※生徒南雲×教師涼野










黒板に白い文字が浮かび上がるのを、南雲は黙って見詰めていた。文字は呪文のように、日本語を綴ることなく、数字やアルファベットがイコールで結ばれていく。それらを黙って眺めていた南雲だが、目を擦りながら、とうとう大きくあくびをした。
「それ、いつ終わんの?」
「退屈なら帰れ」
欠伸の音に涼野は眉根を盛大に寄せながら、振り返ることなく黒板に向かって言った。
「今帰ったら間違いなく補導されるから嫌だ」
「潔く補導されろ。少しはマシになる」
「・・・教師のセリフかよ」
「私は君の担任じゃない」
南雲は少しだけ不貞腐れたように涼野を見る。
「なんだそれ」
カツカツとチョークは黒板を叩く。南雲はただそれを眺めている――正しくは、数式を刻む背中を眺めている。飽きもせず。
「帰らないならテストを受けろ。保健室受験の南雲くん?」
「うっせ」
「大体、頭が痛いって言いながらトイレに向かったそうじゃないか。馬鹿にもほどがある」
南雲は忌々しげに眉を寄せた。
「・・・なんで知ってんだよ」
「ついさっき、基山くんがさも可笑しそうに話してくれたよ」
ってことは、アイツもサボりか。南雲は思った。
「そういうアンタだって試験監督サボってんだろ」
「当たり前だ、あんな時間の無駄遣い。テストしてるところなんて見てたって面白くもなんともない」
そう、涼野はきっぱりと言い放った。
「大体、君はツメが甘いね。私だったらもっとうまくやる」
鼻で笑いながら、涼野は振り返った。目が合って、南雲は慌てて視線を黒板へずらす。白い文字で埋め尽くされて、見ているだけで酔ってしまいそうだ、とうんざりした気分になった。南雲は大きく息を吐き、机に身を伏せて涼野が再び黒板へ向き直るのを黙って目で追った。教卓を挟んだ向こう側で、白衣が忙しなく数式を書き連ねていく。

――距離がまだまだある。

彼はれっきとした数学教師である。担任は持っていないが、授業はいくつか受け持っている。しかし、涼野は実のところ教師職に全く興味がないことを南雲は知っていた。彼は数学以外のことには無頓着なのだ。事実、涼野がこうして職務放棄をするのも初めてのことではない。
そのたびに南雲は涼野を探しては、彼の怠慢に付き合っていた。涼野は嫌な顔こそするが、追い出すことはしなかった。
ただ、涼野が数式を書き連ね、南雲がその背中を見ているだけだった。

「なあ、じゃあ何で教師になったの」
南雲は尋ねた。
「アンタ、数学がやりたかっただけなんだろ。だったら別に、教師じゃなくてもいいじゃん」
涼野はいらえを返さず、黙って手を動かしている。
「なあ。こっち向けよ」
力の強い声が響く。涼野はこの声が嫌いだった。
「・・・君は、私が教師であることが不満なのか」
半ば諦めたように振り返ると、南雲が教卓から身を乗り出した。急に距離が詰まり、涼野はたじろぐ。
「不満だな」
じわり、と一歩、涼野は身を引く。
「なぜ」
しかし、何故だかかえって距離が詰まる気がする。さらにまた、一歩。
「俺はどうやったて生徒だから。アンタの」
コツ、と踵が壁際にぶつかる。背中に冷や汗が伝うのがわかった。いつの間にか南雲は教卓を乗り越えて、こちら側に腰掛けている。一人の時はそう思わなかったのに、なんだかひどく狭く感じた。
少しだけ低い位置から、南雲が見上げてくる。視線がピタリと重なった。
涼野は黙って壁際に立ち尽くす。
「なんで教師になんかなったの」
もう、南雲との距離は拳を挟むほどにしか開いていない。しかしそれに嫌悪していない自分がいることに、涼野はその時初めて気づいた。

――なぜ。

「数学が、好きだから」
南雲は眉を寄せる。
「私は、数学さえあればなんでもよかった。数学は好きだ、答えがすべて決まっているから」
声が震えた。
涼野は数字を無心で追いかけるのが好きだった。絶対に決まった答えが出てくる。それだけを考えていればいいというのが楽だった。
しかし南雲が、それをさせない。
涼野は横目で黒板を見やる。
「でも、いくら考えても、公式を使っても――答えが出ない」
南雲は首を傾げる。涼野は小さく息を吐き、目を伏せた。
「・・・混乱しているんだ、たぶん。君がいるといつもそうだ。まとまった考えがだせなくなる。だからがむしゃらに仮定を立ててみるけど――」
涼野が授業を放棄するとき、決まって南雲もそれに付き合った。涼野は授業外であっても、ずっと黒板に張り付き数字を追っていた。南雲は、それはただ単に彼がそうするのが好きだからなのだと思っていた。それはあながち間違いではないだろう。
だけど、もし。
涼野があえて、南雲がいるときに限って数式を追っていたのだとすれば――
「仮定で立てた式っていうのは、必ず解がでてくるもんなのか」
涼野は眉を寄せる。
「・・・仮定だから、必ずしもそれが正しいとは言えないが・・・」
「アンタはそれで答えが出たの」
「・・・・・・何が言いたい」
南雲は身を乗り出し、涼野に詰め寄った。空気が揺れる。
ほぼゼロ距離でこちらを見つめる南雲を黙って涼野は見ていた。南雲の瞳に映る姿が、ひどく滑稽だ、とぼんやり思う。
「俺は数学は得意じゃないけど、簡単な計算くらいはできる」
南雲は瞬きをした。
「――この距離を求めるのなんて、簡単だろ。文字式なんていらない。変な数字も」
ああ、滑稽だ、求めたいのはこんな物理的な距離じゃないのに。
涼野は瞬きを忘れていたことに気がついた。南雲のひどく苦しそうな表情が乾燥した瞳に張り付く。涼野はひどく困惑した。なんとかしてやりたい、と思ったがどうすればいいかわからない。ああ、またこれだ、と涼野は思う。胸が押しつぶされるような感情の波だ。幾度も幾度も数式を見てきた、けど、こんな感情など、一切の役に立たない。
こんな、答えの出ない感情なんか気持ちが悪いだけなのに。
「簡単なんかじゃない。だったらとっくに解が出ているはずなんだ・・・こんな、・・・イヤだ」
涼野が目を伏せると、水がこぼれた。いくつもいくつも、粒になって頬を流れ落ちていく。
「放っておいてほしいんだ、」
南雲はその頬を指でなぞった。簡単に触れることのできる距離。苦しい、嫌だと目の前で自分より年上の男が泣いている。まるで子供の癇癪のように。
愛しい、と南雲は心の隅で呟く。
「・・・なんでアンタ、教師なの」
「・・・どうして数字だけじゃだめなの」
南雲はこのどうしようもなく可哀相な大人が心底愛しいと思った。どこまでも不器用で、世間を知らない、この――教師が愛しくてたまらない。
南雲は背中に腕を回した。チャイムが鳴り響き、廊下から賑やかな声が聞こえ始める。思ったよりはるかに薄っぺらな体が小さく震えた。しかし、南雲は構わず腕の力を強くした。腕の中の涼野が緊張したように身を強張らせる。嗚咽だけがチャイムの余韻とともに響く。
テスト期間は学校が早く終わるね、勉強してる?全然。テストが終わるとワーク提出らしいよ、知ってた?明日最初から数学だよ、憂鬱。アハハ、ほんと、

――憂鬱だね。

ああ、滑稽だ。
南雲はどうあがいても生徒でしかない自分が恨めしくてたまらない。













チャイムが鳴ったらさようなら




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