愛は理解の別名なり。

━━━タゴール(詩人、思想家)





「お疲れ様です、栗巻さん」
「うん、お疲れ」

first nameはそう言うと俺のグラスに軽く自分のグラスを当てた。
いつもfirst nameは控えめに下からグラスを当てる。
その仕草は静かなバーによく映えた。


first nameとは仕事仲間で、俺がカメラマンをしているファッション雑誌、「ノーブル」の雑誌デザインは全てfirst nameが勤める会社にまかせている。

1年前、はじめて一緒に仕事をした時はまだアートディレクターとしはなりたてだったが、今では表紙や特集など、人気の高いものの殆どはfirst nameがデザインしている。

厳しいと誰もが恐れるうちの編集長が、デザインに関しては絶大な信頼を置いていた。
天才や奇才と言われるような斬新さやカリスマ性こそなかったが、first nameのデザインからは人に寄り添い、語りかけるような繊細さと優しさを感じた。
魅せるアーティストと違って、デザイナーは伝える力が必要となる。
first nameはそのことをよく知っていた。

そんなfirst nameを編集長は 人としては危ういが、デザイナーとしての腕は疑う余地はない。と、称した。

ただ、仕事の出来る人。
それだけだったfirst nameとの距離が縮まったのは、その編集長が言った言葉の意味を理解したからだ。


「栗巻さんが誘ってくれるなんて珍しいですね」
「そう?」
「そうですよ」

そう言うと、やたら嬉しそうにふんわりと笑った。
仕事以外のfirst nameの笑顔は少し幼い。

おそらく、この違いに気づいているのは俺と編集長くらいだろう。

first nameの表情は非常に読み取りづらい。
怒ることも動揺することもなく、first nameの時間はゆっくりで、穏やかで、いつもキラキラと笑っていた。
そんなfirst nameの周りにはいつも笑顔が溢れているはずなのに、時折孤独に怯えるように瞳を揺らした。

俺は仕事中に、正確に言うと人と話している時、first nameが本当に笑っていると感じたことは一度もない。

よく凝らして見ると、first nameの弱い部分は僅かな隙をついて見え隠れする。



まるでそれは、瞬きのように一瞬で、


その不安定さがとても危うく、儚い。



俺はその顔がたまらなく好きだ。

これが恋愛感情なのかと聞かれると否定はできないが、俺がfirst nameに手を差し伸べることはない。

first nameは繊細な芸術品のようで、強くあろうとする自分と、弱さを認めて欲しいと思う自分が絶妙なバランスを保ち、first nameという存在は成り立っている。
いくらfirst nameを孤独から救い出す行為だとしても、誰かが介入すればこのバランスは音を立てて崩れるだろう。

きっと、そのへんの誰よりもfirst nameのことを分かってる。
first nameが感じている孤独も埋めてあげられるだろうし、根本的な孤独の理由も気にならないわけではない。

しかし、それ以上に芸術品としてのfirst nameを崩したくなかった。


たまに一緒にお酒を飲んで他愛のない話をする。
これが、first nameに近づける距離の限界だった。

少なくとも、first nameの素顔を少しでも知っている俺は他の誰よりも近くにいる。

それだけで、よかった。

「何笑ってるんですか?」
「いや……俺って悪趣味だと思って」

意図のはっきりしない言葉に対して、first nameは少し答えを探すように、ぱさぱさとまつ毛を上下に揺らすと、にっこりと笑って口を開いた。

「嬉しいです」
「え?」
「私もたまにそう呟きたくなります。人とは違う自分を理解してほしくて……でも、気を使わせただけの“そんな事ないよ”って言葉が返ってくるのが分かってるから、グッと堪えるんです。栗巻さんは、私なら理解できると思って言ってくれたんでしょ?」


心地よく響くfirst nameの言葉はいつもベストで俺の心を優しく射抜く。
それは、見透かされているような居心地の悪さとは違う。





「栗巻、さん?」

そう呼ばれ我に返るとfirst nameの顔が予想以上に近くにあった。
椅子から体を乗り出し、first nameの頭を抑え、理性の効かない部分が捕らえて離さなそうとしない。

そんな中でも、first nameの瞳に不安や恐怖はなく、咎める様子もない。


ああ、

勘違してしまう、

流れにそって、

当たり前のごとく、

生まれる感情




このまま、

キス、したい。







ジリジリ
距離が、縮まる