「さくら、柏餅ができたぞ」
真斗くんがそう言ってテーブルへ差し出したのは、とてもおいしそうな柏餅だった。
今日は五月五日、俗に言うこどもの日で、めずらしくわたしたち三人は揃って仕事がオフだった。
外は呆れるくらいに良く晴れており、こういう日は思わず三人連れ立って外へ出かけたくなる。しかしわたしたちのオフが久しぶりに重なった今日、部屋でのんびり過ごすのも良いのではないかという真斗くんの提案により、結局わたしたちはどこへも行かず、この部屋でのんびりと休日を過ごしている。
「柏餅ですか。そういえば今日は端午の節句、こどもの日でしたね」
トキヤが柏餅を見つめ、考え込むようにそう言った。一体何を考えているのか、その横顔はどことなく憂いを帯びて美しい。自分の子供の頃でも思い出しているのだろうか。まるで目の前のトキヤがいつもの彼ではないような気がして、わたしは思わずその姿に見惚れてしまった。
「あ……そういえば社長の趣味で、この寮の屋上にも大きな鯉のぼりが飾ってあるみたいだけど……見に行く?」
「行きません」
トキヤがその提案をばっさりと切り捨て、わたしの隣に腰を下ろす。
いつの間にか顔色はいつものトキヤに戻っており、わざとらしくわたしに顔を近付けて柏餅を食べる姿も妙にいやらしく感じた。
「ちょ、ちょっとトキヤ、顔がエロい……」
トキヤがわたしの文句に口の端を上げて笑い、艶かしく唇を舐める。わざわざわたしの目の前でこんな表情をするなんて、欲求不満なのだろうか。と思っていたら、直後わたしはトキヤから逆にそれを言われてしまった。
「心外ですね。私の顔がそういう風に見えるという事は、さくらも相当性欲がたまっているんじゃないですか?」
なんだか無償に腹が立つ。
「んっ……」
トキヤが言い終えると同時にわたしの唇へ強引に噛み付いた。下唇を食むように愛撫し、少し強めに吸い上げる。
「……ん」
「……んや!」
拒んでも尚わたしから離れないトキヤの胸を力一杯押しやり、彼と適度な距離を取る。トキヤはあっけない程あっさりとわたしから離れ、満足そうに笑っていた。
トキヤのキスのせいで、唇全体がひどく甘くなったような気がした。
「さくら、俺の側に」
「え? ……あ、真斗くん」
気が付くと反対隣には真斗くんが座っており、わたしを抱き寄せるように腰へ手を回していた。トキヤを静かに睨み付け、彼の行為を無言で非難しているようだった。
「そんなに睨まないでください。まあ、とりあえず始めましょう」
「え?」
わたしと真斗くんの視線を気にも留めず、トキヤが突然そう切り出した。
始めるとは言われたものの、わたしには心当たりが一切ない。わたしたちは彼と何か特別な約束をしていただろうか。頭の中の記憶をひとつずつ確かめるように思い出してみたが、わたしには思い当たる事は何一つ無かった。
「ええと……何を始めるの?」
小首を傾げながらトキヤにそう問うと、彼はとても嬉しそうな表情でわたしを見つめ、再度顔を近付けた。腰に回されている真斗くんの手に力が入る。
「何をとは、さくらもとぼけますね……。まったく、今さら純情ぶらなくとも良いのに」
純情ぶるも何も、わたしには何がなんだかさっぱり分からないのだからとぼけるも何もないと思うのだが。そうトキヤへ言い返そうとしたその時、今度は反対側から声が上がった。
「俺は、女子たるもの、清く正しくあるべきだと思う。それ故、今のさくらの受け答えはとても好ましかったと思うが」
「そうですか? 私は、さくらはもう少し自分の欲求に正直になっても良いと思いますが。まあ、それは追々私が調教して差し上げましょう」
トキヤのいつもの言動を聞き流しつつ、わたしは再び彼に何をするのだと問うてみた。彼はわたしの肩を抱き寄せ、その鋭い目でこちらを見据えながらゆっくりと口を開く。まるでスローモーションのようなトキヤの動きに、思わず目が奪われる。
「ト、キヤ……」
「そんなに警戒せずとも良いのですよ……こどもの日なのですから」
「こどもの日……」
こどもの日というのが何の免罪符になるのかは分からないが、トキヤはまるでわたしを安心させるかのように表情を和らげる。しかしその笑顔も、トキヤの場合ひどく怪しく感じられるのはなぜなのだろうか。
「今日は年に一度のこどもの日ですし、せっかくですから私と子供でも作りませんか」
「……え」
トキヤの笑顔があまりにも自然すぎて、その言葉の意味をもさらりと流してしまいそうだった。しかしそれに反論しようとすると、今度は真斗くんが話に加わり、更におかしな方向へと進んでいく。
「それは少し横暴過ぎるぞ一ノ瀬。今日がこどもの日という理由でさくらと子供を作る事が許されるのなら、俺がその役目を引き受けよう」
「いや……こどもの日は別に子作り推奨の日とかじゃないから……」
二人の言い分をそう窘めてみるも、二人の耳にはわたしの声など届いていないらしい。というより、彼らはおそらく都合の良くない事を聞きたくないだけなのだろう、きっと。
肩を落とし、半分諦めにも似たため息を吐くと、彼らはそれを慰めるかのようにわたしの顔を両側から覗き込んだ。彼らの綺麗に整った顔は果てしなく心臓に悪いので、至近距離まで顔を近付けるのをやめてほしい。
「とりあえずさくら、私の部屋へ行きましょう。被虐趣味のある高遠のために、私は日頃から色々と君を苛めるための道具を用意していますので」
そう言って無理矢理わたしの肩を抱き、トキヤが自分の方へ強く引っ張る。やはり彼らは人の話を聞いていない。
「ちょ、ちょっと待って! とりあえずトキヤの部屋には行かないし、わたしには被虐趣味もないから」
トキヤの腕から何とか逃れ、そう反論してやると、今度は反対側から別の腕がわたしを拘束した。
「残念だったな一ノ瀬。さくらには被虐趣味などない。なぜならさくらには加虐趣味があるからだ。さくら、溜まりに溜まった日頃の鬱憤を俺に晴らす時だ。行くぞ」
「い、いやいやいや! わたしには加虐趣味もないし、そもそも日頃の鬱憤の原因はトキヤと真斗くんだから!」
真斗くんの拘束からも逃れ、わたしは彼らの向かい側へと避難する。
トキヤと真斗くんの目が心なしか一際真剣になったような気がした。
「さくら、いい加減になさい。私たちも我慢の限界ですよ? だいたい被虐趣味も加虐趣味もないというのなら、一体君は何なのです?」
「……ノーマルですけど」
わたしのその一言は、静かな室内に確実に響き渡った。
「……あのさ、提案だけど、もう面倒だからトキヤが真斗くんを苛めてあげれば?」
「……」
「……」
「……あれ? トキヤ? 真斗くん?」
彼らの言動に呆れていたわたしのその冗談で、二人の眉間にみるみると深い皺が刻まれた。もしやわたしは余計な一言を言ってしまったのだろうか。思わず彼らの向かい側のソファに張り付き、体を強張らせた。
「……さくら、今のは聞かなかった事にしましょう。これ以上きついお仕置きをされたくなかったら、ちょっとこちらへ来なさい」
「……ト、トキヤ、顔が怖……」
「いいから早く来なさい」
トキヤのその言葉にどうしても逆らう事ができず、わたしはおそるおそる先ほどまでいた場所へ戻って行く。
わたしが再び彼らの間に座ると、それを待ち構えていたのか、トキヤはわたしの腕を強く引っ張り、無理矢理体勢を崩させた。そしてトキヤは笑顔を崩す事なく、俯せた状態のままわたしを自分の膝へ乗せたのだった。
「なっ、ななな、何する気!?」
トキヤが妙に楽しそうな声で笑い、わたしのお尻に手を当てる。たった今気付いたが、わたしの今の状態は、母親に罰を受け、お尻を叩かれる時の子供と同じ状態だ。
「変な事を言ったさくらに、お仕置きです」
「え!? ちょ、本気!?」
「悪い子のお尻を叩くのは、躾、ですから」
いつの間にかトキヤはわたしのスカートを捲り上げ、そこへ思い切り手を振り下ろしていた。
室内にバチン、という音が響き渡ると同時に、わたしのお尻にも痛みがじわじわと広がって行く。トキヤの手がわたしのお尻を叩き、さらに興味深げにいやらしく撫で回した。わたしとしては痛いしくすぐったいし恥ずかしいしで早く逃げ出したくてたまらない。
「いっ! 痛っ! っていうか撫でないでよ馬鹿! すけべ!」
「馬鹿に馬鹿と言われたくありません」
「やぁーっ! 離してよ離して! お尻掴まないで!」
「ふふ、さくら、お尻が真っ赤ですね……興奮します」
「へ、変態っ!」
あまりにも自分の性欲を隠そうとしないトキヤに思わずそう吐き捨てるが、すぐにわたしはそれを後悔する事になる。
「……口答えですか。まだまだ躾が足らないようですね。これからもっと痛くしてあげましょう」
彼の逆鱗に触れてしまったらしいわたしは、耳元で囁かれるトキヤの声に思わず鳥肌が立った。恐ろしい事を言われているのにも関わらず、甘く痺れるような感覚を覚える。
「ごめんなさい、は?」
「え……」
「悪いことをしたら、ごめんなさい、でしょう? それとも、やはりさくらはもっと痛い思いをしたいのですか?」
「えっ……。あ! ご、ごめんなさい!」
「はい、良くできました」
「ひゃっ!」
トキヤに促され素直に謝ると、それに満足したトキヤが身を屈め、わたしのお尻にキスをした。
有り得ないというか恥ずかしいというか、何ともいえない状況で、わたしは自力でソファに起き上がる。
わたしは熱くなる顔を冷ますように手のひらで自分の顔を扇いだ。
「さくら」
不意に真斗くんに呼ばれ、そちらを振り向くと、彼は僅かに頬を紅潮させながらわたしの手を握った。その目はとても真剣で、わたしの顔はますます熱くなっていく。
「ま、真斗くん……?」
「さくら、今、一ノ瀬に躾られた事を、今度は俺に、してくれないか!」
「……え?」
真斗くんがわたしの膝に寝そべり、先ほどわたしがトキヤの上でしていたような体勢になる。
「さあ、ここを思う存分叩いてくれ!」
「え、ちょ、ちょっと待っ……」
真斗くんの手により、わたしは無理矢理彼のお尻を叩かせられる。不本意ながら、何度も真斗くんのお尻を叩くと、僅かにわたしの中に妙な快感が生まれたような気がした。大丈夫、まだ引き返せると心の中で呟き、自分を落ち着けるために深呼吸する。その時。
「さくら、もっと強く、頼む……!」
真斗くんが私の下腹部に顔を押し付け、すんすんと鼻を鳴らしていた。もしかしなくとも真斗くんはわたしの変な所の匂いを嗅いでいるに違いなかった。
「いやぁー! 離れて! 真斗くん離れて!」
わたしはそう叫びながら、無意識のうちに真斗くんのお尻や背中をバシバシと叩いていた。
真斗くんの呼吸が荒くなり、わたしにしがみつく腕にも力が入る。
真斗くんは自分の気が済むまで数分間、わたしから離れようとはしなかった。
「もう最低! 二人とも最近すごく似てきたよね!」
「私と、聖川さんが……?」
「そ、そんな事はなかろう……」
わたしの説教に彼らが揃ってうなだれる。
既に彼らからは何度も謝罪され、納得もしているのだが、少し不機嫌な顔をすれば揃ってあたふたする二人が可愛くて、わたしは今もわざと怒ったふりをしている。
「すみません……。さくらの間抜け面を見ると、どうも意地悪をしたくなるのです」
「……」
「すまない……。お前の強い瞳を見ると、どうしても俺は苛めて欲しくなるのだ」
「……」
謝罪の内容はともかく、二人が反省している事は確かだし、わたしはそれ以上問い質す事をやめた。
不意に強い風が窓を打ち付ける。向かい側のマンションのベランダに飾られた小さな鯉のぼりが、その風に乗ってたなびいていた。
終
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