今朝、毎朝学校に行く道の梅の木に、つぼみが咲いていることに気がついた。感慨深げに吐いた息がまだ白かったから、忘れていた。もうすっかり、春だったこと。

(もう、一年過ぎちゃったんだ)

今日は卒業式だったので、いつもよりだいぶ早く帰ることができた。小学校と違って、中学校というのは学校全体で門出を祝うのだ、と俺は今年初めて知った。光の差し込む体育館で、冷たく柔らかい空気の中、知らない先輩たちが涙をこらえながら歌う姿を見たけれど、実感はなかった。俺はそのときまだ、ほんの一年生だったから。
ホームルームを終えてすぐに教室を飛び出したので、帰り道はとても静かだった。振り返ると、校内はまだ、かすかに高揚感が満ちている。別れや寂しさと一緒に、どこか浮き足立つような、そんな空気が満ちている。
もうすっかり日が延びて、午後の終わりでもまだ影は伸びない。
それでも、空気は冷たい。



家について部屋に戻ると、なんだか急にああ疲れたな、と思ってしまう。俺はベッドに倒れこむ。制服のままだったけど、どうでもよかった。卒業式でただ座っていただけなのに、どうしてこんなに疲れるんだろう。うつ伏せから寝返りを打つと、制服の形がよじれる。ふと、そういえば一年前はこの肩パッドに慣れなくて嫌だったことを思い出した。この一年で随分と馴染んだ。じゃあ、卒業するときは、体の一部になっちゃうのかな。
今日、帰り際に門の前で人の群れを見た。ホームルームの前に、友達と密かに騒いでいたクラスの女の子と、その友達だった。その先には知らない先輩が居て、そういうことかって思ったんだ。横を通り過ぎるとき、「今日しかないのよね」って会話が聞こえて、俺はやっと気づいた。今日が特別な日なんだってこと。
卒業するって、そういうことなんだ。
俺ははっきり言ってこの学校の三年生の先輩で、特に親しい人が居るわけでもなかった。だから、ただなんとなく過ごしていた今日は、本当はとても大切な日だった。大切で、特別で、でも。俺にはやっぱりそう思えない。思いたくなかった。
俺はなんとなく机を見上げた。文房具に混じって、ポツリと飾ってある写真を眺めて、ため息をつく。肩を組んで笑う顔。今は離れ離れになってしまった仲間たち。全く信じられないことに、写真の中で笑う俺は、そのとき確かにそこにいたのだ。彼の隣で笑っていたのだ。
親しい人が、彼が――綱海さんが傍に居なくて、おめでとうもさようならも言えないなんて、特別じゃない。ううん、違う、本当はそんなんじゃないんだ。
だって、別れたくなんてない。

「俺には、今日もない・・・」

ため息を吐いて、なんとなく天井を見つめていると、突然耳の横の携帯が鳴り響いた。知らない番号からだった。俺は恐る恐る受話器を耳に当てる。

「――も、」
「あっ、でた!立向居?立向居か?!」

もしもし、という前に、キンと鼓膜を貫く声。俺は返事ができなかった。久しぶりに聞く声に、心臓が大きく弾んで、思わずベッドから立ち上がる。
綱海さんだった。

「もしもし?」
「・・・はい、そうです。俺です」
「はあーよかった!コレ音村のケータイだからよ、でねェんじゃねエかと思ってヒヤヒヤした!でてくれー、でてくれー、ってさ」
「そう、なんですか」
「そう!てかなんで音村が立向居の番号知ってんだ?ちょっとムカツク」
「人脈を広げたいから、って言われたんですよ。多分雷門だったら全員知ってるんじゃないかな」
「なんだそりゃ」

思わず苦笑をもらすと、電話口からふてくされた声が返ってくる。
なんだかひどく、懐かしく感じた。

「ま、いいや。それよりいまどこにいんの?」

少しだけ声が遠くなり、喧騒が大きくなる。後ろからクラクションの音。なんだかとても騒がしいところに居るみたいだ。きっと外から電話をかけているんだろう。周りに居るのは友達かもしれない。そう思ったとたんに、なんだか体が重くなり、俺はベッドに体を沈める。高揚で跳ね上がった心臓が、一気に胸にのしかかってきたみたいで。

「家に居ますけど・・・」

思ったより小さな声で返事を返すと、綱海さんは黙ってしまったのか返事がかえってこない。俺はなんだか焦って、名前を呼んだ。するとゆっくりと間を空けて、綱海さんが低い声で言った。

「・・・・・・駅まで、でてこれる?」

返事をするより先に俺は靴をはいて玄関を飛び出していた。駅までは走っても十五分はかかってしまうから、焦る気持ちで必死にコンクリートを蹴った。俺がこんなに急いでも、駅に彼がいる保障なんてどこにもないのに、馬鹿みたいだ。けど、それでも走らずにはいられなかった。

――今日しかないのよね。

そうだ、今日しか今日はないんだ。
最後の角を抜けると、駅が見えた。俺の最寄の頼りない小さな田舎の駅。こんなところに本当に、彼は居るのだろうか。不安と期待が入り乱れて、息が苦しくなったけど、走ったからだってことにした。こめかみを汗が伝う。心臓がすごくドキドキいっている。今更、後悔がじんわりと現れ始めたとき、手を振りながら、駆けてくる姿が見えた。俺はなんだか泣いてしまいそうになった。
綱海さんだ。
俺も今すぐ駆け出してしまいたかったのに、体が言うことを聞かなくて、ただ立ち尽くしていた。だって信じられないことだったから。
綱海さんが駆け足で近づいてくる。そのまま彼は立ち止まらずに、俺に思い切り体当たりをした。ひどく手加減されたそれは、俺を優しく抱きこんだ。人目を人一倍気にする俺のことを思って彼は、乱暴に俺を抱き寄せていたことを思い出す。懐かしくて、暖かい。肩から背中に伸ばされた腕に、俺も腕を絡めて綱海さんの肩に下から手を回した。
しばらく無言で抱きしめあってから、綱海さんは俺の肩をつかんで目を合わせた。俺は数歩歩いて間を空ける。そこで俺はやっと、空気が冷たかったことに気がついた。

「・・・来ちゃった」
「・・・来てくれちゃいました」

二人で軽く笑った。久しぶりに見上げる目線は、少しだけ高くなった気がする。

「受験を終えて大人になった俺は、中学最後の春にこうして一人旅にでたのであった。」
「なんですか、それ」
「・・・ひさしぶりだな」
「・・・はい」
「元気だったか?」
「元気でした」
「・・・なんか変だな」
「・・・そうですね」

綱海さんは大海原の制服のまま、俺の地元の駅前に立っている。すごく変なことだと思った。大海原もどうやら俺と同じ学ランで、俺も今学ランだから、まるで同じ学校に通っているみたいで、ひどくおかしかった。実際は肩を並べて登校したことなんて一度もないのに、今日、同じ体育館に居たわけでもないのに。
綱海さんの学ランはくたくたで、妙になじんでいるように見えた。やっぱり体の一部になってしまうのかもしれない。そう思うと、途端に実感がじんわりとやってきて、のどの奥が熱くなった。
綱海さんは、卒業してしまったんだ。

「・・・立向居?」

綱海さんが心配そうに俺の顔を覗き込む。俺は慌てて袖で目元をぬぐった。
でも、頬に水が伝うのがわかる。だめだって思ってるのに、顔を上げることができない。それでも言わなくちゃ。今日しかないんだ。
息をゆっくりと吐いた。

「綱海さん、卒業お、おめでとうございます、・・・」

小心者の俺は馬鹿みたいに、しゃくりあげながら途切れ途切れに言うしかなかった。





「・・・・・・おん?」




のに、綱海さんは馬鹿みたいに間の抜けた返事をした。
俺は思わず綱海さんのほうを見て、瞬きをした。

「俺が?卒業?・・・いつ?」
「えっ・・・今日じゃないんですか・・・?」
「えっ・・・今日だったの・・・?」
「俺のところは・・・」
「あ、俺のとこ、来週かも・・・」
「・・・・・・ソウナンデスカ」
「・・・・・・・・・ソウデス」

沈黙。
俺は恥ずかしさのあまり頭を抱えてしゃがみこんだ。もうだめだ。立ち直れそうにない。一人で勘違いして勝手に盛り上がって、挙句、泣きながらお別れの言葉を言おうとしてたなんて、
その勢いで、ボタンをもらおうなんて企んでた、なんて。

「・・・その、立向居?」
「・・・・・・・・・・・・・・・ハイ」
「なんで俺がわざわざここまで来たンだと思う?」

知りませんよ、と返事をするのも気後れする。俺だって浮かれてまっすぐ迎えに来たのだ。しゃがみこむ俺の目線に合わせるように、綱海さんも向かいにしゃがんだ。優しい声が落ちてくる。

「俺はな、予約しに来たんだよ」

俺は顔を上げる。直ぐ目の前には、綱海さんの顔があって、驚いた拍子に胸倉をつかまれた。
そしてそのまま、俺は彼の胸の中で、目を回す。
綱海さんは、俺の制服を口元に寄せて、キスをした。

「立向居の、コレ!」

俺は返事ができなかった。
なに考えてるんですかとも言いたかったしこんなところで何をとも思ったけど、綱海さんが恥ずかしくて、でもそれ以上に嬉しくて、そんな自分が恥ずかしくて、つまり、
泣いてしまった。
綱海さんは見るからに狼狽えて、俺の肩を掴んで顔を覗き込んだ。

「んお!?メ、メーワクだったのか・・・?」

俺は首を横に振った。

「じゃあ、どうしたんだよ」

次から次へと、涙が溢れるのを何度も何度もぬぐって、それでもとまらなかった。涙の流れた跡が冷たい。
返事ができない俺に綱海さんは眉を寄せて、一瞬困ったような顔をした。

「・・・チューする」
「・・・えっ?」
「言わないと、チューする」
「えっちょっまってウワアアアア」

有無を言わさず、綱海さんは顔を近づけてくる。俺は涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔のまま、必死に喚いた。

「おっおれも欲しいんです、」

ピタリ。
目の前の影が動きを止める。

「やっと言ったな、」

そのまま、綱海さんの腕が俺の顔を乱暴に拭った。

「俺の目的の二つ目」

そして、手を握られる。
開いてみると、ボタンが一つ転がっていた。俺が欲しくて仕方なかったものだ。彼の心臓に一番近い、金色のボタン。俺は綱海さんとボタンを交互に見ながら、口をパクパクさせた。

「やる。欲しいんだろ?」

綱海さんはいたずらっぽく笑い、俺の第二ボタンを小突いた。俺の胸に感触が伝わる。熱くて、すごく脈打っている。

「ほんとは、嫌がってでも押し付けるつもりだったんだけどな、前払いってことでさ」

俺はボタンを握り締める。手のひらが熱くて仕方なかった。
俺は勘違いしていた。さよならばかりを考えていて、思い出だけもらっておこうと思っていた。綱海さんはこうして、二年後の約束を持ってきてくれていたのに。今日しかないなんて、うそだ。
特別な日だからこれしかないなんて、そんなことなかったんだ。

「いえ、前払いはだめです」

俺はボタンを綱海さんに差し出す。彼の瞳が狼狽えたのが見えた。さよならに怯えていた俺も、きっとこんな風だったのかもしれない。

「これをもって、また、俺が卒業する時に来てください。そうしたら交換、します・・・だめですか?」

綱海さんが瞬きを繰り返す。そして笑いながら、俺の手をとった。まだ春の一歩手前で、彼の体温が暖かい。気付けば太陽はすっかり沈んでしまって、街灯に明かりが灯りだすころだった。ここが駅の前であることや、ロータリーに人が行きかうことを忘れてしまうくらいには、俺も必死だったのだろうと思う。
綱海さんは俺の腕を掴んで乱暴に腕の中へ引き寄せて、こっそりとキスをした。

「今度この分も返せよ」

綱海さんはいつも、人目を気にする俺のために乱暴な動作でスキンシップをとるけれど、その分自分の欲にも忠実なのだった。





ご卒業おめでとうございます!



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