「きゃ、きゃー!?」

わたしがおそるおそるリビングに足を踏み入れると、突然体ごと宙に浮き、そしてすぐにソファへ投げられてしまった。一体今わたしに何が起こったのかと一生懸命考える。この状況から察するに、わたしは今誰かに抱きかかえられ、ソファに運ばれたらしい。その腕の主はそのままわたしに馬乗りになり、自由が効かないように腕を押さえる。

「さくら、今日はそんなはしたない格好で私を出迎えてくれたのですか? ふふ、ありがとうございます」

その声の主は一ノ瀬さんだった。あまりにもありえないその状況に、わたしは一瞬頭の中が真っ白になる。

「あ、えーと、い、一ノ瀬さん、ただいまって言った?」

一ノ瀬さんがどんどんわたしに顔を近付けてくるものだから、わたしは心底動揺してしまい、なぜこんな場面でこんな事を聞いてしまったのか、自分でもよく分からなくなっていた。至近距離で微笑む一ノ瀬さんの顔は、眉目秀麗という言葉がよく似合う。美し過ぎて現実感が湧かないような気がする。

「ふふ。ええ、言いましたよ。さくら、ただいまと」
「き、聞こえなかったよ!」
「さくらはバスルームに居たから聞こえなかったのでしょう?」
「え……? あ、ああ、そうか……」
「まったく、さくらは相変わらず馬鹿ですね。この中に脳みそはちゃんと入っていますか?」
「いたっ」

一ノ瀬さんにコツンと頭を小突かれる。その反論をするため、なんとか体を起こそうとしたその時だった。馬乗りになった一ノ瀬さんはわたしに体を重ね、そして強く抱きしめた。

「え……ちょっ、い、一ノ瀬さん!?」

思い切り顔を背け、そして横目で彼を盗み見ると、一ノ瀬さんは相変わらずクールな眼差しで、わたしを射竦めるように見つめていた。

「……ようやく二人きりの時間が持てましたね。これで遠慮なく調教できそうです」
「ちょ、調教!? なにそれ! だ、誰か! むぐっ」

一ノ瀬さんはすぐにわたしの口を手で塞ぎ、意地悪く口の端を上げて笑った。

「今日は聖川さんは帰ってきませんし、誰も助けに来ませんよ?」
「ま、ままま待ってよ一ノ瀬さん!」
「トキヤと呼びなさい」
「へ?」

一ノ瀬さんの目付きが一層鋭くなり、突然命令口調でそんな事を言うものだから、わたしは思わず気の抜けた妙な声を出してしまった。

「だいたい私は日頃から疑問だったのです。聖川さんばかりを名前で呼んで、なぜ私の事は一ノ瀬さん、だなんて他人行儀な呼び方をするのです?」
「え? あ、だって、一ノ瀬さんにはなれなれしくできないっていうか……」
「ですから、それはなぜです」
「……だって、一ノ瀬さんの事、イッチ〜とか呼んだら鉄鞭でぶたれそうだし」
「私はそんな物騒な物は持っていませんし、そのような呼び方は私が許しません。とにかく、今日からさくらは私を名前で呼びなさい。トキヤ、と言うのです!」
「わ、わ、分かったからそんなに顔を近付けないで! え、えっと……、ト、トキヤさん……」
「……」

必死に一ノ瀬さんから逃れるように顔を逸らし、そしておとなしく彼の言う通りにしたのだが、彼は喜ぶどころかさらに恨みがましい目でわたしを睨んだ。一ノ瀬さんの整った顔が歪み、所謂、男前が台無しという状況になっている。しかし目の前の一ノ瀬さんと視線を合わせるだけで、わたしの心臓はもう限界に近付いていた。

「さくら、何度言わせるんです? トキヤ、です。他の敬称は一切必要ありません。さあ言ってみなさい。言えないのなら無理矢理にでも言わせますよ」
「わ、い、言います言います!」

一ノ瀬さんの真剣な表情に、本能的に逆らう事ができない。

「ト、キヤ」
「もう一度!」
「……トキヤ!」
「はい、よくできました。ご褒美に、今日は優しく抱いてあげましょう」
「えっ! きゃーっ! やめてやめて、一ノ瀬さんの変態!」
「……私は変態ではありませんし、一ノ瀬さんではなくトキヤと呼べと言いましたよね? 何度も言わせないように。できない子には、お仕置きですよ?」
「トキヤ! 目が怖い!」

トキヤがわたしのバスタオルを掴もうとその手を伸ばす。わたしはその手を必死で押さえ、押し戻す。しばらくの間、わたしはトキヤと一進一退の攻防を続けた。



「……っく、いい加減諦めたらどうです? だいたい君は私を何年待たせる気ですか」
「な、何の話!?」
「相変わらず察しの悪い馬鹿ですね。私はもう何年も前からさくらを想い続けているというのに」
「え……。や、全く気付かなかったけど……」
「ふふ、さすが私の愛した女性です……この鈍感不感症女」
「えっ……え!? ちょっと、今変な事言ったでしょ!?」
「とにかくそういう訳で、何年も前から私の初めては君に捧げると決めているのですから、君はさっさと観念して足を開きなさい」
「ト、トキヤがそんな下品な事言っちゃだめでしょ!?」

トキヤの手がどんどんわたしのタオルに迫り来る。その手を力一杯掴んで止めてはいるものの、やはり女の力ではここまでなのかもしれない。そう観念しそうになった瞬間だった。

ピンポンと玄関のチャイムが鳴り、トキヤの動きが一瞬止まった。

「さくらちゃーん」

玄関の外で声がする。あの声は那月くんだろうか。まさに天の助けだと思った。

が、那月くんを呼ぼうとしたその時、当然のようにトキヤがわたしの口を手で塞ぐ。

「ん、ん〜っ」
「静かにしてください、さくら」

「あれ〜? いないのかなぁ……」

ドアの前で那月くんが諦めてしまいそうな声を出す。わたしは心の中で諦めないでと無責任な応援をしたが、それが彼に届くはずもない。トキヤはわたしの口を押さえたまま、息を殺している。もう絶体絶命だろうか。


しかし。


「あーっ! やっぱり居た! さくらちゃん大丈夫?」

那月くんはなぜかリビングのドアを開け、わたしたちの目の前に現れた。そしてすぐにトキヤの魔の手からわたしを助けてくれたのだった。

トキヤは呆然としながら那月くんを見つめている。まだ少し混乱しているようで、こめかみを強く押さえ、懸命に頭を整理しようとしているようだった。

「ちょ、ちょっと質問があるのですが……。四ノ宮さんはなぜここへ入って来れたのですか? 鍵は掛けておいたはずですが」

那月くんがわたしの肩に自分の上着をかけてくれた。その行為にトキヤがちょっと顔をしかめていたが、それは見ないふりをしてやり過ごす。

「鍵を開けるのなんて簡単ですよぉ? だって僕、真斗くんから合鍵を預かってるんですもん。その鍵でさくらちゃんを助けてほしいって、今、電話で真斗くんに言われたんです」
「……そこか!」
「えっ!?」

那月くんの話が終わらないうちに、トキヤが突然ソファのそばに置かれた鉢植えに手を伸ばした。

「ど、どうしたの、トキヤ……」
「これをご覧なさい、さくら」
「……なにこの小さいレンズ」
「カメラですね。それもかなり高性能な……くっ!」

トキヤはそう言うと、忌々しげにその小さなカメラをごみ箱へ放り捨てた。

「前々から彼にはアブナイ趣味があるような気はしていましたが……まさか本当にさくらを盗撮していたとは!」
「ま、まさか! 真斗くんがそんな事する訳ないよ……」
「いいえ、確実に聖川さんです。でなければ、四ノ宮さんが君を助けに来るタイミングがこんなに正確な訳がありません。大方ロケ先でさくらの行動を逐一観察していたのでしょう」
「そ、そんな」

真斗くんにそんな趣味があるのはぼんやり分かってはいたけれど、先ほどトキヤにされた事までもが真斗くんに筒抜けだったのかと思うと、わたしはこのまま頭を抱えて穴の中に潜り込みたい気持ちになった。

「どうしたんですかさくらちゃん。もしかして気分が悪いんですかぁ? 良かったら僕が眠るまでそばに居ましょうか?」
「それは不要です! ……今日はおとなしく諦めますから、あなたは早く帰ってください!」
「はぁーい。それじゃあね、さくらちゃん!」

バイバイと言って手を振る那月くんに手を振り返すと、彼はにっこりと笑って自分の部屋へと戻って行った。





「……まったく、聖川さんのせいで散々でしたね」
「いや、元々トキヤがあんな事しなければ良かったんじゃないの……?」
「私の事は棚に上げときましょう」
「上げとくの!?」
「……いいからさくらはもう寝なさい。いつの間にかこんな時間です」
「あ、ほんとだ……。もう寝ないと明日起きられないね」

トキヤは優しい表情で頷くと、わたしをソファベッドに寝かせ、頭をそっと撫でてくれた。そのトキヤからは、いつもの意地悪な眼差しが全く見当たらない。

「さ、ほら、もう目を瞑って。おやすみなさい」
「うん。ありがとうトキヤ。おやすみ」

トキヤは少し表情を崩して微笑むと、すぐに立ち上がってリビングの中をウロウロし始めた。花瓶を横に除けたり、小物入れの中を細かく確かめて回っている。

「……トキヤ、何してるの? 寝ないの?」
「私の事は気にしないでください。私は他にもカメラがないか調べてから眠ります」
「えっ!?」

トキヤは本当に心配症というか疑り深いというか、こうなってしまうと他の誰にもその行動を止められなくなるのは、共同生活を少しでも経験したわたしにならよく分かる。

「……わたしも手伝う」

今日の睡眠を諦め、わたしはカーディガンを羽織ってトキヤの隣に並んだ。トキヤは何も言わずに口の端を上げて笑い、わたしの頭をさらりと撫でた。
携帯へ届いた真斗くんからの山のような着信に気付くのは、もう少し先の事になる。





つづく
 

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