「ただいま戻りました」
「……大丈夫?」

おかえりだとか会いたかっただとか、そんな恋人らしい事を言う前に思わずわたしがそう尋ねてしまったのは、寮へ帰ってきたトキヤがずいぶん疲れた顔をしていたからだった。

いつも見慣れた眉間の皺も、今日はいつもより一層深く刻まれているような気がする。それに何より、玄関先でトキヤが無防備に座り込んでしまうなんてよほどの事だと思った。

「大丈夫です。近頃まともに休息が取れなかったので、少し疲れているだけです」
「……」

トキヤ本人が大丈夫だとは言うものの、わたしの目には全くそうは見えなかった。少しやつれてはいないだろうか。いくら仕事とはいえ、トキヤは頑張りすぎだ。いつも自分の持っている以上の力を出そうとするから、こうなる事など以前から目に見えてはいたが、わたしにはそれを止める事などできないし、そんな権利だってない。
帰って来てからずっと疲れた背中をわたしに向け、未だ動こうとしないトキヤがとてつもなく心配になり、気付けばわたしはその大きな背中へ抱きついていたのだった。


「なっ、どうしたんですか急に……」
「トキヤ、お疲れ様……」
「もも」

トキヤの首に回したわたしの手が、彼に強く握られる。相変わらず体温の低いトキヤの手は、わたしの手よりも大分冷たかった。

「わたしはトキヤの彼女なんだから、わたしの前ではもっと弱音を吐いてもいいし、もっともっとわたしを頼ってくれてもいいんだよ」
「……」
「……トキヤ?」

わたしの手を掴む彼の手に力が込められた。
ふと首を傾げトキヤの名を呼ぶと、彼はこちらを振り向き、そしてとても意味深そうに口の端を上げて笑っていた。弱っている彼を放っておけなくて思わず言ってしまった事だったが、自分の発した言葉に後悔したのはもうこれで何度目だろうか。


「それではもものお言葉に甘えて、お願いします」
「え……、な、何を?」
「もちろん、何もかもをです。私は今、自分では何もしたくない程疲れているのです」

トキヤが疲れている事など帰って来た瞬間から分かっていた事だったが、だからといってわたしが彼にしてあげられる事などあまり無いような気がする。
わたしは改めて彼に問うてみた。

「あ、あのさ、お願いしますっていっても、具体的にわたしは何をすればいいの?」
「そうですね。まずは私の靴と上着を脱がせてください」
「……」
「次に汗を流したいのでバスルームまで私を連れて行ってもらいます。そこで私の服を脱がせ、ももにも一緒にシャワーを浴びてもらいます。もちろん私の背中を流す事も忘れないでくださいね。その後はももの手料理が食べたいので夕飯の支度をお願いします。それから……」
「え、あ、ちょっと待って! まだあるの!?」
「当然です。そもそもももが言ったんじゃないですか。もっと自分を頼って欲しいと」
「……」
「……」
「……分かった」

わたしの諦めとも取れる返事を聞いたトキヤは、僅かに表情を緩め、玄関先にも関わらずその場へ四肢を投げ出した。


「えっと、まずは靴だよね」

トキヤの前に屈み込み、彼の靴を脱がせる。彼の前に跪くわたしを見たトキヤは、とても満足そうに笑っていた。わたしはそれを見ないふりで躱し、脱がせた靴をシューズクロークへと仕舞い込む。

「ありがとう、もも」
「ど、どういたしまして」
「次はシャワーですね」
「えっ……」
「さ、行きますよ」
「あっ! ちょっ!」

部屋へ上がったトキヤがわたしの手を掴み、強引にバスルームへと歩を進める。いつもならあまり手など繋がないトキヤがわたしの手を掴んだのは、おそらくわたしが逃げ出さぬよう警戒しているからだろう。


「ト、トキヤさんトキヤさん」
「何ですか。その気持ち悪い呼び方は」
「あの、何だかトキヤってば元気になってきたみたいだし、わたしに頼らずとも一人で大丈夫なんじゃないでしょうか……?」

なんとかトキヤに解放してもらおうと、遠回しにそう言ってみたが、彼がわたしの手を離す様子は微塵も見受けられなかった。

「何を言っているのですか。私は疲れています。君には分からないかもしれませんが、相当疲れているのです。連日続いたバラエティ番組の収録では少々体を張ったりもしましたし、もうボロボロなのです。少しでも気を抜けば倒れてしまうかもしれません。ももはそんな私をこの場へ冷たく放り出すと言うのですか?」
「う……」

そんな風に言われれば、わたしはトキヤを放っておく事などできないのだから、そういう言い方は少々卑怯だ。
何とも言い難い複雑な表情でトキヤを見上げると、彼はとても自信満々な笑みを浮かべ、わたしを見下ろしていた。この表情は、既にわたしが彼の言う事を断れないのを知っている表情だ。ちょっと、いや、大分悔しい。




「さ、早く私の服を脱がせてください」
「……わ、分かったからそんなに急かさないでよ」

脱衣所へ入ってすぐに遠慮なくトキヤがそう言った。トキヤは先ほど玄関でしたように自分では何もせず、わたしが行動に移すのを待っているようだった。見られれば見られる程恥ずかしくてたまらなくなる。

トキヤとわたしはれっきとした恋人同士だが、それでもこういう事をするのには、それなりの心構えというものが必要なのだ。


「どうしたのです? 私は早く汗を流したいのですが」
「……トキヤ、わざと急かしてるでしょ」
「ふ、まさか」

明らかにわたしをからかっているような口振りで笑うトキヤに、わたしは自然と眉間に皺を寄せていく。トキヤはそれを見てとても楽しそうに顔を綻ばせた。最近トキヤは妙に加虐的になってきたような気がするのだが、それは決して気のせいなどではないと思った。

しばらく睨み合っていたのだが――睨んでいたのはわたしだけだけれど――わたしはとうとう諦めて彼のワイシャツのボタンに手をかけた。

トキヤの裸体など初めて見る訳でもないのに、なぜだか妙にドキドキする。よくよく考えてみれば、わたしがトキヤを脱がせるなんてシチュエーションは今までに一度だって無かったのだから、わたしが必要以上に緊張しているのは仕方のない事のように思う。
ワイシャツとインナーをトキヤから脱がせると、程よく筋肉の付いた上半身が露になった。それはなかなか直視できない程引き締まっていて、わたしはこの身体に毎晩抱かれて眠っているのかと思うと、たまらなく恥ずかしくなった。

「何を今さら照れているのです? まったくあなたという人は」

トキヤが呆れたようにそう吐き捨てる。
わたしは思わず顔を顰め、トキヤを見上げた。

「し、仕方ないでしょ! 恥ずかしいものは恥ずかしいんだから」
「毎晩ベッドの中で私に抱かれて幸せそうに眠っているのは何処の誰です?」
「うっ……」

思わず図星を刺され、言葉に詰まってしまい俯く。トキヤは本当に意地悪だ。

「はは……、本当にももは可愛い反応しかしませんね、面白い」
「女の子に面白いだなんて言うな!」
「はいはい、それは失礼」
「っ! もう知らない! お風呂で滑って転んで気絶しろ!」
「そういう雑言はいただけませんね。私は悪い子は嫌いですよ?」
「えっ……ん、っ」

わたしが反論してもからかう事を止めなかったトキヤが、あっという間にその胸へわたしを抱き寄せ、唇を塞いだ。わたしの唇に重なるトキヤのそれは、いつもより少しだけ乾燥しており、彼が本当に疲れていたのだということを証明していた。


「もものおかげで何だかとても元気になってきました」
「え?」
「もちろん心情的にも、下半身的にも」
「っ!!」

トキヤの妙な言い回しにそこを見ると、確かに彼の言ったその通りで、わたしはすぐに後ろを向いて視線を外した。

「ば、ばかっ! トキヤの変態!」
「心外ですね。私は馬鹿でも変態でもありません。ただ、自分に正直なだけです」
「し、知らない! わたし、ご飯の支度してるからあとは自分でやって!」

これ以上この場に居る事ができないくらい恥ずかしくなり、わたしはそう言い捨てると即座に脱衣所を飛び出した。

後ろからトキヤの笑い声が聞こえたような気がしたが、わたしはそれを無視して歩いた。

意地悪でわがままでイヤラシイ事ばかりを言ってわたしを困らせるのが楽しいトキヤは本当に本当にどうしようもない。
しかしわたしはそのどうしようもないトキヤがどうしようもなく好きで、ああ、これはきっと似た者同士なのだなと心の中で諦めにも似たため息を吐くのだった。




おわり
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秋川様リクエストありがとうございました!
 
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