愛と恋の狭間

 大人しく膝の間に収まっている彼女から、いつもとは違う石鹸の匂いがした。後ろから抱き抱えるように座らせてからというものの、いつものお喋りはすっかり鳴りを潜めてしまっている。顔を見ずとも、ナマエから緊張感が伝わってきた。こうして二人になることは今まであまりなかった事なので無理もないだろう。

 『イッシュの英雄』そう呼ばれるようになってもう何年たつのだろうか。
 どこへ行っても誰といても、世間は俺の事を英雄と称え続けた。最初のうちこそ、英雄の片割れを探す目的も兼ねてインタビューに答えていたものの、ただの話題性だけで人の目に晒され消費され続ける生活というのはあまり精神的に良いものではなかった。
 あのチェレンやベルまでもが俺のことを英雄と呼んだ。当然、彼らのそれと世間様とでは同じ意味合いではない事くらい承知していたが、それでもやはり見えない何かは確実に蓄積されていた。そんな中でもナマエだけは変わらず一緒に居てくれて、それだけが救いだった。
 今思い返せば相当追い込まれていたのだろう。おかしくなりかけていた頭の隅で、ナマエに依存していくのも時間の問題だと気が付いた。俺はとにかくイッシュから離れたくて誰にも言わずに故郷を離れたのだ。
 その後は数年ただ普通の旅をして回っただけの話なので割愛するが、久しぶりに会いに行った彼女からは、盛大にビンタをお見舞いされ大泣きされてしまったのを今でもよく覚えている。ナマエは散策泣き喚いた後、『死んじゃったかと思ったんだから』そうポツリと呟いた。以前の自分のように酷い顔を見て、そこでようやく、自分がしでかしたことの重大さに気が付いたのだ。縋るように涙をこぼす少女の姿に、俺はただごめんと言い続けることしか出来なかった。
 それ以来、旅先からは出来るだけ連絡をするように気をつけている。いるんだけども……。もともとの連絡不精な性格はそう簡単には治らなくて、今でも時々鬼のような着歴が残ることがある。内心では旅に出る前は一言欲しいと怒っているようだが、旅先からは必ず連絡を入れる事で彼女も譲歩してくれているのかなんとか小言だけで済んでいる。

「ね、ちょっとトウヤ」
「んー?」
「ちょっと苦しい」

 いつの間にか少し力が入りすぎていたらしい。肺が潰れると、嫌そうに身じろぐナマエ。少しだけ緩めてやれば、大きく一息ついてから背中へ倒れ込んできたので、今度は優しく抱き込んだ。

「トウヤ。わがまま言ってもいい?」
「珍しいじゃん、どうした?」
「髪の毛乾かして欲しいな……、って思って」

 だめ?と少し振り返ってお伺いを立ててきたナマエ。あまり一緒に居てやれないので、もとより今回の旅行ではしっかり甘やかしてやるつもりだった。

「いいよ、ドライヤー持っといで」
「やったー!」

 カバンを手繰り寄せ、ナマエがドライヤーやブラシを取り出した。その間にタオルでわしわしと頭を撫でてやり、受け取ったブラシを優しく滑らせる。たまに乾かしてやる事はあるが、彼女から強請ってきたのはこれが初めてだった。渡されたヘアミルクをつけてから丁寧に温風を当ててやると、気持ち良さそうに目を細めた。

「エルフーン見てたら羨ましくなっちゃった」
「なんだよそれ」
「子どもの髪の毛乾かしてるお父さんみたいだったよ」
「あんなにたくさん子どもいたら毎日大変だな。ほら、こっち向け」
「はーい」

 確かに今のは親子みたいだったなと笑えば、私が子どもってこと?!と抗議の声が上がる。怒り出す前に前髪へドライヤーの風をぶつけてやった。
 目が乾くのを嫌がってか、瞼をぎゅっと瞑るナマエ。先ほどまでの緊張はどこへいったのやら。無防備に安心しきっているその顔を、ほんの少しだけ困らせてやりたくなった。

「ナマエ、そのまま目閉じてて」
「え?なん、っ」

 前髪が乾き切った頃を見計らい、逃げられないように頭を押さえ不意打ちで唇を重ねる。一瞬、びくりと肩を揺らしたが、その後は大人しく体を預けてきた。
 普段よりも少し長く重ねていた顔をゆっくりと離したが、久しぶりのその柔らかさが名残惜しくてもう一度追いかける。まだ、もう少し。と、欲張るように何度も合わせて、最後にべろんと舐めてやった。ナマエは驚いて目を見開いていたが、目線か絡むとすぐに顔を背けてしまった。

「なんで目、そらすんだよ」
「……そういうことするからじゃん」
「やだった?」

 少し狡い聞き方になってしまったか。案の定、これ以上ないくらい顔を赤く染めたナマエは、勘弁してと弱々しく絞り出す。けれどもそんなささやかな抵抗をされては、逆に変なスイッチが入ってしまうといいますか。
 ――今日は勘弁してやれそうにないなあ。
 逃げ腰のナマエが逃げないように手首を押さえ、すこしずつ体重をかけていく。

「嫌なの嫌じゃないのか、どっち」
「……今日のなんかトウヤずるいよ」
「狡くていいよ」

 逃げられないと観念したのか、ナマエが小さく呻く。そして、またもや、蚊の鳴くような声で呟くのだった。

「……やじゃない、です」
「じゃあ諦めて」

 どうやら、今日は俺の粘り勝ちのようだ。

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