カントーにはシロガネ山というテンガン山やネジ山よりも大きな山がある。道を外れてしまえばもう二度と出てくることが出来ない程に鬱蒼としていて、実際戻らなかったトレーナーも少なくない。麓に住む老人から聞いた話だ。
そんな大きな山でうっかり死にかけたのが一年前の話だ。と言っても、遭難したわけではなく足を滑らせ数メートル転落した。
不味いと思った時には既に体は宙を舞っていて、すぐに聞いた事のない音が全身を駆け巡った。起き上がろうにも体が動くことはなかったし、声なんて出るわけもなかった。どろりとした液体が視界の隅へと広がっていく光景が、俺がその時に見た最後の記憶。
近くにいたトレーナーが落ちる所を見ていたらしく、すぐに救急に担ぎ込まれた。打ちどころが悪ければ即死だったよとドクターに言われた時は、流石の俺も笑えなかった。
起きた時に母親と幼馴染達がベッド脇に勢揃いしていて、そのメンツですぐにトレーナーカードの緊急連絡先へ連絡が行った事が分かった。
チェレンなんてとんでもなく怖い顔で凄んでくるもんだから、もう少し寝てたら良かったと思わず愚痴をこぼしてしまった。勿論めちゃくちゃ怒られた。ベルに。
ナマエの連絡先を書いておかなくて良かったと、内心ほっとしたのもその時だった。
これまでも危ない事は何度もあった。軽いものから酷いものまで怪我だって沢山してきたが、明確に死を覚悟したのはあの時だけだ。
それが今からだいたい二年前程の事。勿論ナマエにはこの事を話していない。
「そろそろボール戻らない?」
スルスルと足もとへ擦り寄ってきたジャローダに、早く寝ないかと提案する。
午前二時過ぎ。ナマエも他のポケモン達も、みんなぐっすり眠ってしまった。俺も大概不規則な生活リズムだが、たまに彼女も変な時間まで起きている。
小さな明かりを頼りに手帳へペンを走らせる。その日あった事を思い出せる限りに書き留める。カノコで幼馴染達と最初の一歩を踏み出した時からの習慣だ。
それから、定期的に俺やポケモン達のことも書き留めている。彼らの性格や技構成、好き嫌い等。あとは俺が今まで稼いだバトルマネーの事だとか。思いつく限り、書けることは全て書いてある。
俺に万が一の事が起きた場合、まず一番に困るのは一緒に旅をしてきた彼らだろうから。こちらは、あの日うっかり死にかけてからの習慣だ。
もうひとつ、手帳の一番裏に一通の便箋が挟んである。一年前に書いたものだ。これはナマエに宛てた手紙。絶対に渡すつもりのない、ただ自己満足で書いた手紙。
勿論死ぬ気なんて微塵もないが、もし何かあった時にどうしても伝えておきたい事があった。だから柄にもなく手紙にしてしまった。
今思えば御守りの意味合いのが強かったかもしれない。こんなものを渡せば生涯かけて恨まれる。そんなことは許されなかった。だから、これがあるうちは絶対に死ねない。そういう願掛けのような御守りだ。
「けど、これももう要らないな」
ジャローダに目配せする。やれやれとでも言いたげな表情で、彼女はようやくボールに戻っていった。
要らない、というよりは伝えたい内容が変わったと言うべきか。
広げた便箋を折りたたみ、もう一度手帳の裏側へと挟み込んだ。
***
つんつんと硬い何かで頬をつつかれた。
目を擦りながら体を起こせば、枕元でウォーグルがこちらを覗き見ている。私を起こしたのはどうやら彼のようだ。
枕元の時計に目をやると丁度朝の五時半。もう片方のベッドに目を向ければ、あと二時間は起きなさそうな程彼のトレーナーは爆睡していて、なるほど朝ごはんの催促かと納得した。
「ウォーグル、おはよ」
ちょっと待ってねと言い残しベッドから抜け出す。
シンオウに来てからというものの、トウヤがどうしても起きない時、ウォーグルに朝食の用意をするのは私の役目になっていた。
バックパックから小袋を取り出してお皿に出してやる。ウォーグルのフードは果物や穀物が中心なんだとか。小さなドライフルーツが混ざったフードを、ウォーグルが美味しそうに口へ運んでいる。
ポケモンに対して、トウヤは意外と几帳面だ。連れ歩いた個体によってフードの内容や量も変えているらしい。バックパックに詰め込まれているそれも、全て彼が小分けにしたものだ。
「にしてもさ。あなたのご主人、最近ちょっと夜更かしし過ぎじゃない?」
昨夜は一体何時に寝たのだろう。
ウォーグルが寝て、その次にランクルスやエルフーンが船を漕ぎ始めるので、そのタイミングで全員ボールに戻っていく。私もそれから少ししたらベッドに入ってしまうのだけど、トウヤは多分その先もしばらく起きているのだろう。
たまにジャローダだけはトウヤの夜更かしに付き合っているみたいだが、きっとあれは彼女なりに甘えているんだと思う。彼の初めてのポケモンは甘え下手だ。
最初こそは早く寝たら良いのにと私も頑張って起きていたのだけど、最近ではもう諦めてさっさと寝てしまうことが多くなった。
私ももう一眠りしよう。そう思いのそのそとベッドに戻る。ウォーグルもお腹さえ満たされればあとは大人しく過ごしていることが多い。
「わっ、……あぶな」
足もとに何かを引っかけた。何事かと振り向けば、トウヤの鞄が床にひっくり返っていた。
どこに何が入っていたかなんて当然知らないし、散らばってしまった貴重品やボールペンをとりあえずで詰める。起きた時に何か言われたら素直に引っかけた事を謝ればいいだろう。
「?なんだろう」
使い込まれた手帳から何が抜け落ちる。
白い便箋で、手紙のようなそれ。拾い上げると自分の名前が透けて見える。
そのまま見ずに戻したら良かったんだと思う。直感的に、私が見てはいけないパンドラの箱のように感じた。
けれど、開いてしまった。
「……、」
そして絶句した。
そんな私の様子を、ウォーグルはただ見つめているだけだった。