time limit




兼ねてから改築中だったシャイニング事務所専用寮の工事が来週にも終わるという知らせがわたしたちに届いたのは、もう三日も前の事だった。

始まりがあれば終わりもある。それはごく当たり前の事なのに、良くも悪くもそれが当たり前になり過ぎていて、わたしは心のどこかでこの生活がいつまでも続くような気がしていた。
事務所を取り仕切っている日向さんからその知らせを受けたわたしたちは、その日から少しずつ荷物の整理を始めた。お互い寂しいという感情を一切口にしないのは、口にすると更に寂しさが増すからなのかもしれないが、もしかすると寂しいと感じているのはわたしだけなのかもしれない。

トキヤがわたしに結婚しようと言った日から丁度一週間が経っていた。あれからトキヤはなんとなくわたしを避けているようで、表面上は変わりなく接してくれてはいたが、いつものようなイヤラシイ干渉は一切してこなくなった。真斗くんもなんとなくわたしとトキヤの異変に気付いているようなのに、それを改めて問い質す事もない。まるでわたしたちの間にはほんの少しの溝ができたようで、尚更それを口に出すのは躊躇われた。




この仮住いの寮の窓からは、毎日夕陽がとても綺麗に見える。今日もいつもと変わりなく、窓から差す夕陽に室内がオレンジ色に染められた。
今日はトキヤがソロで音楽番組に呼ばれており、今朝早くにその収録へ向かった。その後音也くんとラジオ番組の生放送があるらしく、帰りは深夜になると言っていた。真斗くんはいつも通りの時間に帰宅予定らしいので、夕飯は二人分用意すれば良いようだ。
わたしが依頼されていた曲は今日も思うように作業が進まず、そのせいか改めて自分の不甲斐なさに落胆せずにはおれなかった。

いつの間にか空が暗くなり始めていた。薄青とオレンジ色の融合はいつ見てもわたしを不思議な気持ちにさせる。
もうすぐ真斗くんが帰って来る時間だ。そろそろ夕飯の支度をしなくては。
テーブルに散らかった五線譜と資料をまとめ、わたしはゆっくりとソファから立ち上がった。





「ごちそうさまでした」
「お粗末さまです」

二人揃って箸を置き、手を合わせる。
今日も上手く真斗くんと会話できなかったなと心の中で独りごちると、彼はまるでそれを見透かしていたかのようにこちらを見据えた。

「ま、真斗くん?」
「……さくら、最近少し元気がないようだが、何かあったのか?」

真斗くんのその鋭い視線に、彼自身の堅固な決意が見受けられる。おそらく真斗くんはわたしに事実を聞こうか聞くまいか相当悩んだのだと思う。そんな彼を目の当たりにしたわたしは、もうこれ以上誤魔化す事は二人にとっても良くない事なのだなと思い、正直に話すことを決めた。



真斗くんは終始難しい表情をしながらわたしの話を黙って聞いてくれた。
自分の作曲作業が思うように進まない事、トキヤにも言われたが、わたしの心には全く余裕がない事、そして最後にトキヤからプロポーズされた事までもを真斗くんに正直に話した。
わたしの話を一通り聞き終えた真斗くんは、しばらく口元に手を当て、何かをじっと考え込んでいた。

結局わたしは何をするにしても他者を巻き込んでしまう。わたしはどうにも申し訳なくなり、小さな声で真斗くんにごめんねと謝ると、彼は目を細め、わたしの頭をぽんぽんと撫でてくれたのだった。



「俺も本当ならば今すぐにでもさくらに結婚を申し込みたい所だが、俺の場合、聖川の名でさくらを余計に束縛してしまうかもしれん。だから俺は、今は、お前に結婚を申し込むのは自粛しようと思う」

真斗くんはそう言うと少し残念そうに笑い、コーヒーを一口飲み込んだ。

「しかし本当にさくらは一ノ瀬を受け入れるつもりか? 結婚、それもアイドルとの結婚など、それこそ一大決心が必要だろう」

隣に座る真斗くんは、とても心配そうにわたしを見つめている。アイドル、それもトキヤのようなトップアイドルと結婚するには、確かにそれなりの覚悟がなければならないのだと思う。もしかしたら心無いファンの悪意の矛先が、わたしに向けられる可能性だってあるかもしれないし、最悪の場合、傷付けられる事だってあるかもしれない。真斗くんはひとつひとつ自分の言葉を確かめるように、その覚悟はあるのかとわたしに問うた。
結婚の意味を軽く考えていたわたしは、もちろんそれに答える事ができず、ただ黙り込んでしまうのだった。


「一ノ瀬との結婚は、さくらに自由をもたらすかもしれないが、さくらは本当にそれで良いのか? 少しきつい言い方になってしまうが、それは逃げとなんら変わりはないのではないか?」
「……」

確かに真斗くんの言い分はとても筋が通っており、わたしが反論できる隙など一分もない。わたしは改めて、自分がトキヤとの結婚に対して何も考えていないことを思い知った。

「それ以前にさくら」
「え……」

不意に真斗くんがわたしの名を呼び、真剣な眼差しをこちらへ向ける。恐ろしい程綺麗な顔立ちの彼に、わたしは思わず心音が高鳴った。

「それ以前に、さくらの気持ちはどうなのだ。一ノ瀬の事をどう思っている? それが一番大事な事ではないのか」
「……」
「……まぁ、あまり気に病むな。ひとつ俺が言えるとしたら、あまり早まった決断をするなと言うことだ。……と言っても、それはただ単に、俺がさくらを一ノ瀬に取られたくないだけだがな」

真斗くんがそう言って笑うと、先ほどと同じようにわたしの頭を優しく撫でた。彼のその一言で、自分の事ばかりを考えていたわたしの目がはっきりと覚めたような気がした。






昨夜、といっても今日未明だが、仕事から帰って来たトキヤは朝食の時間に姿を現さなかった。いつもならどんな時間に帰って来ても朝食には現れるのだが、今朝は眠いと言い、起きて来る事はなかった。それはわたしたちの共同生活が始まって以来、初めての事だった。

「さくら、一ノ瀬の事は心配するな。アイツも子供じゃない。仕事の時間になれば自分で起きてくるだろう。俺はもう行く。さくらも気にせず自分の仕事に専念しろ。ではな」
「……ありがとう真斗くん。行ってらっしゃい」

真斗くんを見送り、わたしはいつも通りリビングで曲作りを始めた。
相変わらずわたしの作業ペースは非常に遅く、特に頭の中がごった返しているこんな状況ではインスピレーションすら湧いてこない。
窓の外に目をやると、家で篭っているのが勿体ないくらい雲ひとつ無い青空で、わたしはただその景色を見てぼんやりしてしまうのだった。



午前十一時、ドアの開く音と共にトキヤがリビングに顔を出した。
帰って来た時間が時間なので、今までぐっすりと眠っていたのかと思っていたが、どうやら違っていたようだ。彼はすでにパジャマ姿などではなく、いつもと何ら変わりない様子で部屋から出てくると、ごく自然にわたしの隣へ座った。先日トキヤからプロポーズを受けた身としては、少々気まずい。

「おはようございます、さくら。私の顔に何か?」
「え!? あ、ごめん、おはよう」

無意識のうちにその横顔をぼんやり見つめてしまっていたわたしに気付いたのか、トキヤが不意にこちらを向いて笑った。トキヤに見とれていたところを本人に見られてしまうなんて、とても恥ずかしい。
しかし、もしかしたらこれは先日の返事をトキヤへ伝えるチャンスなのかもしれない。わたしなりに良く考えた結果だし、これで誰かに軽蔑されようとも、わたしは決して後悔しない自信がある。
わたしはため息をひとつ吐き出すと、意を決し、トキヤと向き合った。



「あ、あのさ、トキヤ! この前の、返事なんだけど……」
「……はい」

トキヤの声が先ほどより低くなった。囁くような息遣いと真剣な顔に、思わず見とれそうになるが、なんとか理性でそれを抑える。
わたしがどう切り出そうかと思考を巡らせている間も、トキヤは何も言わず、ただ向き合って、わたしの言葉を待っていてくれた。



「……トキヤに結婚しようって言われた時、わたし、嬉しかった。たった独りでこの世界を歩いて行くのは、自分で選んだ道だけど、正直少しつらかったし、誰かに助けてもらいたかった気持ちも心のどこかにあったんだと思う」
「……」
「でもやっぱり、今、トキヤに頼るのはいけないと思うの」
「……」

わたしが話している間、トキヤはいつもの横槍も入れず、ただ黙ってわたしの話を聞いていた。時々目が合うと妙に気恥ずかしくなり、すぐに彼から目を逸らすのだが、熱くなったわたしの顔はなかなか冷める事がなかった。


「わ、わたし、もう少し頑張ってみたい。トキヤに全部支えてもらうんじゃなく、これからも一人で相手に合わせた曲を作れるようになりたい!」

今まで考えていた事をすべて吐き出すと、わたしはようやく緊張の糸が解れ、無意識のうちに盛大なため息が出てしまっていた。
不意にわたしの頭の上にトキヤの大きな手が置かれる。手のひらからトキヤの熱がわたしへ流れ込んでくるようで、妙に心地よい。


「わかりました。……しかしそれは、私のプロポーズを断るという事ではなく、私とさくらの結婚を少し先延ばしにするだけ、という風に取ってよろしいですね?」
「え……」
「よろしいですね?」
「……はい」

トキヤの強引な解釈に驚いたものの、結局わたしは彼に流されるまま、とても卑怯な選択をしてしまった。
わたしのために結婚を選んでくれたトキヤに、結局結婚を少し待ってくれだなどというエゴを押し付けてしまうなんて、自分でも狡くて最低な選択だと思う。
しかしトキヤはそんな事など全く気にもとめていないようで、その整った表情を崩す事はなかった。


「しかしさくら、一人がどうしてもつらくなったら、次からは遠慮なく私を頼ってください。私はさくらの代わりに曲を作ってあげることはできませんが、隣でずっと君を抱きしめていてあげる事はできます」
「ト、トキヤ……」

そう言い終えると、トキヤがわたしを正面から強く抱きしめた。トキヤの匂いが鼻を掠め、その逞しい胸板に強引に顔を押し付けられる。

「もう君は、私のものです」

トキヤが耳元でそう囁き、わたしの耳に口付ける。リップノイズがはっきりと聞こえ、わたしは返事をする代わりに彼の背中へ手を回し、強く抱き返した。




それから幾日もしないうちに、わたしたちは社長から新しい寮の鍵を受け取り、それぞれ自分の部屋へと戻って行った。

最後に見渡したわたしたちの部屋は来た時と同じく閑散としていて、ほんの少し物寂しい気がした。





つづく



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