありがと」
「んな時間に何かと思えば電球交換って俺をなんだと思ってんのお前は」
「コーヒーでも飲む?それかバナナオレもあるけど」
「バナナぁ?惜しい。でもバナナオレで」
「相変わらずだね」
「そうそう人間変わんねーよ」


埃を払うのに手を鳴らす坂田を尻目にバスルームから出る。こういうところは私も同じく相変わらずで、聞きたくない言葉からはいつもこうして逃げてきた。変わらないと言えてしまうなんてとんだ大嘘つきじゃないか、そんな言葉を求めて相変わらずだなんて言った気はさらさら無い。先に変わったのは何を隠そう坂田本人じゃないの。ああ、よそう。こんなことを思ったって何がどうなる訳でもないじゃないの。こんな感情は賢くないし、歪みだらけで美しくもない。醜い女なのは百も承知だけれど悟られるのは真っ平。


「切れた電球片しといたから。あと切れてる場所とかねえの?」
「あー、無いよ。これ、バナナオレね。そこのソファにでも座りなよ」
「おーサンキュー」


手渡して自分もソファの端に座った。二人して端と端に座ったおかげで真ん中がぽっかり空いている。じれったくて奇妙な距離だ。なんて居心地が悪いんだろう。自分で呼んでおいて私はとても勝手だ。


「最後に会ったのっていつだっけ」
「‥2ヶ月ぐらい前じゃない?」
「だよなぁ。そんときは水道凍結したとかで呼ばれたような」
「そうだっけ」
「俺はなんでも屋さんじゃないから。今日だってたまたま残業だったからついでに帰りに寄ってやっただけだからね。高くつくぞー」
「今度なんか奢ったげるよ」
「忘れないように」


ズズズ、坂田が飲み物を啜る音。耳にこびりつきそうだ。違う。本当はもう、全部こびりついているのだと思う。だから私はこの男を部屋に入れてしまうのだ。自虐的だわ、こんなの。何かしら理由を作って、またタイミング良くトラブルが起こるから私はそれを良いことに正当化する。別れた男とたった30分会うために私はプライドなんかかなぐり捨てて通話ボタンを押してしまう。期待しているのよ。いつだってそればかり。


「さて、行くわ。眠たいし」
「わかった」


立ち上がり部屋を出て行く坂田の後ろを歩きながら私はまた期待を膨らませて僅かに自己嫌悪。


「お礼なんだけど」
「え」
「やっぱこれでいい」


そして冒頭に戻るのだ。




◇◇◇





私はね、こうして別れた男のキスを待っているのよ。ついででいい。おこぼれや気まぐれや、粗末なものでもなんでもいい。そしてそんな自分を恥じて頬を染める。羞恥で塗れる。嫌な奴だと罵る癖に少しでいいからそこに愛は無いのかと必死になって探ろうとする。欲で溢れた獣みたいに渇望している。けれど臆病者な私はそれを隠すのにも必死で必死で。

結局最後はどうしたいのかわからなくなる。一杯と決めたビールをもう一度グラスに並々注いだ。湯舟は遠い昔の二人の記憶と全て流す熱湯で今頃洪水になってるはずだ。電球が切れて、本当は嬉しい。脚立なんか必要無い。本当に捻た女。人や物のせいにするのが得意な浅知恵しか働かない気の毒な女。

今頃坂田は可愛いげで溢れた女に微笑んでいるんだろうか。甘い好物をグラスに注がれて、そこにはきっと愛も沢山注がれて。そして昔私が呼んでたように名前で呼ばれているんだろうか。


「銀ーずーっと私のこと好きでいてねー‥‥なあんてねー‥‥あーもうなんて滑稽な」


多分明日の朝冷蔵庫にビールはもう無くて、私は無理矢理早起きをして慌ただしくシャワーを浴びていつものように仕事に行くのだ。今度はどんなトラブルが起きてくれるのかとそんなダサい期待を胸に。坂田、やっぱりあのキスが名残惜しいです。私すごく寂しいです。だからね、今夜はひとりお酒を飲みます。坂田のいない暗い世界の端っこで。



情けなど無用
どうせならキスがいい







お題/アメジスト少年
10100317