君のための柔らかいねむり


 今日は朝から何もかもが上手くいかなかった。
 寝坊をしていつものバスに乗り遅れたり、普段はしないミスが続いたり、気分転換に買ったコーヒーをひっくり返したり、階段を踏み外して脛に青アザを作ったりもした。
 普段の私ならそういう日もあると、気にも留めない小さなあれこれ。何故か今日はその小さなトラブルを消化出来ずにいて、一日が終わった今、疲弊として体に蓄積されていた。

「っ、かれたぁ……」

 スーツのままベットに身を投げる。シワがつく前に部屋着へ着替える気力すら湧いてこない。体はもう動きそうになかった。
 丁度衣替えの時期だ、これも一緒にクリーニングへ出してしまえばいい。たまにはこのまま眠ってしまっても問題はない。あるとすれば……化粧を落とさなかった顔を見て、明日の朝酷く後悔する羽目になるだろう事くらいだろう。
 今動かなくて済む理由だけをつらつらと頭に並べていく。だるく重たい眠気が頭上にのしかかるのを感じ、ゆっくりとまぶたを下ろした。

 
 がちゃん。
 どのくらい微睡んでいたのだろう。ギリギリで繋いでいた意識の外。心当たりの無い物音を感じとり咄嗟に息を潜めた。
 恐らく玄関のドアノブを回す音。帰宅後に鍵を閉めただろうか、普段から戸締まりには気を使っているものの今日ばかりは自信がない。嫌な予感に胸の奥がざわめいた。
 ワンルームに繋がる廊下の先でゆらりと人影が揺れた。心拍数が急激に上がるのを感じながらも、ゆっくりと開かれる扉の奥を睨みつけ――

「あれ、起きてんじゃん。……え?何、怖い顔して」
「……、はぁ」

 顔を覗かせたのは見知った栗色の頭。凧糸を張ったような緊張感は瞬く間に脱力感へと変わったのだった。

 ◇


「どーぞ」

 ゆらゆらと湯気が昇るマグカップをなまえの目の前に差し出す。彼女はそれを無言で受け取り、陶器の端に口を寄せた。猫の柄が入ったなまえのお気に入りのマグカップだ。

「ほんっとにびっくりした」
「はは、まさか腰抜かすとはなあ」
「もう!他人事だと思って」
「悪かったって。調子悪そうだって聞いて心配だったんだよ」

 なまえ、今日調子悪そうなのな。
 任務報告のついでにそう切り出したのは山本だった。それを一緒に聞いていた獄寺くんにも思い当たる節がある様子。どういう事だと、二人から詳しく話を聞いたのが約二時間前の話だ。
 そこからは正直仕事どころでは無かった。普段の明るくハキハキとした様子からは想像が付かないが、なまえは落ち込むとどん底まで沈んでいく。落ち込むことが悪いこととは思わないが、彼女の場合は底が深すぎる。
 二人にボールペンを取り上げられたのは、話を聞いたすぐの事だった。落ち着かない様子の俺を見兼ねたのか、もういいからさっさと帰れと、あっという間に執務室から追い出されてしまったわけだ。

「調子どう?」
「別に体調悪いわけじゃないの。ちょっと疲れただけ」

 ぼそりと呟きそのまま倒れ込むなまえ。突き放すような素っ気ない態度。だが、疲れが滲んだ声を張り、無理矢理強がっているようにも見えた。
 長い付き合いの間柄だ。滅多な事では弱音を吐かない性格だし、彼女は俺なんか居なくても勝手に立ち直ってくるのだろう。そんなことは百も承知だし、そういう強くあろうとする姿は彼女の好きなところでもある。
 まあでも、俺もほおっておけない性分なので、こういう時にはたまに押し掛けて好き勝手に甘やかすのだ。
「……仕事抜けさせちゃったよね」
「平気。俺が来たくて来たんだから」

 実際急ぐものは全て目を通してきた。まあ、使い物にならなかった自覚もあるが、緊急性のある案件があればあの二人もここまであっさり解放してくれなかっただろう。
 ベッドの横に腰を下ろし、マットレスに肘をつく。丁度なまえの顔と同じ高さ。顔をのぞき込むと、乱れた前髪の隙間からなんとも複雑な表情がこちらをじっとみつめていた。困ったような怒ったような、それから何かを我慢しているような小さな子供みたいな顔。
 鬱陶しそうな前髪を払ってやりそのまま頬に手を伸ばすと、するりと手のひらの中へ擦り寄ってくる。しばらく身じろいでいたが、収まりの良い場所を見つけたようで気付いたら大人しくなっていた。
 素直に甘えてしまえばいいものを――けれども、そんな不器用なところに惹かれてしまったのも認めざるをえないのだ。