逆再生

僕には幼なじみが一人居た。
なまえといって、向かいの家に両親と住んでいるとても活発な明るい子。ひいひいおじいさんから代々つたわる漢方屋の一人娘だ。
性格は女の子が好むままごとや人形遊びなどより、外で走り回ったりするのが大好きな子だった。よく自分の背丈の何倍もあるモモンの木に登っては、おばさんに怒られていた。女の子なんだからもう少しおしとやかになさい!それはがおばさんの口癖だった。なまえもなまえで、何回怒られても木登りをやめはしなかったので、僕は彼女がおばさんに怒られるところを何百何千回と苦笑いしながら見てきたのである。

ある夏の日、平気平気と笑いながらいつものようになまえは木に登っていた。僕もいつものように、危ないしまたおばさんに怒られるよ、と声を掛けた。ひょいひょいと上に登っていってしまう彼女を、冷や汗をかきながら見上げていた。
丁度その日は、例年以上の大豪雨がエンジュの町を襲った翌日だった。地面には大きな水溜りがいくつもでき、木も湿って足場が悪くなっていたのだろう。なまえは足を滑らせ木から落ちた。幸い途中にあった枝や葉ががクッションになり落下速度はいくらか落ちたが、尖った枝が左腕を引っ掻き、みるみるうちに彼女の袖を真っ赤に染め上げていった。傷の深さ自体は切り傷の様なものだったが、範囲が広く血の量も多かったのだ。
なまえの家に駆け込み、大泣きしながらおばさんを彼女の元に引っ張って行ったのを今でも思い出す。その日の夜、おばさんだけでなくおじさんにもこっ酷く怒られたようで、それ以来彼女が木に登ることはなかった。

少し大きくなって、一緒にトレーナーズスクールに通うことになった。今でも仲の良いミナキ君と初めて出会ったのもこの時。この頃はまだスイクンオタクではなかったミナキ君と丁度席が隣同士になったのがきっかけで、歳が同じで気さくな彼と仲良くなるのにそう時間はかからなかった。それはなまえと彼の場合も同じで、僕らは三人で行動する事が多くなった。僕にとって二人目の友達とも言えるだろう。
引っ込み思案で人見知りをする子供だった僕は、物心つく前から仲のいいなまえとばかり遊んでいたし、彼女以外のそれらしい友達なんていなかった。ゴーストタイプを専門として扱うエンジュジム。このジムのリーダーを曾祖父の代から務めている家に生まれ、ずっとゴーストポケモンに囲まれ生活をしてきた。それが当たり前だった。
けれども、そんな僕のことを近所の子供達はたいそう気味悪がった。無理もないだろう。当然の反応だと思っていたし、その事を引け目に感じた事は一度もない。自分の家の事を子供ながらによく理解していたつもりだったし、何よりなまえやポケモンたちが居たおかげで寂しさは微塵も感じなかった。

それから十数年たち僕は大人になった。なまえもミナキ君も大人になった。三人で外を走り回る事はもう無くなったしみんなそれぞれ忙しくなった。
ミナキ君はいつからかスイクンを追いかけ世界中を駆け回っていたし、なまえはお店を手伝いながら独学で漢方の勉強をし始めた。僕もエンジュジムを継ぐ為にジムトレーナーとして毎日挑戦者とのバトルに明け暮れ、昔のように毎日会うことは無くなってしまった。
それでも自然とうちに来てはみんなテレビを見ていたり、二人が夕飯を食べに来ていたり。会う約束をしなくても気付いたら三人集まっているのだ。春は庭に一本だけ生えている桜の木でお花見をして、夏は風通しの良い畳の部屋で川の字に。秋になれば縁側から月を眺めて月見団子を食べたし、冬の寒い日にはこたつですき焼きをつついたりもした。もう何年と繰り返してきたことで、そしてこれからも繰り返していくのだと。


日に日に気温が暖かくなってきた。今日も外を少し歩いただけで体温が上がってくる。暖かいホウエン地方では既に桜が咲き始めているところがあるとニュースの天気予報のコーナーで報道していた。うちの庭に植わっている桜の木もつぼみがだいぶでかくなってきて、もう二週間もしないで咲きはじめるだろう。彼女は今年もこの桜が咲くのを楽しみにしていて、早くお花見がしたいねとこの前話したばかりだった。

「酷い顔だな」
「・・・・・・君には言われたくないなあ」

着慣れないスーツを身にまとい玄関を潜るとミナキ君が立っていた。トレードマークのようなあの派手なスーツではなく僕と同じ様に真っ黒なスーツを着たミナキ君。文字通り”酷い顔”のミナキ君と僕。
四日前、今年の桜を見ることなく、なまえはこの世を去ってしまった。病院に運ばれた時には既に亡くなっていたそうだ。崖から落ちそうになっていた子供を助けた時に、誤って自分が落ちてしまったらしい。式の手伝いで顔を出したときにおばさんからそう聞かせてもらった。
きっと彼女は、最後におばさん達の事を思い出していたのだろう。それから僕らの事も少しは思い出してくれていただろうか。優しい彼女のことだから、意識がなくなる最後の最後まで助けたその子のことを心配して逝ったのだろうか。


なまえの葬儀は身内と親しい人のみで行われた。
小さな骨壺に入れられてしまった彼女を見ても、僕はまだ彼女の死を受け入れられることができないでいる。何か長くて悪い夢を見ているに違いない。そう思えてならないのだ。
滞りなく全ての工程を終え、おばさんの様子を少し見てから僕とミナキは帰路についた。雨が降っていて少しだけ肌寒い。しとしとと振り続ける粒がただぼんやりと視界に入ってくる。そういえば彼女は春の雨が好きで、今日の様な日はよく傘をさして相棒のポケモンたちと散歩に出かけていた。

「なあマツバ」
「うん」
「あいつは最後、俺たちの事を少しでも思い出してくれただろうか」

さっきまで考えていた同じ事を、ミナキ君が静かに口にした。僕は少しだけ間を置いて、それからゆっくりと、それはなまえにしか分からないよと答える。こうだったならいいのに。そうだったのだろう。そんなものは結局、遺されたものが考えている妄想にすぎないのだ。

「でも、少しでも思い出してくれていたと僕は思っているよ」

震える声で紡がれた言葉たちが雨の音の中に混ざるようにかき消されていった。