「あ、雪……?」
「いえ、これは風花ですね」

風花。晴天の下、空に舞う雪の事をそう言うのだと以前耳にした事がある。
しかし実際目にするのは初めてで、誠士郎さんにそう教えてもらわなければ、それが風花だということには気付かなかったと思う。

隣からくすりという微かな笑い声が聞こえた。
ああ、また私は誠士郎さんに呆れられてしまうのだろうかと肩を落とす。きっと、こんな事も分からないなんて、可哀相な頭ですね、とか何とか言われるのだろう。

誠士郎さんは意地悪だ。

知り合って間もなく彼の本当の顔を知った私は、ひどく戸惑った。今となってはもう慣れっこだが、改めて振り返ってみても、私が誠士郎さんと恋人同士になれたのは奇跡に近い事だと思う。


「考え事ですか? 私と一緒だというのに……。よそ見は許しませんよ?」
「す、すみませ…ん…っ」

風に煽られ、さらさらとなびく誠士郎さんの髪の毛が、私の頬を掠めた。
かと思うとすぐに唇を奪われる。彼といるときは、一寸足りとも油断できない。

「と、突然こういう事するの、やめてください」

熱くなった顔を手で隠し、誠士郎さんにそう文句を言うが、彼は全く動じていない。それどころかこの状況を楽しんでいるかのように口の端を上げて笑う。

「どの口が言いました? 私に口答えするなど、まだまだ躾が行き届いていない証拠ですね」
「し、躾……?」

何だか言いたいように言われている気がするが、誠士郎さんの醸す雰囲気にはなぜだか逆らう事ができない。
それでもじっと誠士郎さんを見上げる事が精一杯で、しかしその抵抗すらも、突然開かれた彼の瞳によって力を失う。

「そう固くならずとも良いですよ。私がしっかりとももさんを躾て差し上げますから。これからじっくりと、ね」
「う……」

悔しいが、そうはっきり言い切る誠士郎さんに、私はもう反論する術さえなくしていた。情けない呻き声が口から漏れ、恥ずかしくなる。


「ふふ、すみません。やはりあなたの顔を見ていると、ついいじめたくなってしまうのです。許してください」
「も、もう……」
「さぁ、この美しい景色を楽しみながら歩きましょう」

ふわふわと舞う風花の勢いが弱まって行く。
誠士郎さんは風になびく自分の髪の毛もそのままに、私の肩へ手を回し、力を込めて抱き寄せた。


もうすぐ冬が終わる。

少し感傷的になる私を、誠士郎さんが優しく包みこむ。彼が着物に薫きしめた香が風に乗り、周囲へ拡散して行く。


「ずいぶん歩かせてしまいましたね。目的地の会場はもうすぐです」
「あ、あの。私、狂言なんて見た事がなくて、作法とか分からないんですが……」

そういえば忘れていたが、私は今、誠士郎さんに連れられて、能狂言の行われる会場へと向かっているのだった。
しかし私は今までそういった類のものを一度も見た事がない。服装も一応自分の持っている着物の中で、一番良いものを着てきたが、基本的な事すら分からないので、やはり不安は拭い切れない。

「大丈夫ですよももさん」
「え……」
「そう緊張しないでください。もし、あなたが間抜け面を曝して眠ってしまったとしても、私はあなたを嫌いになどなりませんから」
「せ、誠士郎さん……」

めずらしく裏のない笑顔を見せる誠士郎さんに思わず見とれてしまう。


「あ。でも、嫌いにはなりませんが、本当に私の隣で寝たりしたら、呆れますからね? ふふ」
「うっ……」

やはり最後まで誠士郎さんのペースに乗せられてしまうのだろうか。私の口からは呻き声以外のものは出てこなかった。

「ももさん、どうしました? 顔色が悪いようですが」
「い、いえ、眠らないように頑張ります……」
「はい、良くできました」

ぽすんと頭上に乗せられた誠士郎さんの手がくすぐったい。
私は少し肩をすくめ、その手に触れた。

「公演が終わったら、私のお茶をごちそうして差し上げますよ」
「お茶、ですか?」
「はい。とびきり美味しいお茶を立てて差し上げます」
「……」

思ってもいなかった優しい言葉に、私は誠士郎さんを見上げ、ありがとうございますと言って笑う。
誠士郎さんは、現金な人ですね、と言って微笑んでいたが、その笑顔はすでに少し呆れていたようだった。


風花はいつの間にか空から消えていた。



おわり

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