ごうごう、と傍らの機械が最後に大きく音を立てて、アラームが鳴けば検査は終わる。黒いボードを眺めながら、リュウジは背中に当たる体温に眉をしかめた。ヒロトの手の温度を思い出すと、看護士の体温がひどく気持ち悪かった。
「それ、いらないよ」
あれとリュウジは思ったが、口に出していた。看護士は驚いた顔をして手を離すと、医者のほうをゆっくりと見た。看護士の表情が変わるのを見たのは初めてだった。医者も驚いたように細い目を大きく見開き、リュウジを、見た。
『先生、これは』
『ああ、わかってる』
頭上で会話が飛び交う。しかし不思議なことに、それらはリュウジの耳にはちっとも入ってこなかった。看護士は普段より乱暴にリュウジの腕に管を取り付けて(しかし、普段と比べたらの話であって、それはとても丁寧だった)、慌てたように部屋から出て行った。いつもより雑な足音が遠くなってすぐ、扉が乱暴に開いた。
「いま、すごく慌てて歩いていったけど・・・何かあったのかい?」
リュウジはさあ、とだけ答えた。それよりも早く、ヒロトと話がしたくてリュウジはベッドの端によって隣を開けた。
ヒロトが言ったとおり、彼がこの部屋へやってくる頻度は目に見えて少なくなった。それでも待っていればヒロトはいずれはやってくるのだと、リュウジはただ思っていた。ヒロトがメンテナンスのために来れないのだということと、この部屋に時計がないということは、とてもリュウジを安心させた。ヒロトが自分を嫌いになったのではないと思うことができたし、ヒロトが来れない分の時間を計ってやきもきすることがないからだ。
そしてそれらのおかげで、あれ以来リュウジの胸がおかしくなることもなかった。
「今日はいいものをもってきたんだ」
ヒロトは病院着ポケットの中をあさり、石を取り出した。黒く、ごつごつとした石だった。
「これは、月の石だよ」
「変だよ、黄色くない」
言うと、ヒロトはおかしそうに笑った。
「当たり前だよ。月は惑星なんだから」
「でも光ってるのに?」
リュウジは窓から見える月を思い出す。なぜ月が形を変えるのかは、ヒロトに教えてもらったので知っていた。
「太陽の光が当たってるからさ。じゃなきゃ、月になんて行けないよ」
「そっか、月が恒星だったら燃えちゃうから」
「そのとおり」
ヒロトが満足そうに目を細めると、リュウジはなんだか嬉しくなった。ヒロトが手渡してくれた石を眺めながら、広い宇宙に転がっていく様子を思い描いた。
「リュウジ」
「なんだ、ヒロト」
返事をすると、ヒロトはリュウジの手を取った。
「俺、今はメンテナンスばっかりだけど――いつか、いまよりずっといい性能になるから」
ヒロトは至極真剣な顔で、眼差しでリュウジをみた。
「リュウジを、宇宙に連れて行ってあげる」
リュウジは瞬きをいくつかした。人類が初めて宇宙へ行ったとき、今のコンピュータより、ずっと性能の悪いコンピュータだった。その言葉を思い出す。おかげでリュウジにとって宇宙がそう遠いところだと思わなくなった。しかし、ヒロトは今よりもっと、良い性能になりたいという。リュウジはその理由がわからなかった。わからなかったが、ヒロトと宇宙にいけたら、どんなに良いだろう、と思った。月が光らなくとも、石をたくさん拾って帰ろう。行けるなら宇宙の果てへ行って、彗星が生まれてくるところを見よう。広がる宇宙の端っこはどうなっているかも、見ることができるかもしれない。
たくさんの「きぼう」を並べて、そして、ヒロトは言った。
「だって俺は、君のためのロボットだから」
リュウジは黙ったまま首を縦に振った。








リュウジは宇宙の本のページを捲った。部屋にひとつしかない大き目の出窓から、オレンジの光が差し込んでいる。リュウジは「今日が終わって」しまうのだと漠然と思った。
「今日」もヒロトは来なかった。
きっと、今日もヒロトはメンテナンスを受けているに違いない、とリュウジは考えた。「今日」なんてものはここには存在しない、だってここには時計がないのだ。必死に考えた。しかし、そう考えるには長いこと、ヒロトが訪れるのを待っていた。リュウジは胸を押さえる。最近、またこの違和感がリュウジを襲うようになっていた。一度や二度ではない。ヒロトのことを考えると、胸の奥が軋んで音を立てるようだった。
するとドアが静かに開いた。リュウジはほんの少しの期待と、それがすぐに絶望にかわるだろうという予感と共にそちらを見た。
「検査の時間だよ」
ドアが開いたことで風が通り、ページがばらばらと音を立てる。そして、開き癖のついたページで止まる。人類が初めて、月へ行ったことが書いてあるページだ。
「やっぱり、宇宙が好きなのね」
驚いてリュウジが見上げると、看護士の一人が眼を細めて微笑みながらリュウジの事を見ていた。髪の長い、綺麗な女性だった。
「ヒロトがね、あなたと宇宙に行くって・・・頑張っているの。今までにはなかったことだった。ありがとう」
小さな声でこっそりと、彼女はリュウジに言う。そしてわずかに眉を寄せて、目を伏せて笑った。リュウジは目を見張る。見たことのない笑い方だったからだ。こんな、苦しそうに・・・
「ねえ」
リュウジが声をかけると、彼女はゆっくりと顔を上げた。
「ヒロトはどこにいるの?」
「それは・・・」
目を彷徨わせる。リュウジは更に詰め寄った。どうしても聞かなければいけない、とリュウジは思っていた。彼女の表情を見た、その瞬間からリュウジの胸の違和感は一際大きくなっていた。看護士の女性は、目を閉じ、息を深く吐いた。いいわ、と呟く。その声はどこかリュウジに向けられたものではないような響きを持っていた。
「西病棟の――」


「待て!どこへ行く!戻って来い――」
――レーゼ!
背中から怒声にも似た声が聞こえてくる。しかしリュウジはただ走った。無理やりベッドから降りたときに暴れたせいで腕が痛んだが、そんなものもどうでも良かった。裸足に触れる廊下の床は冷たく、耳の横に空気が流れる音を聞いた。リュウジは走る。走り方なんて、今まで読んだどの本にも載っていない。けれど、走ることができていた。
気がつけば、ある病室のドアの前に立っていた。リュウジはノブに手を掛け、乱暴に開けた。――ヒロトがそうしたように。
そしてドアを開けた先の光景を見て、リュウジは立ちつくす。
「ヒロト・・・・・・?」
目の前に、大きなベッドがあった。その周りを、ぐるりとリュウジの知らない機械が囲んでいる。
すぐに、リュウジは大きな本棚があることに気がついた。そして、この部屋には本が溢れかえっていることも。すぐ足元に落ちている本を、リュウジは震える手で拾った――それは、同じところに開き癖のある、
「宇宙の本」だった。
リュウジは目を見開く。そして恐る恐るベッドを見た。そこには、ヒロトが眠っていた。
体のあちこちを、たくさんの管で繋がれながら。
「・・・・・・ヒロト、」
リュウジは瞬きをすることを忘れていた。ことばも、思考も、すべて忘れていた。
「ヒロト、ヒロト、ヒロト、ヒロト、ヒロト――!」
途端、リュウジの頭の中でアラームが鳴りはじめた。違和感が襲う。リュウジは、胸を強く強く押さえた。どくん、と「こどう」がひとつ、鳴り響く。
そこで、リュウジの世界は暗転した。











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