(基山と緑川)




コンコン、と重たい鉄のドアをノックする。固く冷たい音が骨を伝わる。短い返事の途中で俺は待ちきれず部屋へと滑り込んだ。明かりの少ない、薄暗い部屋だった。
「やあ」
後ろ手でドアを閉めながら挨拶をすると、黒いボールを持った手が止まった。ゆるく首を持ち上げて、黒い瞳が俺を見る。
「何の用ですか」
「俺はヒロトだよ。用があるのは緑川に」
笑って言うと、彼はあからさまにため息をついて、肩をすくめた。
「もう。今何時だと思ってるのさ」
「もう寝てるかと思ったんだ」
「なにそれ」
胡坐をかいてボールを抱える緑川の目の前に座る。出て行けといわれるかと思ったけど、緑川はただ呆れるようにその様子を見ているだけだった。
「眠れないの?」
黒いボールを磨いていたのか、ボールを抱えている片手に布が掛かっていた。地面に降ろされたスタンドの光を受けているはずなのに、照り返す光はどこまでも鈍く重々しい。それでもやっと光るようになるまで必死に磨いていたのだろう姿が簡単に脳裏に浮かぶ。緑川は真面目だから。
「まあね。それも誰かさんのせいで更に眠れなくなりそうだ」
「それって誰なんだろうね」
「さあね」
わざとらしくとぼけると、緑川は首を傾げて笑った。
「明日からは、長く眠れると思う」
「それってどういう意味だい」
ゆっくりと問う。それはとても予定調和だなと頭のどこかで思いながら、それでも確かめずにはいられなかった。緑川は、僅かに目を伏せてボールを指でなぞった。
「そのままの意味だ。俺は、明日から緑川リュウジじゃなくなるよ」
そして、目を細めたまま、俺を見る。
「なのに、ヒロトときたら。俺がせっかく、明日に備えて準備してたのに。明日俺は一番最初の仕事なんだぞ?しっかりイメージしておかなくちゃなの。ただでさえ、レーゼは正反対なんだから」
まったくもう、なんていつものように軽い口調で言うものだから、余計に俺は寂しくなった。俺は黙ったまま、頭の上に束ねられた彼の髪に手を伸ばす。緑川は一瞬たじろいだがただされるがまま、大人しくしていた。頂上辺りの髪を軽く引くと、簡単に髪はほどけて、後頭部に一つに束ねられた髪が落ちた。昔から見慣れた姿だ、と思った。
「なに」
「やっぱりこの髪型の方が好きだ」
「今日で見納めってやつだよ。残念だね」
「本当に」
心底残念だ、とため息に乗せて癖の強い髪を指に巻きつけながら呟くと、緑川は僅かに震えた。
「ヒロト」
焦ったように俺の名前を呼んだ。その声を無視して、俺は問うた。
「君は、レーゼじゃなくなったらどうなるか知ってるのかい」
「知ってるよ」
ゆっくりと俺の腕を掴み、髪から遠ざけながら俺を見据える。するりと指から髪がすり抜ける。まるで蛇のようだな、とぼんやり思った。
緑川は真っ直ぐ俺を見詰めたまま、
「記憶がなくなる」
と言って、フンと鼻で笑ってみせる。彼につかまれた腕は俺の意思とは関係なく、彼の意思によって黒いボールの上を這った。酷く冷たい感触がした。無機物はどこまでも冷たい。きっと、緑川たちが使うあの石も、どこまでも冷たいのだろう。
「俺も明日からはヒロトじゃなくなるんだろうね」
緑川はゆっくりと首を振った。
「きっとね、ヒロトはジェネシスになるよ」
「どうしてそう思うの」
「だってヒロトはヒロトだからさ」
暖かい感触に瞬きをすると、緑川の手が重なっていることに気がついた。黒に二つの肌の色が乗っている。自分の肌の色の白さに心底嫌気が差した。俺はいつだって自分が嫌だった。
「それってジェネシスと関係あるのかな」
「あるさ」
言って、緑川の指がそっと俺の指と絡まる。まるで何かの隙間を埋めるようだ、と思った。
「だって俺はグランになるんだよ」
それは決められていて動かないことだ。
「でもヒロトは父さんの一番だろう」
俺はいつだって自分が嫌だった。父さんの一番だった自覚もあったし、それによって羨望を受けていたのも知っていた。だから、自分が嫌いだった。だからこそ、トップに居続けようとする自分が嫌いだった。それはどこまでも予定調和で、俺が問うことも、求めることも、返ってくる答えも、全てが俺の知る範囲のものだったから。
だから、いっそ自分でいられなくなったら、と思ったのに、それでも俺は俺のままでいるという。血の通った、俺のままで、予定された頂点に立つという。
「やっぱり、緑川もうらやましいとか、思うのかい」
「そりゃあ、思うよ。ヒロトは自由だから」
俺は咄嗟に目を伏せた。小さく笑いながら彼が口にした小さな羨望が、俺の身を焼く気がして耳を塞ぎたくなった。しかし、それは叶わない。
緑川は、でも、と続けた。
「俺はレーゼじゃなくなったらそこで一度全部リセットされてしまうけど、ヒロトは、グランでもヒロトでいられるんだよ」
「それって不公平じゃないかい」
「宇宙人でも人間でもないってことが?逆だよ。たぶん、ヒロトが一番苦しいんだと思う」
そしてそれはとても寂しいと、思う。
「忘れてしまうのは簡単さ。無責任だとは思うけど。でも、ヒロトには覚えててほしいんだ。サッカーが本当はどういうものかって」
重なった手のひらから、温度と僅かな鼓動の軌跡が伝わる。
彼にも、伝わっているのだろうか。
「全部終わったら教えてほしい。レーゼじゃなくなった俺に、ヒロトの大好きなサッカーを」
俺は彼の名前を呼ぼうとした。彼は僅かな差でたちあがり、手のひらの温度と鼓動が遠ざかる。まるでさよならを言われたみたいに。
「俺の好きなサッカーを?」
「そう。ヒロトが好きなサッカーは、俺が好きなサッカーだから」
彼は小さな窓のカーテンを引いた。白い光が部屋に広がる。一瞬朝日だと思ったそれは、どうやら月の光らしい。大きく丸い月が、窓枠に切り取られた世界に浮かぶ。
「約束」
ね、と振り向いた顔は逆光で表情が読めなかったが、俺は確かに頷いていた。そして、緑川は笑っていたのだろうと思う。そうであってほしい。雲の隙間から漏れた月の光に照らされてもなお、黒いボールは鈍く重く光り続ける。
約束しよう、いつか全てが終わるまで、俺は俺のままでいることを。
















世界は全て予定調和で回っている。決められた時間軸の中でしか動くことが出来ない調和で埋められて、埋没していく俺達が世界から逸脱する様をみているがいい。
太陽が昇るまであと数分、黒いボールが投げられるまであと数時間、雷門中が宇宙人の襲撃にあうまであと数時間、緑川がレーゼと名乗るまであと数時間、俺達が完全に宇宙人になるまであと――






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