長閑な昼下がり、不意に部屋のドアがノックされ、トキヤくんが顔を出した。

「かおる、勉強の時間です」
「あ、はい」

気が付けばもう午後の勉強の時間だった。
今日は朝から作曲作業がはかどり、思いの外時間が経つのを忘れていた。

勉強など、もう何年振りだろうか。思えば早乙女学園に在校していた時でさえあまり得意な科目など無かったわたしが、社会人になってまで勉強に励む事になろうとは、自分でも予想だにしていなかった事だった。


部屋の中に足を踏み入れたトキヤくんは、いつものように窓際の椅子へ腰を下ろす。椅子に座る、たったそれだけの仕草さえ見惚れてしまう程、彼はとてもスタイルが良い。更に彼は今、アイドル界のトップだ。そんな彼が自分と同じ空間に居るなんて、本来ならば信じられない出来事だし、というか、実は今でもわたしは時々この生活は夢なのではないかと思う事がある。


「かおる、どうかしましたか? 早くこちらに座ってください」
「は、はい、ごめんなさい!」

トキヤくんに促され、わたしは窓辺に設えられたアンティーク調の机に移動し、腰を下ろした。
トキヤくんが怪訝そうにわたしを見据えている。だが、間違っても見惚れていただなんて事は、わたしの口からは言ってはならないような気がした。



「それでは今日も始めましょうか」
「はい。よろしくお願いしま……」
「ふぁ……あ、良く寝た〜」
「えっ……、お、音也!?」

トキヤくんが今日の教材を机の上に乗せた瞬間、わたしたちの真後ろ――つまりわたしのベッドが置かれている方だが――から声が聞こえた。それは言わずもがな音也くんの声で、そこに居ることを予め知っていたわたしは然程驚きはしなかったが、トキヤくんの方はずいぶん驚いたようで、椅子から立ち上がったまま暫く固まっていた。



「あれ、トキヤ……?」

未だ少し寝惚けているかのような目を擦り、音也くんがわたしのベッドの上に身を起こした。

「な、なぜ音也がかおるのベッドに寝ているのです!?」

トキヤくんが驚いた顔のまま音也くんを問い質す。僅かに雰囲気が険悪になってきたような気がした。
しかし音也くんはそんな雰囲気など気にも留めず、笑顔のままわたしのベッドから飛び降りる。


彼がわたしのベッドで眠っていた理由は、その時ただ眠かったからという単純なものであり、決して疚しい事の後だとか、そんな理由ではない。

本当ならば、この学習時間が始まる前に、わたしが音也くんを起こさなければならなかったのだが、実はわたしも作曲作業に夢中になっていたせいか、彼がベッドで眠っていた事を今の今まですっかり忘れていたのだった。
わたしと音也くんは疚しい事をしていた訳ではないけれど、あまり言い訳じみた説明をするとトキヤくんにとっては逆効果になりかねないし、わたしは何とか誤解を招かぬよう説明するため、頭の中で慎重に言葉を選んだ。

しかし、考えれば考える程頭の中が混乱して来る。


不意に人懐こい笑みを浮かべた音也くんがわたしの前に立ち、トキヤくんと向き合った。

「実は今朝、俺がかおるの部屋の掃除を手伝ってたらさ、急に眠くなっちゃって……」

どうやら音也くんがこの状況の説明をしてくれるようだ。
わたしはそれを黙って見守った。

「何せ昨日は徹夜でゲームしてたからさー」
「……」
「でもそうしたらさ、それを見兼ねたかおるがこのベッドで寝てて良いって言ってくれて、俺、その言葉に甘えて、ちょっとだけ寝させてもらってたんだよね! ありがとな、かおる!」
「あ、いえ、どういたしまして……」

終始にこやかな音也くんとは正反対に、トキヤくんの表情がどんどん険しくなっていく。一抹どころか十抹くらいの不安が過った。


「かおる……。今音也が言った事は、本当ですか」

トキヤくんはわたしの方へ視線も向けず、ただ俯いたまま、いつもより低い声でそう問うた。トキヤくんは特に強制している訳でもないのに、なぜだかわたしはそれに答えなければならないような圧迫感に襲われた。

トキヤくんの顔色を伺うように彼へ視線を向け、わたしはただ一言、本当ですと小さな声で呟く。



「……かおるっ! 君はいいんですか!?」

次の瞬間、トキヤくんがわたしを見据え、大声で叫んだ。

「音也にベッドなんか貸したら、今夜必ずかおるの匂いをおかずにイヤラシイ事をするに決まっているじゃないですか! どうしてそんな浅慮な事をしたのですか!」「え……、おか、ず?」

トキヤくんの良く分からない偏見に、わたしが眉を寄せ首を傾げると、今度はトキヤくんではなく、音也くんがわたしの顔を覗き込んだ。

「ダイジョーブだって、そんなことしないよ! だって俺、匂いとかより断然想像派だから!」
「……」
「……」

わたしの顔がどんどん歪んでいく。トキヤくんと音也くんが変な言い合いを始めると、それを止める事はなかなかに難しい。それ以前に聞いている方はとても恥ずかしいものなのだ。



「とにかく音也! あなたのふしだらな想像でかおるを汚さないでください! それから私たちはこれから勉強をしなければならないので、あなたは早々にこの部屋から出て行ってください」

いつもの不毛な言い合いに嫌気が刺したのか、トキヤくんは早々に話を切り上げ、音也くんをドアの方へ押しやった。しかし音也くんはそれを無視し、わたしの側へ戻って来ると、思いもかけない事を言い放ったのだった。

「かおる、俺もかおると一緒に勉強したいなぁ。いいよね?」
「えっ……?」
「……」

音也くんの思いがけないその申し出に、わたしは思わずトキヤくんの表情を盗み見た。トキヤくんはわたしの予想通り、とても不機嫌そうな仏頂面をしていた。正直男前が台無しである。
しかし目の前に迫る音也くんの笑顔を見ると、それを無下に断る事などできるはずもなく。

「う、うん、わたしはいいですよ……」
「やった! かおる大好き!」
「ひゃっ!」

音也くんがまるで犬のようにわたしに飛び付いて来る。彼の感情表現はわたしには少し照れくさいものばかりで、困惑せずにはいられない。
そして結局わたしは自分で自分の首を絞める事になってしまうのだった。



「音也……いつまでかおるにくっついているつもりですか。私を本気で怒らせたいようですね?」
「あれ? トキヤ、なんで怒ってんの?」

トキヤくんによりわたしから強制的に引き離された音也くんがキョトンとした目でトキヤくんを見上げる。
トキヤくんが盛大にため息を吐き、こめかみを押さえた。どうやらこれ以上この件を音也くんと話し合うつもりはないらしい。
とりあえず穏便に済むのならわたしは口出しをすまいと思う。





「それでは今日はここから始めましょうか」

わたしの隣に音也くんが座り、機嫌良く鼻歌を歌っている。トキヤくんは音也くんに目もくれず、わたしに教材を寄越した。

「……あれ? トキヤくん、なんか……教科書違いませんか?」

彼の寄越した教科書は、以前使っていたものとはまるで違っていた。これは教科書というより、アレに近い。

「あの、わたしも見たことはないから詳しくは分からないんですけど……もしかしてこれ、成人向けの雑誌、じゃないですか?」

わたしの机に置かれたいかがわしい雑誌を手に取り、トキヤくんを見上げると、彼は一言、その通りですよと言って微笑んだ。

「……」

絶句するわたしの頭を、トキヤくんが大きな手で優しく撫でる。

「ふふ、そう緊張なさらずとも良いのですよ。今日は特別に私がかおるに性教育の授業をして差し上げたいと思います」
「おおーっ!」

トキヤくんのその一言に、音也くんが歓声を上げた。まるで中学生男子のような反応に思わず脱力してしまう。できれば今日の授業ははっきりとお断りしたいのだが、先ほどよりもずいぶんと機嫌が良くなったトキヤくんに、わたしはなかなか切り出す事ができない。


「どうしました、かおる。遠慮なさらずとも良いのですよ? 何せ私も未経験ですし、こういう事は一緒に勉強していくのが良いでしょう。そしてその勉強が終わったら……」
「三人で実践だね!」
「えっ!?」
「なっ!」

絶妙のタイミングで音也くんが嘴を挟む。
驚いたのはわたしだけではなく、トキヤくんも同じだったらしい。

「なぜそこに音也が入ってくるのですか!」

トキヤくんが音也くんを鋭い目で睨んだ。
もちろん音也くんはそんな事など気にしてはいない。

「だって俺だってかおると実践したいもん。三人でなんて初めてだけど、楽しみだなぁ〜」
「ゆ、許しませんよ! かおるに手を出していいのは私だけです!」
「えーっ!? でもトキヤ、トキヤがかおるのファンだって言った時、自分は別にかおると恋人関係になりたいわけじゃないって言ってたじゃん」
「そ、それは、かおるの手前、そう言わないと格好悪いじゃ、ないですか……」
「えー! じゃあトキヤはその時、本当はかおると恋人関係になってエッチしたいなーって心の中で思ってたけど、かおるにそう思われるのが嫌だから見栄張っただけなわけ?」
「……君は人を貶めるのが上手ですね……。人を内向的な変態みたいに言うのはやめてください!」

「あ、あの……」

わたしはトキヤくんがいかがわしい雑誌を机に置いた時から、心のどこかでこうなる事が分かっていたような気がする。

「何ですかかおる、今音也と話をつけますから、少し黙っていてください」
「ちょっと待っててねかおる。すぐに三人プレイできるように俺がトキヤを説得するから!」

「……」

だからわたしはもう二人の仲裁をする事を諦めた。

「だいたいあなたはかおるのファンでもないくせに、かおるにちょっかいを出すのはやめてください。正直迷惑です」
「何言ってんだよトキヤ! 俺だってもうかおるのファンだよ! かおると曲合わせたりかおるの曲を聴いたりしてから、俺、一気にかおるのファンになったもん!」
「そんなの、単なる俄ファンじゃないですか。自慢じゃありませんが、私はかおるのデビュー当時からのファンです」
「ファンの年数は関係ないよ!」
「関係あります!」
「ない!」
「あります!」

「……」

わたしは二人に気付かれぬよう、そっと部屋を抜け出した。

どうせ二人が落ち着くまでしばらくかかるだろうし、わたしはリビングで曲作りの続きでもして時間を潰そうと思う。

あと二ヶ月もわたしは彼らと一緒に過ごさねばならないのかと思うと、嬉しいような恥ずかしいような、何ともいえないわだかまりのようなものが胸中に残ったのだった。



つづく


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