愛と恋の狭間

 ぽちゃんと音を立て、ティーカップの底へ角砂糖が沈んでいく。シロナさんはそれを三周ほど掻き混ぜてからひと口含み、ゆっくりと口を開いた。

「良かったの?トウヤくん放ったらかしで」
「うん、平気。どうせまだ寝てますよ」

 昨日も遅くまで起きてたみたいだし、と私もアイスコーヒーのグラスへと口をつける。
 多分明日の試合の事を考えていたんだろう。朝起きたらホテルの床に何かの道具や木の実があちこちに広げられていて、うっかり踏みそうになってしまった。
 文句が喉の奥まで出かけたが、呑気に寝ている顔を見たら怒るに怒れなくて、寸でのところで飲み込んだことを感謝して欲しいくらい。そんな愚痴をこぼせば、優しいわねなんて笑われてしまった。

「シロナさんは?明日の事とか……忙しくなかったですか?」
「昨日まではリーグに缶詰だったけどね。エキシビションもあるし、今日はもともと一日オフの予定だったから平気よ」

 明日情けない試合したら怒られちゃうけどなんて言って、冗談交じりにシロナさんがウインクをする。彼女の事だ、きっとそんなことになるはず無いだろうに。
 苦笑い気味に相槌を打っていると、そんなことより!とシロナさんは綺麗な長い指を組み変えて、すっかり話を聞く体制を整えていた。

「それで?しっかり話聞かせてもらうわよ」
「圧がこわぁ……」
「だって!あんなの見たら居ても立っても居られないじゃないの」

 彼女の言うあんなものとは、私が昨夜送った「シロナさんが言いたかった事、分かったかも」というメッセージの事だろう。それだけ送りシャワーを浴びて出てきたころには、今日の待ち合わせの時間が送られてきていて思わず笑ってしまった。
 自分の色目いた話をするのは元々得意でなかったはずなのに、彼女やカトレアを前にすると何故だか気負わず話してしまえるから不思議だ。
 なんだかじりじりと前のめりになっている気がしないでもないが。シロナさんを目の前に、私はしどろもどろになりつつも口を開いた。

「私ね、羨ましかったの」
 
 トウヤとみんなの関係が羨ましかった。
 一緒に旅をして、ご飯を食べてみんなで寝る。旅行で私が初めて過ごす日々を彼らはずっと送ってきたんだろう。一心同体のようで、私には到底立ち入る隙なんて無い。そう思っていた。
 
「シロナさん、足跡博士って知ってます?」
「ええ!もちろん。彼面白いでしょう?」

 あの時のジャローダの言葉を思い出しながらゆっくりと続けていく。
 待つだけの自分では何も返せないと思っていた。だけどジャローダは、――彼らは私の事を大好きだと言ってくれた。そんなこと全く気付かずにいた私は、彼女の言葉やバルコニーでみんなに揉みくちゃにされてようやく気付いた。
 きっと随分前から、あの暖かい輪の中に私も入れてくれていたんだろう。一人外から見ていたつもりが、とっくの昔に自分も一員だったらしい。

「だから、私のは一方的な恋だったの。みんなからはしっかり愛情をもらっていたのにね」

 それが、私の今の答えだ。
 上手く話せているか分からない。それでも少しずつ言葉にしていく私の話を、シロナさんは静かに聞いてくれた。
 ――あなたはまだ狭間にいるのね。
 少し前。カンナギの遺跡で、シロナさんは私にこう言った。だけどそれは間違いで、きっと私は狭間にすらいなかったんだと思う。
 外から”見ているだけの恋”をしている私。トウヤのあの瞳はもうとうの昔に向けられていたのに。いつからなのか分からないのが悔しいけれど、そんな事も気付かないほど盲目に羨ましいと思っていた。
 昨日バルコニーで私を見ていたあの顔は、私が羨み、恋をした”愛”そのものだった。

「恋、だったって事は、――もう違うのかしら?」

 何故か満足気なシロナさんの言葉に、少しだけ気恥ずかしくなり、どうだろう?なんてとぼけて見せる。頬の火照りはグラスの中身と一緒に流しこんだ。


 ***


「ただいま。あれ?トウヤは?」

 シロナさんと別れ部屋に戻ると、ズルズキンが出迎えてくれた。頭を軽く撫でてやり部屋を見渡すがトウヤの姿が無い。代わりに、彼の手持ち達がそわそわと目配せしている。
 そんな様子を見てもしかしてと部屋の奥に進めば、案の定ベッドに一つ、素巻きのようなものが転がっていた。

「嘘でしょ?!まだ寝てるの?」

 午前中とはいえ、もうお昼前。夜更かしをしてもこんなに長い間寝ていることは無かったので、調子でも悪いのかと少しだけ心配になる。ベッドの縁へと腰掛け、素巻きの外側を捲りあげる。
 中から出てきたのは当然トウヤで、元から癖のある茶髪をさらに好き放題跳ねさせて眩しそうに目を細めていた。別に体調が悪いわけではなさそうな彼の様子に少し安心したのも束の間、トウヤは一言唸るように呟いた。

「……まぶしい」
「なんだ、起きてるじゃない。体調悪い?みんな心配してるみたいよ?」
「んー……」

 返事になっていないような相槌に、昨日何時までやってたのかと質問を重ねる。多分、四時半……?だなんていう意味のわからない就寝時間を告げたトウヤに、起きないわけだと納得した。

「まだ寝てる?」
「なんじ……今」
「そろそろ十二時になるよ」
 
 起きる気になったのか知らないがのそりとトウヤの上体が起き上がる。そのままベッドから出てくるかと思いきや、意識を半分手放したまま止まってしまった。
 これは、しばらく時間がかかるかな。未だエンジンのかからない彼の様子に、お水でも持ってきてあげようかと腰をあげる。

「っ、わ!……ちょっと、何するの!」

 横から伸びてきた腕が私の身体をぐんっと引っ張る。不意の事で簡単にバランスなんて崩れてしまった。引かれるままに背中から倒れこむ私を、トウヤは待ち構えていたかのように腕の中に迎え入れた。
 背中に向けて何なのだと声をかける。返ってきたのは、なんでもないよと言いつつも何処か楽しげな声色。それから、ぐりぐりと程よい圧の頭突だった。
 トウヤが珍しく甘えている。
 普段なら少しこそばゆい気持ちを持て余し早々に抜け出してしまうところだが、今日のトウヤはなんだか小さい子供のように感じれる。
 明日の大舞台に向けて思うところがあるんだろうか。背後の表情を覗き見ようと振り返る。ぎゅうぎゅうと顔ごと背中に埋まっており、私からは彼の酷い寝癖の茶髪しか見えなかった。

「明日の準備進んだ?」
「まあ、大丈夫だろ」
「そっか」

 好きにさせつつも手持ち無沙汰で、視界の端であちこちに跳ねている毛先をそっと撫で付ける。しばらく遊んでいれば擽ったそうにトウヤが身じろいだ。
 さらりと指をすり抜けたくせっ毛を少し名残惜しく感じていると、茶色の視線がちらりとこちらを伺うように向いていた。
 ああ、そういえば。明日の返事をしていなかったか。少々強引にぐるりとトウヤと向き合う形へ体を捻り、顔を覗き込む。

「明日、見に行くね」
「……ん」

 この眠たそうな瞳は、フィールドに立つと途端に鋭く光るだろう。それはきっと、トバリで見たのとは比べ物にならないくらい。
 ゆらゆらと揺らめいて燃えるように輝くブラウンは一等綺麗なものに違いなくて、怖いかもよと言われようともそんな彼を見たいと思った。
 
「だから、ちゃんと勝ってよね」

 何度撫でても跳ねたがる毛先をもう一度だけ撫でつけて、そのままそっと包み込むように抱きしめた。
 ――いよいよ、負けらんないな。
 腕の中で小さく呟いたトウヤが満足そうに笑っていた。

片恋の行方