わたしたちの妙な生活が始まってから、今日で一週間目を迎えた。
なんとなく室内に彼らが居る事に抵抗を感じなくなり、それまでほぼ夜型だったわたしの生活リズムも、日を追う毎に規則正しく変化しているような気がする。それも偏にこの生活のおかげなのかもしれない。


その日は朝から雲ひとつ無い青空だった。
自室のカーテンを開け、しっかりと身支度を整えた後、わたしは一呼吸置いてからリビングへのドアに手をかけた。


「おはようございます……」
「おっはよ〜」

少し遠慮がちに挨拶をしながら後ろ手でドアを閉めると、音也くんの明るい声がすぐにこちらへ返って来る。リビングでいそいそと体を動かす彼は既にスーツに身を包み、わたしのために朝食の支度をしてくれていた。
その手付きは辿々しく、不慣れな事が伺い知れる。それでも懸命に自分の仕事を全うしようとする音也くんは、わたしの目にはとても格好良く映ったのだった。




「よーし、準備完了〜! さ、かおるちゃんどうぞ」

一通り支度を終えた音也くんは、お待たせしましたと言いながら椅子を引き、その場に立ち尽くすわたしを呼んだ。わたしは一言お礼を言うと、その椅子に腰を下ろした。やはりこういう事は慣れていないので少し照れくさい。

わたしが椅子に腰を下ろすと、なぜかそれと同時に音也くんがわたしの向かい側に座った。そして笑顔のまま頬杖をつくとこちらをじっと見つめてくる。

「……」
「……」
「い、いただきます……」
「どうぞ、召し上がれ」

向こう側から注がれる音也くんの視線に若干戸惑いつつ、わたしはとりあえず食事を始めた。

スープを飲み、パンを口へ運ぶ。サラダには既にわたしの好きなドレッシングがかけられており、色合いもとても綺麗だった。

しかし。

「あの……音也くん、どうかしましたか?」

先ほどから突き刺さる程の音也くんの視線が気になり、わたしは正直、食事どころではなくなっていた。実は今食べたパンの味すらよく覚えていない。

「ううん、別に。ただ、かおるちゃんがごはん食べてる姿って可愛いから、見てただけ〜」
「っ! ごほごほっ……」

食べていたものを噴き出す前に、わたしはなんとかナプキンでしっかりと口を塞いだ。

一緒に過ごしていて気付いたのだが、音也くんは少々無邪気過ぎるきらいがあり、わたしはその言動に戸惑う事が多々あった。今だってそうだ。普段可愛いだなどと言われ慣れていないわたしは、音也くんに可愛いと言われただけで顔中が熱くなってたまらなくなる。しかも、無邪気に可愛いなどと言った音也くんは全く悪びれた様子もなく、本当に無邪気そのものな発言なので、文句すら言えない。これは本当につらい。

恥ずかしくて本当ならばすぐにでもその場から逃げ出したい気分だが、今食事を始めたばかりなのでそうもいかない。
わたしはなるべく咀嚼する回数を減らし、何とか手早く食事を済ませると、早々と椅子から立ち上がった。

「ご、ごちそうさまでした!」
「うん、お粗末さまでした」

わたしが椅子から立ち上がると同時に、音也くんも元気良く椅子から立ち上がり、すぐにガチャガチャと音をたてながら、食器の後片付けを始めた。
何とか音也くんの拷問のような視線から逃れる事ができたわたしは、彼の邪魔をせぬようにすぐに自室へのドアへ向かった。彼がわたしを呼び止めたのは、そんな折だった。


「かおるちゃん」
「えっ!? は、はい?」

先ほどの音也くんの視線に必要以上にドキドキしていたわたしは、自室へのドアに手をかけたまま驚いたような返事をしてしまった。声が少し裏返ってしまったような気がする。恥ずかしい。
しかし音也くんはそんなことなど全くお構い無しにこちらへ笑顔を向け、そして首を傾げた。

「ねぇ、かおるちゃんは今日これから何する予定?」
「え? ……あ、そういえば、今日の予定を言うの、忘れてましたね」

彼らに話すのをすっかり忘れていたのだが、今日は特に予定もなく、おまけに天気も良いので、わたしは一駅先にある臨海公園へ歌を歌いに行こうと思っていた所だった。
その公園は、わたしの他にもアコースティックギターを持った若者やヴァイオリンの練習をしている学生などで賑わい、一部の間では有名な音楽通りになっている。わたしも早乙女学園に入る前から、天気の良い日は度々そこで演奏しているので、ここまで来ると半分習慣に近いものがある。

わたしは今日の予定を伝え損ねた事を詫び、その後臨海公園へ歌をうたいに行くという旨を音也くんに話した。すると彼は、途端に目をキラキラ輝かせ、片付け中の食器もそのままにわたしの方へ詰め寄った。

「ねぇ、歌いに行くって、かおるちゃん、それ、本当!?」
「う、うん? 本当、ですけど……」

音也くんの頬はますます上気していき、心なしか僅かに興奮しているようだ。

「お、音也くん、それがどうかしたんですか……?」

おそるおそる音也くんを見上げると、彼はどんどんわたしに顔を近付け、そして騒々しい程の声量で叫んだ。

「かおるちゃん、俺も路上ライブに連れてって!」
「は、はいっ!」

音也くんの雰囲気に圧されたのか、わたしは気付けばそう返事をしていたのだった。







「音也くん、お疲れさまでした」

思っていたより音也くんとの演奏が盛り上がり、気付けばすでに午後三時を回っていた。
それもそのはず。音也くんのギターはプロ並みで、どんなに拙いわたしの演奏にもちゃんと伴奏を合わせてくれる。演奏していてこんなに楽しかったのは初めてだった。

何曲か二人で合わせた後、くたくたになったわたしたちはその場に座り休憩を取った。


「はいかおるちゃん、イチゴサイダー」
「あ、ありがとうございます!」

公園の入り口に設置された自販機で、音也くんが買ってきてくれたジュースを受け取る。炭酸飲料なんてもう何年ぶりだろうとなどと考えながらプルタブを開けると、プシュッという懐かしい音が聞こえ、思わず表情が緩んだ。

「それにしてもやっぱりライブって気持ちいいね! ほんとは俺も歌いたかったけど、正体バレたら君に迷惑かけちゃうもんね」

こっそりマスクを外し、わたしと同じ炭酸飲料を飲みながら音也くんがそう言って笑った。
今日の音也くんは自分がトップアイドルだとバレぬよう、上から下までしっかりと変装している。しっかりしすぎて若干不審者のようだが、それでもバレて大騒ぎになるよりはずっといい。もちろんわたしが迷惑とかそういうのではなく、純粋に彼に迷惑をかけたくないからだ。それにその目を引く格好のおかげか、いつもよりわたしたちの演奏に足を止めてくれた人も多かった。これは結果オーライというやつかもしれない。

「音也くんって、歌だけじゃなく、ギターも上手なんですね、驚きました」
「へへっ、それほどでもないよ。それよりかおるちゃんの曲、やっぱり聴いてて落ち着くよね〜。伴奏しててこんなに和んだの、俺、初めてかも!」
「あはは、ありがとうございます」

こんなに他愛のない会話なのに、音也くんと話しているだけで、なぜだかわたしの胸中はとても暖かくなって行く。こんな気持ちも初めてだった。



「そういえばトキヤ、来なかったね」
「あ、そうですね……」

不意に口から出たトキヤくんの名前に、わたしたちは少しだけ残念な気持ちになる。

今朝、トキヤくんは社長に呼ばれていたせいかずっと不在だった。一応わたしたちが部屋を出る際、臨海公園で路上演奏をしているので良かったら来てくださいという旨を音也くんが書き置きして来てくれたのだが、ちゃんとそれに気付いてくれただろうか。

「あー、大丈夫だよかおるちゃん! 俺、ちゃんと出てくる前にトキヤに書き置き残してきたし、トキヤだってきっともうすぐ来るかもしれないよ!」
「……そう、ですよね」

ここにトキヤくんが居ないのを心底寂しく思い、二人で顔を見合わせ苦笑すると、わたしたちはそれを吹き飛ばすように、残りのジュースを一気に喉へ流し込んだ。



それから最後に二曲ほど合わせた後、わたしたちは楽器の片付けを始めた。外気は意外にも肌寒く、そろそろ手がかじかんでしまいそうだった。
結局トキヤくんは来なかったけれど、それでも音也くんのおかげで今日はいつもより楽しく演奏できた。

「あの、音也くん、今日は付き合ってくれてありがとうございました」

改めてそう言って深々と頭を下げると、彼はとても照れくさそうに笑った。

「あはは、そう改まって言われると照れちゃうけど、俺も楽しかったし、だから俺もありがとう!」
「え? ……わっ」

音也くんがはにかみながら、なぜかわたしにお礼を言った。そして更にはぐしゃぐしゃとわたしの頭を強く撫でる。
見上げると音也くんの頬がほんのりと紅潮していた。おそらくこれは彼なりの照れ隠しなのかもしれないと思うと、わたしはなんだかとても可笑しくなってしまった。

「もう、何笑ってんだよかおる〜。帰るよ!」
「え……? あ、はい!」

音也くんに不意に呼び捨てられたが、それは思ったより抵抗がなかった。わたしは何事もなかったかのようにキーボードを持ち、彼の隣を並んで歩いた。
音也くんがごく当たり前のようにわたしの手を取り、強く握る。驚いて音也くんを見上げるも、彼はわたしと目を合わせる事なく、鼻歌を歌いながら寮への道を歩くのだった。

いつの間にか空がオレンジ色に染まりかけていた。
 

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