愛と恋の狭間

【――ナマエへ。
 これが届いたっては多分そういう事なんだろう。
 手紙なんて普段書かないし、何書いたらいいか分かんないな。けど何も伝えずに死ぬのは嫌だから、手紙にしておきます。】

 
「ナマエ。髪の毛乾かしてやるからおいで」
「あ、うん。……ありがとう」

 ドライヤーを手にしたトウヤが部屋の奥で手招きする。大人しく背中を向けて座り込むと、慣れた手つきで私の髪へブラシを通していく。
 昨日からうまく話せているだろうか。
 なにも伝えずに死にたくない、そんな導入で始まっていたトウヤの手紙。昨日の朝見つけてから思わず持ってきてしまい、今は私のコートのポケットに入っている。
 前半だけ読んですぐ怖くなりその先へ進めずにいるのは、何となく想像がついてしまったからかもしれない。
 目を見ると全部問い詰めてしまいそうになるのだ。何の為に書いたのかとか、どういうつもりで持ち歩いているのかとか。こんなものを書き残すような何かがあったのか、だとか。
 そんな事を考えていたら目尻がじわりと滲んでしまい、慌てて瞬きで誤魔化した。

「ほら、前向いて」
「前はいいや。……もう乾いたし」
「え?あっ!ちょっと待てって」

 この距離で顔を合わせたくなくて、適当な理由をつけて断った。まだ少し湿った前髪を撫で付けて、本当に大丈夫だからとドライヤーを片付けた。
 やっぱり何も言わず鞄に戻してしまおう。きっとそれが一番いいような気がする。幸い、トウヤは手紙がなくなった事に気付いていないようだし、また引っ掛けた事にしてさっさと戻して忘れてしまったらいい。
 そうすれば全部無かった事になるだろうか。
 私の態度を不審に思ったのか、立ちあがろうとした私をトウヤが引き留める。

「なんかお前、昨日から変じゃない?」
「……。そんなこと無いと思う、けど」
「そんな事あるだろ、その顔は」

 ちょっと座れと腕を引かれる。嫌だと抵抗するが彼の力に適うわけがなく、簡単に引き戻されてしまう。

「やだ、やめて。大丈夫だから」
「言わなきゃ分かんないだろ!」
「何とも無いってば!」

 納得しないトウヤの様子につい声を荒げてしまう。思いのほか大きな声が出た事に、彼の肩が一瞬びくりと揺れた。
 言わなきゃ分からない。そうかもしれない。けれどいつだって何も言わずに決めてくるのはいつもトウヤの方で。
 顔を上げると心配そうにこちらを覗く焦茶色と目が合った。今一番見たくなかったその瞳は、喉の奥を堰き止めていた何かをころりと流れ落とした。
 
「それを、トウヤが言うの?」
「ちょっと落ち着け、」
「トウヤこそ何も言わずにいつも勝手にどこか行っちゃうじゃない!私の気持ち考えたことなんてないでしょう?この手紙だって一体どういうつもりで……!」
「手紙、お前何で知って」

 そこまで言って我に返る。
 ああ、やってしまった。こんな風になりたくなくて必死に心に留めていたのに、問い詰める形でぶつけてしまった言葉はもう戻らない。
 彼の腕を解いて、ゆっくりと立ち上がる。どちらにしてもこのままでは言わなくていい事まで口任せに吐き出してしまう。そんな風に傷付けたくはない。
 
「ごめん、ちょっと頭冷やしてくる」

 そう一言残し部屋を飛び出した。
 

 ***


「俺が悪いよなぁ」

 いつの間にか出てきていたエルフーンが、心配そうに俺の周りを漂ってる。
 どう考えても自分が悪い。連絡が少ないことで怒られる事は数え切れないが、あんなに酷い顔で泣かせてしまったのはホウエンから帰ってきた時のアレ以来だ。
 本意がどうであれ、隠しきれないなら早く捨てるべきだった。少なくとも、今回の旅行にもこの先の人生にもあの手紙は必要ないのだから。

「エルフーン、一緒に来てくれる?」

 室内にいればいいのだが。二人分のコートを持ち、エルフーンと部屋をでる。こちらへ来た時よりも多少和らいだとはいえ、まだ夜は冷える。
 まずは謝ろう。それから、絶対に泣かせるだろうけど、あの事故の話もしなくてはいけない気がした。
 急ぎ足で心当たりをしらみ潰しに見て回れば、ナマエはすぐに見つかった。エントランス端のソファへ座る見慣れた後ろ姿に声をかける。

「ナマエ、少し歩ける?」
「……、わかった」

 寒いからとコートとマフラーを手渡してやり、外へ出た。冷たい空気が全身を撫でていき思わず顔を顰めてしまう。それはナマエも同じようで、エルフーンが羽交い締めになっていた。
 十分程歩いただろうか。ホテルの裏に大きな湖がある。夜になると水面に星空が反射するとても綺麗な湖だ。静かに話が出来るとしたら、と考えた時一番最初に思い浮かんだのがリッシ湖だった。

「すご、……」
「今日は天気良かったからな。上も凄いよ」

 頭上を指差せば、ナマエの目線が釣られるように星空へ移る。さっきまでのしかめっ面はすっかり姿を隠したようだった。
 
「あんなもの、見たくなかったよな」

 ごめんと独り言のように呟く。ナマエは静かに頷くだけ。その様子を見て、俺は少しづつ言葉を続けていく。
 まず一番初めに二年前の事故のこと。本気で死ぬかと思ったし、人間は一歩間違えたら呆気なく死ぬ事を身をもって体験した。

「肩のとこに傷あるだろ?あの時の怪我の跡」
「そう、だったんだ……」

 言葉に詰まりながらも、彼女は目を逸らさなかった。強い人だと素直に思う。
 あの手紙には、確かその状況に対しての謝罪と普段言えないようなありきたりな言葉を並べた覚えがある。
 それこそ、彼女の好きなところだとか楽しかった事だとか。
 もしも俺が死んだとして、彼女はずっと俺の記憶を後生大事に抱えたまま生きていくんだろう。ろくに帰りもしない連絡も寄越さないこんな男の事なんて、さっさと忘れて生きていって欲しいと思っていた。だからそんな事も手紙に書き残した気がする。
 こんなものを見せれば彼女は一生俺の事を忘れずに生きていく。本人が居ないのに彼女の中からは永遠に消えないまま。そんなナマエは見たくなかったしそうさせた自分が許せない。
 だから絶対に死ねない。

「だんだん御守りになってたんだ。こんなものずっと前から意味なかったんだけど」
「そんなもの御守りにしないでよ」

 そう言って辛そうに顔を歪めたナマエを見て、改めて馬鹿なことをしたなと反省した。本当にその通りだと思う。

「勝手に見るつもりはなかったの。たまたま、鞄を引っかけた時に見つけちゃって。それは本当にごめんなさい」

 自分の名前が見えて、つい開いてしまったのだと。中にはとんでもない内容が書いてあるもんだから、戻すに戻せなくなってしまった。そう申し訳なさそうに手紙を返してきたナマエ。
 それを受け取り勢いよく二つに割いた。そもそも、もう捨てようと思っていたものだ。今ナマエの目の前でこうするのが一番話が早いだろう。

「えっ!ちょっと、まだ全部読んでないのに!」
「読まなくていいだろこんなん!」
「だってトウヤから手紙なんて貰ったことないし」
「これだってやった覚えないんだけどな」

 しばらくいつもの調子で一通り騒いだからか、ナマエは電池が切れたみたいに急に大人しくなった。眠たそうに欠伸を噛み殺しているなナマエに、そろそろ戻ろうかと声をかける。

「歩けない」
「はぁ?もう、今日だけだからな」

 歩けないからと駄々を捏ねるナマエに仕方なく背中を差し出すと、嬉しそうに肩に腕を回してきた。話の序盤で呆気なく寝てしまったエルフーンはボールに戻し、ナマエを背負って来た道を戻る。

「とうや、」
「?」
「つぎは私がおまもりに、なる」

――だからちゃんと帰ってきて。
 言い切るより前に、静かな寝息が聞こえてきた。
 きっと起きた頃には今呟いた事すら忘れているんだろう。
 一生かけて護ってもらうから覚悟しといて。こちらの独り言も多分彼女には聞こえていない。けどそれでいい。
この言葉をしっかりと伝えた時、彼女はどんな顔をするだろうか。

エリーゼはぼくのために