「そこまでだよ」

その言葉にハッと後ろを振り向くと、そこには銀の髪を肩口で緩く結ったお母さんが腕を組んで立っていた。
月が満月に近い所為か、お母さんの輪郭が良く見える。
お母さんは何故か呆れた表情でこちらを見ていた。
隣に座っている鯉伴さんも振り返り、片眉を上げながら口を開く。

「おいおい。来たばっかしなんだぜ……? もう少しくらいいいじゃねぇか」
「鯉坊……。まだ勝負はついちゃいないだろ」

ため息混じりに言葉を紡ぐお母さんに、鯉伴さんは余裕有りげに笑みを湛えながら答えた。

「何言ってやがる、天華……。オレの勝ちじゃねぇか」
「勝手に決めるんじゃないよ。アンタが出て行ってから順位は逆転してるよ」

鯉伴さんはその言葉に目をキョトンとさせるとまた不敵にニッと笑い「また更に逆転させてやらぁ……」と返した。
お母さんはそんな鯉伴さんを両目を眇めて見ると、こちらに歩み寄って来た。
そして私の腕を取る。

「さ。家に帰るよ。響華。」
「あ、うん」

私は頷きながら立ち上がる。
と、お母さんは隣でまだしゃがみ込み頬杖をついている鯉伴さんの方を向き、鋭く睨んだかと思うと咎めるような口調で言葉を放った。

「鯉坊。響華は響華だ。響華以外何者でもないんだよ。その事をちゃんと肝に命じときな」
ん? 私は私……って、当り前の事なのになんで…?
あ……
もしかして、お母さん。鯉伴さんが時々私に月華さんっていう人を重ねてる事を知ってる?

何だか複雑な気持ちになり、空いた方の手で自分のスカートをギュッと掴んだ。
と、鯉伴さんは「よっこらしょ」と膝に手をつきながら立ち上がると、唇をニッと吊り上げた。

「そりゃ判ってるさ」
「はん。どうだかねぇ……」

疑いの目を向けるお母さんの視線を受けながら、鯉伴さんは煌々と輝く月を見上げた。
そして小さくもう一度呟いた。

「判ってるや……」と。

その横顔からは、何を想っているのか想像出来ない。
でも、なんだかすごく寂しそうで、胸がツキンと痛くなった。
お母さんはそんな鯉伴さんに背を向け、私の手を引っ張る。

「ほら。バカは放っといて帰るよ」
あ、待って、待って! お母さん!
鯉伴さんも一緒に!!

寂しそうな鯉伴さんを放っておけなくて、足を踏みとどまらせると鯉伴さんの方を見た。
すると、丁度こちらを向いた鯉伴さんと目がかち合った。
目が合った鯉伴さんは目を細める。
と、何を思ったのか私の腰に腕を伸ばし、自分の方に引き寄せた。
私を突然掻っ攫われたお母さんは眉間に皺を寄せる。

「鯉坊。何すんだい?」

睨むお母さんに怯みもせず、鯉伴さんは口角を上げると口を開いた。

「こっから街まで距離があるんだ……。響華ちゃんに知られちゃ困るんで帰りは歩きだろ? 歩かせるなんざ無粋だぜ。」
知られたら困る?

首を傾げる私を尻目に、鯉伴さんは指笛を吹くと大百足を呼んだ。
すぐに幾本もの足をワサワサと動かしながら、大百足はどこからともなく飛んで来た。
鯉伴さんは腰に手を当て不機嫌そうなお母さんを尻目に、私を大百足の背に乗せた。

「天華も乗るかい?」

悪戯っぽい顔で尋ねる鯉伴さんにお母さんは吐き捨てるように答えた。

「遠慮するよ。でもね。私から響華を掻っ攫うんだ。手ぇ出したらどうなるか判ってんだろうね」
「安心しな……。オレはそんな事しねぇよ」
「全く安心出来ないね」
「ひでぇな……」

鯉伴さんは肩を竦めると大百足の背に飛び乗る。
そしてお母さんに「またあとでな」と言うと大百足は私と鯉伴さんを乗せてその場を飛び立った。

って、え? え? ちょっと待って! お母さんはどうやって帰るの!?
ここは街から離れた所にあるって鯉伴さんが言ってたけど……
って、あ、れ?
じゃあ、お母さん、ここまでどうやって来たの?

私は大百足の背の上に風を受けながら、お母さんの行動に対する疑問でいつの間にかいっぱいになっていた。

お母さん??


鯉伴さんは大百足をアパートのベランダの傍にとめると、私を姫抱きにし柵を乗り越え、ベランダの中に飛び移った。
そしてガラスサッシをガラリ、と開ける。

あれ? 鍵かけてなかった??

不思議に思う私に構わず、鯉伴さんは私を畳の上に降ろした。
暗闇の中、優しい金色の目が私を見つめる。
見てるとその眼にとても心が惹かれる。

「響華ちゃん。今日はゆっくり花見が出来なくて悪かったな……」
「え? ううん。そんな事無いです。すごく綺麗でした!」

白くてすごく優雅な花の姿を思い出し、拳を握ると鯉伴さんはフッと小さく笑う。

「そりゃあ、良かった……」

そう言った鯉伴さんは私の頬に大きな手を添えた。
そしてだんだん鯉伴さんの端正な顔が近付いて来る。

鯉伴さん??







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