それはわたしが召し家荘の玄関ドアへ手をかけた時の事だった。
中からずいぶん聞き慣れた声が聞こえたせいか、思わずわたしはドアを開ける事を躊躇ってしまったのだった。



その声は、つい数時間前までわたしの恋人だった鳥山揚介のものだった。
つい数時間前までというのは、まさにその言葉通りの意味で、わたしと揚介は先ほど別れたばかりなのだが、本人を嫌いになって別れた訳ではないので、実は声を聞くのもやはりつらい。今も、彼がわたしの部屋に置きっぱなしだった私物をまとめて返却しにきた訳だが、彼の声が聞こえただけで、一瞬思考が停止してしまった程だ。
このドアを開けたら、否が応でも揚介と鉢合わせてしまう。会わなければいけない事は分かっているが、なかなか合わせる顔がない。
玄関先でそう悶々考えていると、中から一層悲痛な揚介の声がわたしの耳に届いた。

「師匠! 俺、ももの事、諦めらんないんだよ〜! お願いっ! 何とか取り持って〜?」
「ちょ、ちょっと落ち着こうよ鳥山くん」

彼が師匠と呼ぶその人は、この召し家荘に住む経営学科の二回生で、わたしの後輩だった。揚介とも、この後輩、米田くんを通して知り合った。米田くんはとても人が好く、だからこそわたしたちの変な痴情にあまり巻き込みたくはなかったのだが、揚介にとって米田くんは親友みたいなものだから、言わずもがな、こんな展開になってしまう事を少なからず想定はしていた。

「揚介! 米田くんに迷惑かけちゃだめでしょ!」

わたしが召し家荘に入るタイミングは、ここしかないと思い、意を決してドアを開ける。
玄関先で揉み合っていた揚介と米田くんは、思わぬ来客に一瞬驚いていたようだった。
わたしの存在を認知した揚介が涙と鼻水混じりにこちらへ飛び付いて来る。小柄とはいえ、揚介は力が強い。難なく三和土へ押し倒され、尻餅をついたわたしへ米田くんが手を差し伸べる。わたしはありがとうと一言呟くと、揚介を向こうへ押しやり、米田くんの手を握った。





召し家荘202号室。大きな食卓を挟み、わたしと揚介が向かい合って座った。揚介の隣には米田くんが座り、わたしと彼の様子を頻りに窺っている。

「ええと……。とりあえず落ち着いて事情を聞かせてくれるかな」

米田くんに背中を押され、揚介がゆっくりと口を開いた。

「聞いてよ師匠……。オレたち、なんか、別れる事になったっぽい……」
「ほんとなの……?」

落ち込んだ様子のまま揚介が簡潔に説明すると、米田くんは当事者でもあるわたしたちよりだいぶ困惑していたようだった。後輩ながら、そのオロオロした姿は守ってあげたくなるほど可愛いものがある。

「……もも、師匠に見とれてない? オレ、ヤキモチ妬いちゃうんですけど?」
「え!? ち、違うと思うよ鳥山くん! それよりももちゃん、鳥山くんと別れるって、なんで? 鳥山くんと何かあったの?」
「……」

揚介がわたしを恨めしそうに睨んでいる。だが、彼のヤキモチ妬きはいつもの事なので、自然と流した。
米田くんを巻き込んだ時から聞かれるとは思っていたが、改めてわたしたちが別れた理由を聞かれると少し困る。

「あ、あれ……? どうしたの? もしかして人には言えない……」
「い、いや! 言えるよ! 言える、けど……。ほんと、大したことない理由だよ?」
「うん。もしかしたら僕にも力になれるかもしれないし、教えてくれる?」
「……」

米田くんの人の好い笑顔に最早言い返す事もできなくなり、わたしは諦めの境地でため息を吐いた。





「ええーっ!? 鳥山くんと付き合い続けると太るから別れる!?」
「ししょー……ひどいでしょ? ももの言い分ひどすぎるっしょ?」

わたしたちの別れの理由を聞いた米田くんが呆気に取られている。更には揚介が彼の同情を誘うように目を潤ませている。なんだか多勢に無勢というような、そんな気持ちになったが、毅然とした態度で揚介を見返した。

だが、少し言い訳をするとすれば、わたしが別れたいと言った理由は、年頃の女ならばごく当然の選択なのだと言えなくもない。

揚介はとても優しくて料理も上手い。
けれど、わたしは彼と付き合うようになってから、彼女という役目の他にも新しい創作揚げ物料理の試食人としての役目をも果たすようになり、この一週間で驚異的に体重が増加してしまった。
増えた分は消費すれば良い。
だが、実際、経営学科の三回生であるわたしには運動する暇もなければ試食を断る意気地もない。揚介が笑顔で目を輝かせながらわたしのために揚げ物料理を作ってくれて、それを断るなど、なかなかわたしにはできはしなかったのだ。
結果、揚介と別れるという選択は、わたしとしても苦心の末の事だったのだ。



「オレは絶対別れないからね」
「わたしだってできることなら別れたくはないけど……でもこれ以上揚げ物食べるのは無理!」
「えーっ!? いいじゃん! 別にオレはももが太ったって気にしないけど?」
「わたしが気にするの!」
「何でだよ? オレの料理を食べてももが幸せ太りしてくれるなら、オレだって幸せだし!」
「幸せ太りって……ちょっと意味違うと思うけど……」

わたしと揚介が、別れる前に散々繰り返した会話を再び繰り返す。それを見た米田くんがすかさず仲裁に入った。

「ま、待って!」

自分を落ち着かせるためか、米田くんは目の前のお茶を一気に飲み干した。

「鳥山くんもももちゃんも、お互いを嫌いになった訳じゃないんだよね?」
「当ったり前じゃん! オレとももは運命の相手だよ! 少なくともオレは本気でそう思ってる」
「よ……揚介……」

揚介が真面目な顔をするのはとてもめずらしく、だから尚更わたしはその真剣な顔に見とれてしまう。

しかし、彼の真剣さは一分と続かないのが難点だった。

「だってさ、ももってオレの揚げ物食べる時、すげー幸せそうな顔で食べてくれるし、まぁそれに何より、体の相性めちゃくちゃイイからね、オレたち!」
「なっ!?」
「とっ! 鳥山くっ……!」

わたしの顔が熱くなるのと同時に米田くんの顔が瞬時に真っ赤になった。
さすが揚介。押し入れに卑猥な写真集を325冊も所持しているだけあり(大家のサトウさん情報)、こういう事情もオープンだ。

などと感心している場合ではない。
この空気の読めない男をどうにかしなければ、これ以上どんな事をバラされるか分かったものではない。

「あ、あんたね! 何でそういう事さらっと言っちゃうの! 恥ずかしいでしょ!」
「別に恥ずかしい事ないだろ? ももの抱き心地、サイコーだし!」
「も、もういい! やっぱり無理、わたし帰る! これ、わたしの部屋に置きっぱなしだった揚介の私物!」

このまま不毛な言い争いで、これ以上恥ずかしい事をバラされるなら長居は無用だ。広い食卓の上に揚介の私物が入った紙袋を置くと、わたしはすぐに椅子から立ち上がった。

「待ってよ!」
「はっ、離して揚介! 恥ずかしいから帰る!」

部屋から出ようとするわたしの腕を揚介が咄嗟に掴み、自分の方へ引き寄せる。

「オレ、本気でももと別れたくないんだけど」

少し掠れた声が耳を掠める。揚介の吐息が耳にかかり、くすぐったくてたまらない。

「な、なら、もうわたしを創作揚げ物料理の試食人にするの、やめてくれる?」
「あー……、それもヤダ」
「あ、あのね!」
「だってオレ、好きな子にはオレの作ったもの、食べさせたいもん」
「……っ」

別れたくないけれどわたしに揚げ物料理の試食をさせるのもやめないなど、わがままにも程がある。わたしは眉を顰め、揚介を横目で睨め上げた。見上げた揚介の表情は、既に自分のわがままを押し通す気満々で、実際それが本当になりそうなものだから、わたしはとても複雑な思いで彼を見つめていた。




「あ! いいこと思い付いた」
「え?」

しばらくわたしたちはその場で牽制し合っていたが、突然揚介が大きく頷き、破顔した。

「な、なに……? 嫌な予感しかしないんだけど」
「まぁ聞いてよもも。まずオレがこれからもももに揚げ物料理の試食をしてもらうとするじゃん?」
「……うん」
「ももは太るのが心配なんだろ? なら、その後、体を動かして気持ち良くなればいいじゃん! オレって天才!」
「……あのね、わたしは一応経営学科の三回生だよ? そんな時間……」
「あるよ?」
「へ……?」

揚介が頬を赤くして歯を見せながら笑う。
これは完全に小悪魔モードに突入している。

「だから! 揚げ物料理食べた日は、毎回激しいエッチしちゃえばいいんだよ!」
「……」
「……」
「エッチの時のカロリー消費量ってすごいらしいし、それに気持ち良くもなれるし、一石二鳥ってやつじゃん? な? 良い考えだろ?」
「……」
「……」

揚介の馬鹿な提案にますます顔を赤くした米田くんが、程なくして部屋を飛び出して行ってしまった。

これは危ない。こんな危険思考な男を野放しになどしては置けまい。



「……分かった。わたし、揚介と別れない」
「ほんと!?」
「……でも、揚げ物料理の試食させられたら、その日から一週間は揚介と寝ない」
「えっ……!?」

そんなの蛇の生殺しだよー、と叫ぶ揚介をその場に残し、わたしは米田くんへ弁解するために彼の後を追った。

結局わたしは揚介ときっぱり別れる事ができなかった。
それどころかさらに彼を増長させてしまったような気もする。

なんだかんだでわたしもまだまだ揚介に未練があるのだなと思わされた一日だった。






1/1
←|→

≪short
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -