「君は本当にわがままを言いませんね」

この生活を始めて二週間が経とうとしていた頃、わたしは不意にトキヤくんからそう言われた。

「そう、ですか?」

自分では結構わがままな生活を送っていたと思っていたのだが、他人から見ればそうでもないのだろうか。トキヤくんはそれを考え込むわたしに紅茶の入ったカップを差し出し、口の端を上げて笑った。

「そういえばそうだよねぇ、かおるってあんまり自分の事押し付けないし、食べ物の好き嫌いもないし、いい子過ぎるよねぇ」
「えっ……、お、音也くん、そんな事ないですよ!」

両手に焼きたてのお菓子を持ち、リビングに入って来た音也くんもわたしたちの話に加わり、訝しげに首を傾げる。

「実はかおる、君には言ってませんでしたが、私たちにもこの生活を送る上でのノルマというものがあるのです」
「ノルマ……?」

トキヤくんが音也くんの持ってきたお菓子を取り、それをテーブルへ置くと、妙に気になる事を口にした。思わずそれを聞き返すと、彼はいつものようなからかう素振りも見せず、わたしに言葉の意味を説明する。

「私と音也にもこの生活の自己採点票というものが用意されていまして、週に何度どういうかおるのわがままを聞いたか、どんな勉強をしたか等、書いて提出しなければならないのです」
「かおるは基本的にわがまま言わないから、俺、先週分は空欄で提出しちゃった」

わたしにも採点票というものがあるが、まさか彼らにもそういうものが渡されているとは夢にも思っていなかった。しかもわたしのせいで彼らの採点票に悪影響を及ぼしてしまっていたなんて、なんだかとても申し訳ない気持ちになってくる。

「あ、あの、本当にすみません。そうですよね、わたしたちのこの生活は遊びじゃないんですし……わたしが考え無しでした」
「あ、そんなことないよ、かおるのせいじゃないよ! いくら社長命令だからといって、初対面に近い相手にわがまま言う子なんてなかなかいないし、仕方ないよ!」
「音也くん……ありがとうございます……」

座っていたソファの上でぺこりと頭を下げるわたしの隣に音也くんが腰を下ろし、懸命にわたしをフォローする。相変わらず優しい彼の雰囲気は、わたしの気持ちを徐々に軽くしていった。


「音也の言いたい事は分かります。私だってかおるの性格上、わがままなど言わない事など百も承知ですし。……しかし」

そこでトキヤくんは一旦言葉を区切り、さり気無くわたしの隣に腰を下ろした。やはり二人がけソファに三人は少々狭い。

「このままだと、私と音也の評価はいつまで経っても平行線のままです」
「……」
「……」

わたしと音也くんはトキヤくんのその一言に顔を見合わせて俯いた。
確かにトキヤくんの言った事は正しい。彼らの努力いかんで今度のドラマのキャスティングが変わる事もあるらしいので、もし万が一彼らがドラマのキャスティングから外れてしまうという事態が起これば、わたしにも責任の一端がある。わたしはその事実をすっかり忘れていたのだ。



「私から提案があります」

トキヤくんがわたしの前にクッキーの乗った皿を差し出しながらそう言った。わたしはそれをひとつ摘まみ、ありがとうございますとお礼を言う。ひとつ言い訳をするとすれば、こんな風にトキヤくんも音也くんも四六時中わたしに気を遣ってくれるので、やはり自分からわがままを言うきっかけなど無いのだと思う。
トキヤくんはわたしと音也くんを交互に眺め、さらに続けた。

「かおるにどんなにわがままを言えと言ったところで彼女がわがままを言うはずなどない事は私も良く知っています」
「うんうん、そうだよねぇ」

「そこで私は考えました。こうなったら、かおるのして欲しい事を私たちが先読みし、有無を言わさずそれを叶えるのです」
「え? ああそっかぁ! トキヤ、頭いいー!」

トキヤくんの良く分からない提案を、音也くんが手放しで絶賛する。わたしは彼らの思考が理解できない事がままある。いや、理解できないのではなく、理解したくないだけなのかもしれないが。
しかし、今回ばかりは別だ。わたしのせいで彼らの成績に汚点を残す訳にはいかないのだから、今はトキヤくんの提案に乗るしか道は無い。
わたしは何も言わず、ただ黙って彼らを静観した。



「……かおる」
「えっ!? は、はい?」

不意にトキヤくんがわたしの名を呼び、刺すような視線をこちらへ向ける。その瞳は本当にわたしの頭の中までもを覗き見るように鋭く、簡単に逸らす事すらできなかった。
トキヤくんはしばらくわたしの顔を見つめた後、ほんのりと表情を和らげ、席を立った。

「私が察するに、君は今、とても疲れていますね?」
「え……いえ、特に疲れては……」
「いいえ。かおるは自分では分からない程疲れています」
「……」

強い意思のこもったトキヤくんの目とその強引さに最早反論などできそうもない。わたしはトキヤくんを見上げ、ただ頷くしかなかった。

「そうでしょう。私の見立て通りですね」

トキヤくんがそう言って満足そうに笑うと、わたしの胸中はなぜだかとても不吉な予感でいっぱいになった。この時ほどわたしは有耶無耶な気持ちのままに頷いてしまった事を後悔したことはない。


「それではこちらのソファへ俯せに横になってください」
「……はい?」
「ですから、ここへ寝そべってください」

トキヤくんの発する言葉は、時としてなぜか抗う事のできない呪詛のように感じられる事がある。それが今まさにこの状況で、わたしにはそれを拒否してしまう事がなかなかできない。

「……あの、参考までに訊きたいんですが、それは何のために、ですか?」

なんとか自分の中から絞り出した声でそう訊ねると、彼は全く臆する事なくわたしにその行為の意味を説明した。

「何のためにだなんて、そんな事決まっているじゃありませんか」
「……」
「私がかおるのマッサージをするためです」
「えーっ!?」

トキヤくんのその提案に声を出して驚いたのは、意外にもわたしではなく、音也くんの方だった。わたしが驚くよりも早く驚愕の声をあげたその反射神経は、さすがスポーツ万能を掲げているだけあると思った。

「ちょっと待ってよトキヤ!」
「何ですか。何か問題でもあるのですか?」

しかしその反応にトキヤくんが眉を顰め、面倒そうに音也くんを睨む。音也くんはわたしの隣から腰を上げ、トキヤくんと向き合うように向かい側のソファの前へ進んだ。

「……トキヤ、かおるをマッサージするとか言って、ついでに変なとこもマッサージするつもりなんじゃないの?」
「なっ! そ、そんなわけ、ないでしょう!」

音也くんの鋭い突っ込みにトキヤくんの顔色が瞬時に変わった。
もしや図星だったのだろうか。
いや、それは深く考えないようにしよう。

「アヤシイなぁ……。じゃあさ、俺もかおるのマッサージしていい?」
「え? だ、だめに決まっているじゃないですか! 音也にかおるのマッサージなど頼んだら、絶対に胸と臀部ばかりをマッサージするに決まっています!」
「……」

トキヤくんの発言はおそらく自分の事を言っているのではないだろうか、などという邪推はともかく、わたしはこの状況が恥ずかしくてたまらない。少し落ち着いて話そうと二人の間に入ろうとするも、なかなかその勇気がわたしにはなかった。

「大丈夫だって、俺、かおるの胸とお尻以外もちゃーんとマッサージするから!」
「それじゃあ胸も臀部もマッサージすると言ってるのと同じじゃないですか! だめです、絶対に音也にはかおるのマッサージはさせません」
「俺だってトキヤに譲るつもりはないよ。かおるの胸もお尻も俺のものだよ」
「いいえ、私の方がかおるの事を良く知っています。ですからかおるの胸も臀部も全て私のものです」
「……」
「とにかく、それじゃあかおるの胸とお尻はどっちがマッサージする?」
「そんなの、もちろん私に決まっているじゃないですか」
「なんでだよ〜!」
「私にはあなたと違って理性というものがありますからね。かおるも私の方が安心でしょう?」
「そんな事ないよね? かおるは俺にマッサージされた方がいいよね?」
「うえっ……!?」

何だか良く分からない二人の言い合いに突如巻き込まれ、わたしは思わず声が裏返ってしまった。ここは何と答えれば良いのだろうか。
実は正直に言ってしまうと、言い合いの内容が恥ずかし過ぎて、わたしは途中から彼らの言葉を頭の中へ入れる事を拒否していた。
しかしそんな事情を彼らが知るはずもなく、トキヤくんも音也くんもわたしの返事をただ黙ってその場で立ち尽くしながら待っている。

困った事になった。

「あ、あの」

わたしは深呼吸をひとつすると、意を決して二人を交互に見つめた。



「わたし、やっぱり全然疲れてません!」

「……」
「……」

わたしがそう叫ぶと、二人は困ったように視線を泳がせ、とてもばつが悪そうに頻りに咳払いをし始めた。


「っと、すみません。私はどうやら君の事となると理性が効かなくなるようです」
「俺も、ごめん。君に触れたいって思ったら、止まらなくなってた……」

「……音也、もしかしてかおるの事、本気ですか?」
「本気じゃなきゃ、俺、触れたいだなんて思わないよ」
「……」

彼らが二人で何かを言い合った後、一瞬だけトキヤくんが眉をピクリと動かしたようだったが、わたしの見間違いだったかもしれないので深く追及はせずにおく。




「……仕方ありませんね。とりあえずかおるのわがままは、わがままを言わない事、と自己採点票に記入しておきましょう」
「あ、俺もそうしよっと」

わたしにわがままを言わせる事を諦めたトキヤくんがため息を吐く。契約時にわたしにも、できるだけわがままを言うようにと言われていたのに、それをできない自分がとても情けなくなった。

「あ、あの、ご迷惑をおかけしてすみません」

反射的にそう頭を下げる。そうせずにはおれなかった。


「……いえ。やはり私はかおるのそういう遠慮深いところが美徳なのだと思います。ですから、謝らないでください」
「……」
「さ、頭を上げて、お茶の続きです」
「はい……」

二人に頭を下げるわたしの頭に、トキヤくんが大きな手をポンと乗せる。

わたしの心音が一際大きく高鳴ったのは、最早気のせいではないように思うが、今は気付かぬふりをしておこうと思う。





つづく

 

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