音也が帰って来ない。
数時間前にあった彼からの電話では、今日はめずらしく撮影が早く終わり、すぐに帰ると言っていたはずなのに、あれから何時間経っても音也はこの部屋に戻ってくる気配がない。
何度か彼の携帯電話に連絡をしてみたが、電源が入っていない旨のアナウンスが流れるばかりで、結局わたしは部屋の中で一人、音也の心配をするしかなかったのだった。
「!」
不意にわたしの携帯電話が鳴った。画面を見ると、一ノ瀬トキヤの名前が液晶画面に映し出されている。ほんの少し残念な気持ちもあったが、何とかそれを押し殺し、通話ボタンを押した。
「もしもし」
すぐにそう応対すると、電話口の向こうからトキヤは藪から棒に音也が帰宅しているかと問うてきた。いつも冷静なトキヤがひどく慌てているようで、その尋常ではない様子に驚いたわたしは、すぐに音也がまだ帰宅していない旨を彼に伝えた。
それから数秒間沈黙が流れる。
「……トキヤ、音也がどうかしたの?」
『ええ。……君に話すべきか非常に迷ったのですが』
「……うん」
トキヤはひどく言いにくそうで妙に歯切れが悪く、終始何かを考えながら喋っているようだった。
『……実は』
「……」
『今日、私と音也は一緒の仕事場でした』
「ふぅん、そうだったんだ」
『それで収録が終わり、私たちが帰り支度をしていると、ある女性アイドルが音也を訪ねて楽屋までやって来ました』
「……うん」
音也は彼自身がアイドルなせいもあり、数々の女性アイドルとも共演する事がある。わたし自身もアイドルだったらと考えた事もあったが、容姿が容姿だからそれは仕方ないと諦めている。それにわたしは曲を作る事が好きだから、現状に不満がある訳でもない。
音也が女性アイドルと共演する、それ自体は仕方がないと頭の中では整理がついているはずなのに、トキヤの歯切れの悪さに胸騒ぎばかりが先行していく。わたしは何となくその胸騒ぎの理由が分かるような気がしていた。
『その女性アイドルは収録中ちょっとした失敗をしてひどく落ち込んでいたのですが、彼女は収録後わざわざ私たちの楽屋へ来て、音也に慰めて欲しいと……』
「……」
『彼女は最初から音也を狙っていたようです。音也はああいう性格ですから、落ち込んだ彼女を無下に扱う事ができず、彼女に圧されるまま、二人で楽屋から出て行きました。……とっくに彼女を送って君の所へ戻っていると思っていたのですが……まだ戻っていないなんて』
「……」
『……』
「……」
『……だから私はももと音也が同棲を始めると言った時、あれだけ反対したのです』
トキヤの言葉に、わたしは返す言葉が見つからなかった。
そういえばわたしと音也が付き合いを始める時も、同棲を始めると報告した時も、トキヤには酷く反対されたような気がする。
音也はとても優しい。けれど、その優しさは万人に向けられているものであり、恋人になったからといって、それがわたしへ最優先に向けられる訳ではない。自分ではそう理解していたつもりだった。
しかし、いざ本当にそうなると理性通りにはいかないもので、音也に他者を優先される度、わたしは日々その鬱憤を心の中に溜め込む事になるのだった。
きっとトキヤはそうなる事を見越してわたしと音也の同棲を反対していたのだと思う。音也の分け隔てない優しさに、いつかわたしが我慢できなくなると解っていたのだ。
あの時わたしたちはトキヤの忠告を考え過ぎだと一笑したけれど、今思えば、それは考え過ぎでもなんでもなかったのかもしれない。
『音也は確かに私とは違い、誰にでも優しい。けれど、恋人であるあなたを差し置いて、ただの他人でもある彼女とこんな時間になるまで一緒にいる。……先ほど楽屋で音也があなたに電話をしているのを聞きました。今晩音也はあなたと約束をしていたのでしょう? 良いのですか? これで』
「……」
『……』
「……」
『……すみません、少々立ち入った事を言い過ぎたみたいですね』
わたしが無言になってしまった事に気付き、トキヤはその後すぐに謝罪し、失礼しますと言って電話を切った。
通話が終わってもわたしは携帯電話を握ったまま、しばらくそこから動く事ができなかった。
結局音也が帰宅したのは朝方だった。
いつの間にかソファの真ん中で眠っていたわたしに突然抱きついてきた音也のせいで目が覚め、更にその衝撃で、気付けばわたしの体はまんまと彼の下敷きになっていた。
わたしと目が会うと、音也は爽やかにおはよう、などと挨拶をする。人の気も知らないで、という思いで彼を睨め上げたが、音也はそんなわたしの心中など微塵も察してはくれなかった。
「……音也、何してたの今まで」
嫉妬で彼を感情のままに詰りたい気持ちを抑え、平静を装う。音也はわたしの詰問に全く悪びれる様子もなく、昨晩の事情を話し出した。それは弁解などではなく、ただの報告のようなもので、自分でも何ひとつ悪い事をしていないと確信を持っているような話しぶりだった。
「ごめんねもも。実はさ、昨日の収録で共演したちーちゃんが収録中大失敗してすーっごく落ち込んじゃってさー。俺、今まで慰めてたんだ!」
「……」
それはまるで良いことをして来たから誉めてくれと言わんばかりの笑顔で、それが尚更わたしから怒気を吸い取った。
「……はぁ」
「どうしたのもも? ため息? だめだよ幸せ逃げちゃうよ?」
「……うん」
「ね、偉い? 俺、芸能界での人間関係がこじれないように、ちゃんとみんなに優しくしてるよ?」
「そ、そう、だね……」
無邪気な笑顔でわたしにまとわり付く音也は、わたしのため息の理由にすら気付いていないようで、何だか無性に何もかもがどうでも良くなった。
わたしは再度諦めのため息を吐き、わたしにのし掛かる音也の髪の毛を撫で、偉いねと労いの言葉をかけた。
二人でソファに並んで座り、暖かいミルクを飲む。
隣に座る音也はずいぶん晴れやかな表情をしていたが、やはりわたしの気持ちはそれとは逆で、なんだか妙に釈然としない。
「……音也」
「ん、何?」
「昨日、そのちーちゃんと寝たの?」
「ううん、ベッドの横で寝るまで付き添ってただけ」
「……」
「だってちーちゃん、どうしても一人じゃ眠れないって言うから、俺、断れなくて」
「へー」
わたしはそう返すだけで精一杯だった。
確かに音也は優しいから、寂しいと言われたら誰彼関係なく一晩中一緒に過ごしてあげる事だろう。これは彼なりの優しさでもあり、芸能界での人間関係を友好に保つための彼の努力でもあるのだ。そう考えると、わたしは後先考えずに彼を詰る事ができなかった。
「……あ、大丈夫、エッチはしてないから!」
「……ふーん」
「ほんとだよ? だって俺、ももでしか立たないし!」
「ちょっ……は、恥ずかしいからそんな笑顔でそういう事言わないで!」
「えー、なんで? だって本当の事じゃん。俺の恋愛対象はももだけだよ」
「わ、分かったからそんなにくっつかないで」
ソファの上でじゃれつく音也は、さらにわたしとの距離を詰め、お互いの鼻先がくっついてしまいそうな所まで顔を近付けた。
「ほんとは昨日すぐにでも帰って来たかったんだけど……」
ごめんね、と言いながら音也がわたしに口付ける。彼の性格上嘘は言っていないのは明らかだし、実際わたしのどうにもならない感情も今のキスひとつでずいぶん落ち着いたし、自分でも相当現金だと呆れてしまう。やはりわたしは音也が好きでたまらないのだ。
「でもさ、昨日はさすがにまずかったかなぁ……」
「え……?」
朝食の支度をするためにソファから腰を上げた瞬間、音也が小さな声でそう呟いた。何気なく言った事だろうが、音也のめずらしく落ち込んだような顔に、尋常ではない様子が伺える。何か落ち込むような事でもあったのだろうか。
わたしは上げたばかりの腰をソファへ戻し、音也の隣に座って彼の話の続きを待った。
「……だってさ、俺はももに会いたい気持ちを抑えて、ちーちゃんが眠るまでベッドの横に居てあげようと思ってたんだよ? なのにちーちゃん、俺の気持ちを無視していきなりそれ以上の事、しようとするんだもん」
「え……? そ、それ以上?」
一瞬身体中の血液が逆流したような感覚に陥る。音也がそんな事をするはずなんてないけれど、彼の口から直接そういう事を聞くと驚かずにはいられない。音也はそれを察したのか、わたしの頭をその大きな手で撫で、耳元で大丈夫、と囁いた。
「だから俺、つい……君じゃ立たないから無理って言っちゃった」
「ええっ!?」
それは女の子に対して言ってはいけない事ではないのかという思いと、けれどちょっと嬉しいかも、などという複雑な思いが頭の中で交錯する。
「仕方ないじゃん、本当の事だし!」
「で、でも……」
「それに! 俺が無理してでももも以外の子とエッチしたら、それは浮気になっちゃうでしょ?」
「え……? う、うん」
わたしは誰にでも優しい博愛主義のような音也にも、浮気という概念と線引きがある事に驚いた。若干失礼かもしれないが、今まで何度も昨晩のような事をされているので、わたしははっきりと音也の気持ちを理解できずにいたのかもしれない。
「ね、久しぶりに今日はオフだし、一日中好きなだけエッチしよーよ!」
「えっ!?」
「いいじゃん! 俺、昨日は寂しかったんだからさー」
「ひゃっ!」
良いとも悪いとも言わぬ間に、音也はわたしをソファへ押し倒し、上着とシャツを脱ぎ捨てた。
「……」
「……おと、や?」
いつもならわたしがどんなに抵抗しても結局強引に行為に及ぶ音也が急に大人しくなり、自分の体の匂いをクンクンと嗅ぎだす。そして怪訝そうにそれを見上げているわたしに対し、苦笑しながらごめんごめんと謝罪した。
「どうしたの?」
「ん、俺、ちょっとくさくない?」
「え? そ、そんなことないよ」
「ほんと? 俺、時間なくて昨日シャワーも浴びてないよ?」
「うん、大丈夫。それにちょっとくらい音也の匂いがした方が、安心する」
「……」
「……」
「……」
「……あれ? 音也?」
「やばい、もも可愛すぎ! 俺、今日は10回以上目標!」
「は、はぁああ!?」
良く分からないけれど、わたしはどうやら音也の何かに火を付けてしまったようだ。
けど、こんなに愛されているなんて幸せだなぁ、なんて思ってしまうのは、わたしも相当この関係に病んでしまっているからなのかもしれない。
心配してくれるトキヤには申し訳ないが、わたしはやはり、優しい音也が好きなのだ。
終
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