「ぶーっ!」

わたしは今日、生まれて初めて男の人の前で飲み物を噴き出してしまった。

「なっ、何をしているのですか、君は!」

わたしにその飲み物を用意してくれた張本人でもある一ノ瀬さんがその惨状に驚き、すぐにベッドの上にあったタオルでわたしの口元を拭いた。
まさかこんなイケメンに自分の吐瀉物の後始末をさせてしまうとは、恥ずかしいやら気まずいやらで、わたしはもうどうしたら良いのか全く分からないまま立ち尽くすばかりだった。


そもそもわたしがこんな恥態を曝してしまった原因は、目の前の一ノ瀬さんにある、と言っても過言ではない。

一ノ瀬さんと寮で同室の一十木音也くんは、私と同じAクラスで、更には音楽試験のパートナーでもある。そんな彼に今度の試験のための資料を頼まれ、すぐに届けに来たのだが、どうやら音也くんは留守だったようで、一ノ瀬さんが部屋の入り口で応対してくれた。
また来ますと言い残して帰ろうとすると、一ノ瀬さんがちょっと待ってくださいと言い、わたしを部屋へ招き入れた。良く聞けば、音也くんはすぐに戻って来るらしいとの事で、中で待つよう勧められた。わたしは一ノ瀬さんの好意に甘え、部屋の端で待たせてもらう事にしたのだが、彼のあまりの優しさに内心とても驚いていた。端から見るのと実際会って話すのとでは、印象がずいぶん違う。



「あの、そんな端に居なくとも、音也の椅子に座ったらどうですか」
「え……? あ、大丈夫です」

部屋の隅で佇んでいるわたしに一ノ瀬さんが椅子を勧めてくれたものの、他人の椅子へ勝手に座る訳にもいかず、わたしは大丈夫ですと言って無理矢理彼に愛想笑いを返した。

その後一ノ瀬さんはそんなわたしを不憫に思ったのか、キッチンから何か飲み物を用意してきてくれた。自分の分とは別にマグカップに入ったそれをわたしに寄越す。わたしはありがとうございますとお礼を言い、そのマグカップを受け取った。中には緑色の良く分からない液体が並々と注がれていた。わたしはすぐにそれを飲もうと試みるが、中の液体はまるで得体の知れない生命体か何かのようで、なかなか踏ん切りがつかない。ふと一ノ瀬さんを見ると、彼は顔色ひとつ変えずにそれを飲んでいた。おそらくこれは野菜ジュースか何かなのだろう。

そう思い込んだのが間違いだったのだ。


一ノ瀬さんに釣られ、わたしもそれを口の中に流し込む。しかし口にその液体を流し込んだ瞬間、それが見事に逆流し、わたしは一ノ瀬さんに向かって口の中のものを全て噴射してしまったのだった。


「ごほっ、げほっ、な、なに、これ……」

わたしの飲んだそれは明らかに人間の飲み物ではなかった。苦いやら変な匂いがするやらネバネバしてるやら、口に入れた瞬間の不快感は的確に言い表す事などできそうもない。

「失礼な。れっきとした青汁です」
「……」

一ノ瀬さんはタオルでわたしの口元を拭うと、今度は眉を顰めながら自分の顔中に飛び散った青汁を拭った。

「……一ノ瀬さんの美しい顔を汚してしまった事は謝りますが……なんで青汁なんか……」
「何を言っているのです。もてなしの基本じゃないですか。私は君の健康を慮って特製の青汁を出したのです。それなのになんですか? 君は私のもてなしにケチを付ける気ですか?」
「い、いえ、そういう訳でなく……」

なぜ初対面に近い相手に青汁をチョイスしたのかが本当に謎で、もしかしたら一ノ瀬さんは音也くん以上に天然なのかもしれないと思うと、わたしは何だか何もかもがどうでも良くなってしまったような気がした。


「と、とにかくごめんなさい! わたし、拭きます!」
「え……、け、結構です!」
「いいえ! そういう訳にいきませんから!」

わたしはとにかく一ノ瀬さんにお詫びせねばと思い、彼からタオルを奪い取ると上着にまで飛び散った汚れをごしごしと拭いた。
彼の上着に付いた汚れを拭くと言うことは、必然的に一ノ瀬さんの体に触れるということで、普段ならば絶対に意識してしまう所だが、ここは恥ずかしがっている場合ではない。しっかりと謝罪の意を込めて綺麗にしなければと、わたしは懸命に彼の上着を擦った。


「……っ、も、もう結構ですから」
「いえ、ズボンの方も汚れちゃいましたし、そっちも拭かせてください!」

上着が終わり、今度はズボンに飛び散った青汁を拭き始めた。高さ的に立っている一ノ瀬さんの前にわたしが跪き、ごしごしと汚れを拭う。

「ちょ、ちょっと、やめてください……そこは!」
「今、すぐ取れますから!」
「そ、そういう問題では……」

一ノ瀬さんの声がだんだんと苦しそうなものへと変わって行く。一体どうした事だろうか。
しかし遠慮深い一ノ瀬さんには少々強引に事を為した方が良い。わたしは彼が止めるのも聞かず、一ノ瀬さんの下腹部あたりを一生懸命に拭き続けた。




「たっだいま〜!」

不意にドアが開き、わたしの待ち人、音也くんが元気良く顔を出した。わたしは一ノ瀬さんの陰からひょこっと顔を出し、音也くんにおかえりと返すと、音也くんは驚いたように目を見開き、大きな声で悲鳴を上げた。

「なっ、何してんだよ、もも、トキヤに……っ!」
「え? あ、これね、実は」
「トキヤもトキヤだよっ! ももは俺のパートナーだよ!? なのに! なのに一人で舐めてもらってるなんて!」
「……舐めて?」
「お、音也!? ばばば馬鹿な事を言わないでください!」

なぜか妙に焦っている一ノ瀬さんに激昂する音也くんが近付いてくる。
わたしは首を傾げながら立ち上がり、持っていたタオルをテーブルに置いた。

「音也くん、どうしたの?」
「どうしたも何もないよ! 俺がいないうちに二人でイイコトして〜!」
「い、いいこと……?」
「音也、お願いですから少し黙ってください」
「黙ってなんてらんないよっ! トキヤ、ここ、こんなに大きくして……! ももにいっぱい気持ち良くしてもらったんでしょ? ずるいよ!」
「っ!」

音也くんが泣きそうな顔で駄々をこね、そして一ノ瀬さんの下腹部を指差した。
わたしがそこを見る前に一ノ瀬さんが後ろを向いてしまったので確認はできなかったが、もしやわたしは彼にとんでもないことをしてしまったのだろうか。

「あ……あの、一ノ瀬さん……。重ね重ねごめんなさい……」
「も、もういいですからっ! 君は音也に資料を渡したら、早く帰ってください!」
「は、はい!」

未だ拗ねたふうに口を尖らせている音也くんに持ってきた資料を押し付け、わたしは急いで彼らの部屋を出た。

ああ、失態だ。
重ね重ねの失態だ。

明日わたしはまた彼らの部屋を訪ねなければならない。しっかりと菓子折を持って、一ノ瀬さんへ謝罪しに来なければ。




おわり



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