センチメンタルロマンス?
今日の朝食は真斗くんが作ってくれた和食だった。
朝、目を覚ますとお味噌汁の香りが鼻を掠め、更には割烹着姿の真斗くんが目の前で微笑んでいたので、わたしは一瞬まだ夢を見ているのではないかという錯覚すら覚えた程だった。
徐々に目が冴え、目の前に居るのが本物の真斗くんだと確信すると、わたしは驚いて布団を頭の上までかぶった。真斗くんは静かに笑い声を立て、布団の上からわたしの頭をポンポンと撫でるとおはようと言ってすぐにキッチンへ戻って行った。
真斗くんに寝顔を見られた恥ずかしさと彼の優しい笑顔がしばらく頭から離れず、わたしは朝の支度が終わるまで、何も考える事ができなかった。
「おはようございます」
「あ、一ノ瀬さんおはよう」
わたしの支度が終わると、すぐに一ノ瀬さんがリビングに入ってくる。いつもながら完璧なタイミングで、わたしが着替えをしている間、一ノ瀬さんは決してリビングに顔を出す事はない。真斗くんも当初の約束通り、わたしの支度が終わるまで、キッチンからこちらを振り返る事はなかった。
三人揃っていただきますと言い、朝御飯を食べる。一ノ瀬さんが言うには、より良い共同生活を送るためには朝食を揃って取る事が大事なのだそうで、余程の事がない限りわたしたちは揃って朝食を取る事にしている。一ノ瀬さんも真斗くんも、どんなに遅く帰って来ても、必ず次の日の朝御飯には顔を出す。二人ともそういう生真面目な所は本当にそっくりなのだなと思う。
「ところで聖川さん、どうしたのです。先程から顔色が悪いようですが……。トイレでも我慢しているのですか。いくらアイドルと謂えども、トイレを我慢してはいけませんよ」
丁度ご飯を食べ終えたところで一ノ瀬さんがそう言って箸を置いた。その一言でわたしも真斗くんに視線を移し、彼の様子を伺い見る。確かに一ノ瀬さんの言う通り、真斗くんは顔を蒼くして俯いていた。
「ま、真斗くん、アイドルだってトイレに行くんだよ!? 気にしないで行かなきゃ!」
思わずわたしは一ノ瀬さんの言う通り真斗くんがトイレでも我慢しているものと思い込み、テーブルから身を乗り出してそう叫ぶ。しかし真斗くんは困ったように笑い、それを違うと否定した。
「ち、違うの? なら良かったけど……、でも真斗くん、本当に調子が悪そうだけどどうしたの?」
「ああ。実は……」
少し間を置き、真斗くんが答える。
「……俺は今日、帰れないかもしれぬのだ」
「え……?」
「そうですか。聖川さんも隅に置けませんね。分かりました、ごゆっくり楽しんで来てください」
「えっ……ええっ!? 真斗くん、そういう用事! わ、分かった……うん、ごゆっくり」
「違うぞさくら! 一ノ瀬、邪推はするな。俺が帰れないのはもちろん仕事で、だ! 日帰りできない所へロケに行かねばならんのだ」
真斗くんが慌ててわたしと一ノ瀬さんに弁解する。真斗くんの慌てた姿などあまり見る事がないのでちょっと新鮮な気がした。
「でもどうしてそんな顔してるの? 忙しいのはいい事じゃない。それとも、帰れないといけない理由でもあるの?」
「何を言っている。理由など一つしかない。さくら、お前が心配だからに決まっているだろう」
「え……」
「だから俺が居ない間、さくらが一ノ瀬にどうにかされるのではないかと心配でだな」
「人聞きの悪い事を言わないでいただきたいですね。そもそも私はさくらが欲しかったら、貴方に遠慮などせず、堂々とさくらを襲います」
「なっ! 堂々とそんなこと言わないでよ!」
「そ、そうだ! まったく、破廉恥な事を堂々と!」
一ノ瀬さんが顔色も変えずに真斗くんに食いかかる。しかしわたしを巻き込むような冗談を言うのはやめてほしい。一ノ瀬さんがわたしを欲しいと思う事なんて、あるのだろうか。一ノ瀬さんの考えている事はよく分からないので何とも言えない。そもそも真斗くんに冗談など通じる訳がないというのに、一ノ瀬さんは確信犯的に冗談を言う。その冗談に真斗くんもヒートアップしてきたようで、わたしとしては知らぬ存ぜぬを貫き通したいところだが、二人の言い合いが目の前で行われているものだから、決して他人事でもいられない。
「だいたい抜け駆け禁止と言ったのは、元々一ノ瀬の方ではないか! 俺がいない間、抜け駆けする事は絶対に許さんぞ!」
「ええ、確かに私は先日抜け駆け禁止と言いましたが、先にそれを破ったのは聖川さんの方ですよ。だからもう休戦協定は終わりです。これからは私も本気でいかせていただきます」
「なっ……なんだと……」
二人の間に沈黙が流れる。
なんだかこの場の空気が重い。気まずくて一ノ瀬さんとも真斗くんとも目を合わせる事ができないのだ。なんとか今ここで話題を変えないと、本当に収拾がつかなくなってしまうような気がする。
「え、ええと、ま、真斗くん! 真斗くんは今日何時に出るの? わたしも今日は新曲の打ち合わせに行かないといけないし……良かったら一緒に出ようよ!」
「あ、ああ、そうだな。俺はあと少ししたら出るが、さくらは?」
「じゃあわたしも真斗くんと一緒に。一ノ瀬さんの今日の予定は?」
「ええと、私は……」
なんとか話題の方向転換は成功したようだ。一ノ瀬さんがパラパラとスケジュール帳を開き、今日のスケジュールを確認している姿を見て、わたしは内心ホッとしていた。
結局わたしと真斗くんは一ノ瀬さんを残して部屋を出た。一ノ瀬さんはもう少し時間があるので、シャワーを浴びてから出かけると言っていた。帰りもそれほど遅くないらしい。という事は、今夜は一ノ瀬さんと二人きりか。別に一ノ瀬さんは悪い人でないのは重々承知だが、なぜだかわたしの胸中は、少しずつ不安でいっぱいになってきてしまったのだった。
今日の打ち合わせは何の問題もなく、スケジュール通りの時刻に終了した。おかげでこれからしばらくは部屋で作曲活動に打ち込める。
見慣れた帰り道を早足で歩き、弾む心を抑えつつ、わたしは見慣れた建物へと足を踏み入れた。
「ただいま」
部屋の鍵を開けて玄関に入ると、中は今朝とは打って変わって静まり返っていた。壁際にある電気のスイッチを手探りで押す。
どうやらまだ一ノ瀬さんは帰っていないようだ。
幸いわたしは外で夕食も済ませて来たし、急ぎの用もない。それならば一ノ瀬さんが帰って来る前にお風呂へ入ってしまった方がいいかもしれない。そう思ったわたしは、素早く下着とバスタオルを持ち、バスルームへ向かった。
この部屋で共同生活を送るようになってから、わたしたちは共同のシャンプーやボディソープを使うようになった。一ノ瀬さんや真斗くんと同じ香りなんて、ちょっと気恥ずかしいが仕方ない。みんなで決めたルールだから、しっかり守らないとと思う。
髪の毛と体を洗い、その後しばらく湯船に浸かった。今日は体が温まる入浴剤を入れたので、お風呂から出ても体は温まったままだった。
そしてわたしが脱衣所で体を拭いている時の事だった。
ふとリビングのドアの開く音が聞こえた。
一ノ瀬さんが帰って来たのだろうか。それにしてはただいまの一言もない。
「おかしいな……」
一ノ瀬さんは帰って来たら必ず、わたしと真斗くんにただいまと言うのだ。一ノ瀬さん自身が、それが礼儀なのだと言っていたのだから、先ほどの音が一ノ瀬さんだとしたら挨拶がないのはやはりおかしい。
「……一ノ瀬さん?」
とりあえず体にバスタオルを巻いたまま脱衣所のドアを開け、わたしはリビングへ向かったのだった。
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