リュウジは、いつも白い天井ばかりを眺めていた。窓から差し込む光以外を感じたことがなかった。消毒液となにかの薬品が混ざり合った、特有の空気しか吸い込んだことがなかった。硬く磨かれた床以外、踏んだことがなかった。白衣以外服を見たのは雑誌の上でだけだったし、話すのはいつも大人とばかりだった。
病院の一室、物心ついた頃から、リュウジはその広くも狭くもない部屋から出たことはなかった。
「検査の時間だよ」
滅多に開かない引き戸が音もなく開いて、医者と、数人の看護士が現れる。リュウジはドアの方へ寝返りを打ち、ゆっくりと上体を起こした。その背を看護士の手が支えるようにして触れた感触に、リュウジは目を細める。
(俺はまるで壊れ物扱いだ。)
そんなものなくったって、自力で起きていられるのに。リュウジは思ったが、抵抗する気にはなれなかった。
初めて目が覚めたときから、リュウジはこのベッドで寝ていた。清潔で、管理の行き届いた完璧なベッドの上で、あちこちをつながれて、リュウジは寝ていた。辺りには、たくさんの名前の知らない機械だけが音を立てていた。リュウジはそのときから既に、自分はこの機械の一部なのだと、わかっていた。
それから、いくらたったかはわからなかった。きっと多くの時間をここで過ごしているのだろうが、ここの部屋にはカレンダーはおろか、時計すらもなかった。しかし、それらは自分には到底必要がないから、存在しないのだと思った。
今日もあの日と変わらず、機械が鈍い音を立て、自分が動いていることを確かめた。リュウジは、そっと、管でつながれた自分の腕を眺めた。管は袖の中に忍び込んでいて、それから先はわからなかった。軽くこぶしを作ってみると、熱が集まるのがわかった。
「おしまいだよ。がんばったね」
手にしたボードに何かを書き込みながら、医者が軽く笑った。定期的にかけられるねぎらいの言葉はひどく薄っぺらで、どこか儀式的だった。リュウジを寝かせると、看護士の手が背中からするりと離れていく。空気に触れた部分が冷たく感じた。
扉がしまると、リュウジはベッドから降りて本を手に取った。長くここにいるので、リュウジ専用の本棚が作られて、彼はもっぱら用意された本ばかりを読んだ。それは絵本だったり、それこそ難解な専門書だったりした。
リュウジは、宇宙の本ばかりを好んで読んだ。宇宙の本、といってもそれは子供向けの簡易なものでしかなかった。表紙はボロボロで、かすれてタイトルが読めなくなっていた。だからリュウジはそれを宇宙の本と呼んでいた。もちろん用意された本は粗方すべて読んだが、特に宇宙の本は、何度も何度も繰り返し読んだので、開き癖がついていた。
不思議なことに、リュウジは、この部屋から出たいと思ったことは一度もない。ここにいるのが当たり前で、いなければならないのだと思っている。しかし、宇宙にはどこか惹かれた。もし自分がひっそりと消えることがあるなら、そのときはきっと宇宙へ行こう、と思っていた。暗闇ともいえない広い空間に、たくさんの星があって、そのうちのひとつに自分は住んでいて、そして、途方もなく広く大きな、想像もし得ない世界がある。そう考えるだけでリュウジは満たされた気分になった。
ベッドの端に腰掛けながら、必死にページを捲っていると、がらりと不躾にドアが開いた音がした。リュウジは驚いて目を丸くしながら、そちらへ振り向いた。乱暴にドアが開かれることなど、未だかつてないことだったのだ。
「きみは、誰だい?」
そこには、赤い髪の少年が立っていた。
彼は、ドアを開け放したまま、尋ねた。リュウジは目に見えて狼狽した。大人以外を見たのは、これが初めてだった。
「君こそ、」
言葉が見つからず、それだけを返した。
「ヒロトだよ。君は」
ヒロトと少年は名乗り、こちらを見据えてにっこりと笑った。口元にえくぼが影を落としている。笑顔だ、とリュウジは思った。
これが多分、本物の笑顔だ。
リュウジは喉を鳴らしながら、必死に頭の中で言葉を作り、答えた。
「おれは、リュウジ」
言ってみて、リュウジは自分が名を初めて名乗ったことに気付いた。自分が、リュウジという名であったことも。
「リュウジ。――リュウジは、ずっとここにいるのかい」
「うん。ずっと」
「じゃあ、外の世界を知らないんだろう?」
なにを、とリュウジは眉を寄せる。知ろうとも思っていなかった。そう返すと、ヒロトは目を細めた。まるですべてわかっていた、とでも言うように。
「じゃあ、俺が見てきてあげるよ」
君のかわりに。
リュウジはゆっくりと瞬きをした。ごうん、すぐ隣にある機械がひときわ大きな音を立てる。そんなことは望んでいない、そう返そうとしたが、言葉にならずに消えていく。
「俺はそのために会いに来たよ。だって君のための、ロボットだから」
――ロボット。
彼は笑った。
白い部屋の中にたたずむ少年の、赤い髪だけが、リュウジにとってはとても鮮烈に見えた。





ヒロトという赤髪の少年は、それから足繁くリュウジの元を訪ねた。初めてここを訪れた時以来、不躾にドアを開け放つことはしなくなったが、その勢いだけは相変わらずだった。
ヒロトは、リュウジに話をたくさん聞かせた。この部屋の外のこと、たとえば、景色や、空の色や、出会った人たちのこと。おかげでリュウジは部屋の外を想像して、外を歩いた気分になった。前よりも、世界に詳しくなった。自分以外の世界を知ると、宇宙へも近づいた気になれた。
話は、ヒロトの感覚や目や、経験を通して伝えられた。リュウジはそれが嬉しかった。彼の感動や関心を共有できた気がして、一緒に歩いているような気がして。
「リュウジは本が好きなんだね」
その日もヒロトはリュウジの元を訪れた。ヒロトはぐるりと部屋を見回して、本棚を眺めながら言った。
「それしかないから」
「俺も、本はよく読むよ」
言いながら、ヒロトは本棚を物色していく。ヒロトの白く細い指が、分厚い背表紙をなぞっていくのをリュウジはただ見ていた。本棚が、管理されたこの部屋の中で唯一のリュウジの空間だった。しかし退屈するリュウジのために本は定期的に新しいものへ変わっていく。ボロボロの宇宙の本などは、何度廃棄されそうになったか知れなかった。宇宙関係の本でも、他にもっと専門的でしっかりしたものを用意するとも言われた。しかしリュウジにとって、宇宙の本はこれだけだ、という思いがあった。何故だかはわからなかった。だからいくら大人が干渉してきても、ここばかりは守っていた。
そこにヒロトが入り込んでくる。自分の世界にゆっくりと手をかけて踏み入れてこられた感覚があった。しかし、不思議と嫌悪感はなかった。
「リュウジは、宇宙が好きなんだね」
「・・・うん。なんでわかったの?」
「ほら、ここ。開き癖になってるよ」
ヒロトはあるページに指をさす。人類が、初めて月へ行ったときのことが書いてあるページだ。
「俺も、宇宙の本はたくさん読んだよ」
「どんな内容だった?」
リュウジは思わず身を乗り出した。腕からつながれた管が揺れた。
「初めて月に行ったときはね・・・宇宙船にあったのは、一番最初に作られたゲーム機よりも性能の低いコンピュータだったんだ」
「一番最初のゲーム機?」
「そうだよ。データの処理をするのに、ものすごく時間が要った」
リュウジはヒロトの横顔を眺めた。白く透き通った肌をしていた。それこそ、人工的に作られたような。
「ヒロトは、」
そこでリュウジは口を噤んだ。
「どうしたの」
――ヒロトは、本当にロボットなのだろうか。
思わず口走りそうになった問いかけである。リュウジはもごもごとなんでもないとだけ言い、視線を本に戻した。
ロボットだったらなんだというのだろう。リュウジはぼんやり考えた。しかし、なんでもない、取るに足らないことのようにも思えた。
「そうか、リュウジはゲームをしたことがないんだったね」
ヒロトが小さく笑いながら言う。リュウジは肩をわずかに浮かせた。視線は何とか、本に向けたままでいた。
「どうして知ってるの?」
「俺は、リュウジのことならたいてい何でも知ってるさ」
リュウジは首を傾げてみたが、ヒロトがいうのだからきっとそういうことなのだろうと思った。それが嘘であろうと冗談であろうと、リュウジがゲームを知らないのは本当のことであったし、あえて問い詰める理由がリュウジにはなかった。それよりも、ゲームがいったいどういうものなのか、そのことに興味があった。
「じゃあ、」
と、ヒロトに重ねて問おうとしたとき、廊下の向こうから足音が聞こえてきた。カツカツと響く音は、リュウジが何よりも聞き慣れた音だった。そろそろ検査の時間なのだ。リュウジはヒロトに視線を向けて、そのことを伝えようとしたが、そうする前にヒロトも気付いたようだった。軽やかにベッドから降りて、するりと足でスリッパを拾った。
「うん、じゃあまたね」
リュウジが手を振る前に、ヒロトはさっと身をひるがえしてドアの向こうに去って行った。ぱたぱたと走り去る足音だけが反響して聞こえた。リュウジはさっきの言葉がお別れの言葉の代わりになってしまったことを痛く後悔した。それでも、ベッドを降りて背中を見送ることはしなかった。リュウジはただ、またいつかヒロトがドアを勢い良く開けることを漠然と考えるだけだった。
自然に閉まりきる前に、再びドアが開けられた。リュウジはあわててベッドに潜った。医者が一人と、数人の看護師。まったくいつもと変わらない。変わらなかったが、リュウジは医師の顔をまじまじと見つめていた。このとき、医者が初老の男性であることに初めて気づいた。そして、今まで自分はずっと彼に検査を受けていたのだと気付いた。遅すぎることだったが、たった今、リュウジにとってヒロト以外に認識する人間ができたのだった。医者はリュウジの視線に気づき、一瞬驚いたあと、細目の視線を合わせた。リュウジは何かを言おうと思ったが、結局言葉が見つからずにそのまま前を向いた。医者も何も言わずに、黒いボードにペンを走らせるだけだった。
背中には、相変わらず他人の体温が広がっていた。



「彗星ってどこからやってくるのか知ってるかい」
ヒロトはあの日から宇宙の話ばかりをした。もちろん外の世界の話もしてくれたが、宇宙の話をすることのほうが断然多かった。リュウジはヒロトの話が好きだった。
ヒロトは様々な知識を持っていた。そしてその知識を楽しそうに話すその姿も好きだった。リュウジにできることはわずかな相槌のみだったが、それでも楽しかった。
「知らない」
リュウジは首を横に振った。それで、と身を乗り出してヒロトが教えてくれるのを待つ。
「彗星はね、宇宙の果てからやってくるんだ」
「宇宙の果て?」
「そう。宇宙の、ずっとずっと向こうにある、星の塊から」
「そこへは、行けるのか?」
「どうだろう。宇宙は今も広がっているから」
白い指が、宇宙の本に広がる簡単な宇宙の絵をなぞる。
「でも、広がり方は計算で出せるんだ。優秀なコンピュータならね」
そういって、ヒロトが自分の頭を指で小突いた。そしていたずらっぽく笑う。
俺はロボットだから――ヒロトの言葉が頭の中に響いて聞こえてきて、リュウジははっと彼を見た。
「ヒロトは優秀なの?」
「そうだよ。げんに、こうしてリュウジに色々教えることができているだろう」
君のための、ロボットだから。
ヒロトのエメラルドの瞳がリュウジを真っ直ぐに見ていた。綺麗だな、とリュウジは思う。もしもヒロトが本当にロボットなのだとしたら、きっとこの瞳は宝石から作られているのかもしれない、とも思った。同時に、本の中ではない、本物の宝石とはこういうものなのだろう、とも。
事実、ヒロトがこうしてやってきて、色々な話をしてくれたことで、リュウジの世界は広がっていた。本には書いていないことが世の中にはたくさんあることも初めて知った。リュウジの世界はすべて、ヒロトを介している。
――ヒロトは、宇宙みたいだ。
思ったが、うまく言葉にすることができなかった。リュウジが黙って見詰め返していると、ヒロトが目を伏せてしまった。
「それでね、これから、もっとたくさんデータをいれなくちゃいけないんだ」
ヒロトが俯く。
「だから、すこしメンテナンスする時間が増えて・・・リュウジにあんまり、会いに来れなくなっちゃうんだ」
「メンテナンス?」
「検査みたいなものさ」
リュウジが首をかしげると、ヒロトは顔を上げて、困ったように笑った。
リュウジは、ヒロトが自分と同じように医者や看護士に囲まれているところを想像した。何故だか、ひどく胸の辺りが軋んだ気がしてリュウジは思わず胸を押さえた。
「どうしたの」
「・・・わからない。けど・・・」
一瞬のことだった。
「痛いの?」
「違うんだ・・・でも、どういったらいいかわからなくて」
頭の中で、何かアラームのようなものが鳴っている気がする。しかし苦しいのは胸で・・・リュウジは混乱した。
何かおかしくなってしまったのかもしれない、でもここでそれを言ったら、ヒロトが帰ってしまうかもしれない。帰らないで欲しい。考えることはできるのに、声に出せない――どうして。
背中を暖かいものが触れる感触がして、リュウジは振り返った。
しかし、そこにいたのは名前も知らない看護士ではなかった――ヒロトが、背中をさすってくれている。リュウジは泣いてしまいたくなった。
「俺、変なんだ」
ヒロトは何も言わなかった。
「考えていることを、うまく言葉に出せないことが、しょっちゅうで」
それから、リュウジは押し黙った。背中にヒロトの体温が触れる。ロボットにも体温があるのだろうか、とリュウジは考えて、可笑しくなった。きっとヒロトはたずねてもうまくはぐらかす。
「リュウジは、いろんなことを考えてるんだね」
「考えるだけだよ」
「きっと、一度に考えるからひとつの言葉にならないだけなんだよ。世の中には、言葉にできないものなんて無限にある。宇宙がどれだけ大きいかを、表す言葉がないように」
目を閉じてみて、とヒロトはリュウジの瞼を手で覆った。それに合わせて、リュウジも目を閉じる。
リュウジは自分から目を閉じたことがなかった。いつも気付けば白い天井を見ている。リュウジは、初めてみた暗闇に言葉をなくし、叫びそうになったが、瞼の上に、ヒロトの体温を感じることでそうせずにすんだ。
「見えたかい」
暗闇に、かすかな光が見えた。ヒロトの声を合図に、いくつも、いくつも現れる。現れては消えていく。点滅する光、流れていく光、一瞬だけ、明るく光って消える光。
これが、宇宙かもしれない。
「星は光るものとそうでないものがある。光るのは恒星。大きな星だよ。そうじゃないのは惑星、あるいは星のくずたち」
「くず?」
「そう。星になりきれなかった星さ。恒星の光のおかげで、光っている」
目の前を星が走りぬける。
「くずでも、ぶつかって、混ざればいつかは星になる。大きくなれば、恒星になる星もあるんだ。こうしていくつも星が生まれて、宇宙は大きくなるんだよ」
「いつまでも大きくなるのか?」
「ううん、宇宙はいつかはしぼんで、消滅してしまうんだ」
「どうして?」
「星がいくつもぶつかっていくと、数が減ってしまってぶつかることができなくなる。そうすると、星ができなくなる。でも、星は爆発を繰り返す、すると宇宙の中身がスカスカになってしまう」
ヒロトの言葉に合わせるように、視界いっぱいだったはずの星が次第に光を帯びて消えていく。ついにはひとつの光しか見えなくなってしまった。これを、きっと孤独というのだ。リュウジは思わず、ヒロトの手を掴んだ。瞼からずらし、目を開くと、光が押し寄せてきて目の奥が痛んだ。
「大丈夫だよ、ずっとずっと先のことだから」
ヒロトが光の中で笑っている。リュウジはヒロトの笑った顔が好きだ。医者や看護士のそれとは違う、本物の笑顔だから。
でも、今は見ていたくなかった。









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