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▼ とある分岐

彩度の大きく違う色が視界を二分している。自分が今どこにいるのかを忘れた。首を回すと髪の毛が一本、何かに引っかかり、鈍い痛みと共に頭を離れた。なめらかでない背後はそれなりの大きさの木だということを思い出した。
 重くぼやけた雲が青空を半分ほど隠そうとしている。湿っぽい。道理で雨の匂いがするわけだ。なにか夢を見ていたような気もするが、思い出せない。中途半端に覚醒した頭は色と痛覚の情報しか与えてくれない。

「伊万里」

新しく音が聞こえてきた。低く貫くような声だ。

「……なんだ、三成か」
「なんだとはなんだ、こんな時分に惰眠を貪るなど愚昧とわからぬかッ」
「悪かったって」

 つま先までしびれさせるような音量でようやく意識が立ち上がる。ずり落ちた鉢巻を持ち上げると木漏れ日を反射した金属の光が眼を撃った。三成はがしゃがしゃと武具の音を立てながら目の前に乱暴に腰を落ち着け、寝ぼけ眼の僕を白けた目で見ている。

「どうしたんだ、何かあったのか」
「兵らが集中を欠き始めている、貴様も同じだ! 見張りをすると言っておきながらその体たらくは」「悪かったって!」

 詰め寄る三成に言い返せることは何もない。軽率な苦笑いで返すと案外簡単に許してくれた。
 見張りの役を買って出た僕は、陣を真上から見下ろせるような木立の中にいた。言葉につられて下界を見る。隊列はさほど乱れてはいないが、各々が緊張を解き始めている雰囲気が伝わってくる。辺りが少々騒がしいのはそのせいか。こちらがこれでは奇襲なんかに対応はできないだろう。
 織田信長が本能寺に倒れて以降、静かに全国へと手を拡げていた豊臣は一気に動きを見せた。東西の国々を一気に落とし、版図だけ見れば織田より広く、織田よりも天下に近い存在へと成りあがった。そんな強大な力を持った存在に盾突く国はないに等しく自ら傘下に下るところも出てくる始末だ。
 その豊臣が今恐れているのが越後、甲斐の二強国。易々と落とせるような相手ではないと理解しているのだろう。太閤様が直々に出向いたのも無理はない。果たしてそれでもどの方向へコトが転がっていくのかは誰にも想像ができない。軍師は他の小国へ三成や家康といった有能な部下を差し向けた。太閤様に着いて出陣できないと知った三成の落ち込みようは酷いものだったが、軍師様の巧みな話術で何とか立ち直った。その三成は命令の通り数万の軍を引き連れて布陣を敷き、そこには吉継と僕も含まれている。
 宣戦布告の通りに集結した相手方とこちらは数刻に渡ってにらみ合いを続けている。軍師様に言われた通りに三成は律儀にも平和的解決……無条件降伏の取引に時間を割いている。いつもなら特攻して数瞬の間に大将首を取ってしまうものだが、敵国の位置がどうとか兵力の温存とか何とかでこんな手順を踏むことになったらしい。頭脳の及ばない僕たちにはよくわからないが。
 膠着状態のまま、がやがやとした人の雑音だけが続いている。空には高くぴーひょろろと鳥の鳴き声が伸び、目線を落とさなければ平和そのものだ。空から目を落とせば鼻息荒く平和とは相容れない形相の男がいる。目に見えて三成は苛立っている。向こうの返事が嫌に遅いのだ。あまりにも動きがないものだから僕がつい眠気に身を任せてしまったのも仕方がないとは思う。

「何を迷うことがある、秀吉様に従う事のみこそがこの世の全て! 順ぜぬ不遜の輩などいっそ……!」

 軍師様の命令さえなければとっくに軍は大阪へと帰りの支度を始めていただろう。もちろん不遜の輩とやらの首を掲げながら。それでもこうやって我慢をしているのは流石の忠誠心だと思う。その態度で少なからず兵士を怯えさせているという不利益もあるにはあるのだが。

「国を開け放すかどうかの一大事なんだ、城主が腹を決めるのに一瞬しか掛からないんだったらその手腕も解るってもんだろう」
「なればこそ、ただの愚鈍であればこのような空虚の時を奪われずに済んだものを」

 ひねり出すような怒りの唸りに当てられたように黒い霧が白い頭を隠す。
耐えてきたは良いものの限界というものは誰にでもある。ましてこの男がこれほどの間じっと耐えることができていたのは称賛に価する水準だ。愚痴を聞くことで少しはマシにならないかと思ったがやはり無理だったようだ。現状を確認したことで余計に煩わしさを感じてしまったらしい。

「物見を出してもらおう、やっぱりこれは遅すぎだ」
「賛同する」

 語尾にかかる勢いで返事をした。と思えば僕が立ち上がるよりも早く吉継の元へと向かって行ってしまった。吉継はきっと今頃こんな展開を予想して眉間を揉んでいることだろう。
 急に、頬を冷たい風が走った。木漏れ日はいつの間にか消え、雨雲の匂いばかりが濃くなってきている。
 見える背中は既に指先ほどになってしまった。見失うまいと僕も急いで立ち上がり、ようやく木陰から忍び出た。兵たちは未だに落ち着かない様子でざわめいている。しかししばらくすれば大将の鋭い叱責が飛び、見る間に静けさを取り戻すだろう。こちらが動けば向こうは何らかの動きをせざるを得ない。その判断が吉であれ凶であれ、膠着状態が終わればこっちのものだ。日ノ本で今や敵無しの豊臣軍の進軍だ。苛立ちが最高潮に達した三成はさぞいい働きをしてくれるはずだ。
 ゆるんだ鉢巻を締めなおして吉継の張った陣へと向かう。気を抜いた兵士がごった返す陣地を抜けると大きく主張する豊臣軍の旗印が見えてきた。三成の背中は既に見えなくなっていた。と思えば足音も荒く三成が飛び出すのが見えた。こちらには目もくれず隊列の先頭に突撃していく。勢いに驚いた近くの兵士は飛び上がって委縮していた。この先の展開は容易に想像できる。
 それを見送り振り返ると幕が不意に揺らめいた。ふらりと現れたのは吉継だ。

「なんだ、呑気に寝こけておったのではないのか」

 もうバレてるのか! 三成の正直さは悪いことではないが、彼に肝を冷やされる人間の気持ちが少々分かった気がした。
 音もなく神輿を泳がせる吉継に近づく。呆れたような視線を避けたい。あえて何も言ってこないところに悪意を感じる。

「その呑気な小姓がこの先を考えて出向いたんだぞ」
「それは立派、リッパよな、われのような賢しき主はおまえの座睡すらも予想できなんだ」

 包帯の下で嫌らしい笑みを深めたのがわかる。この主との口喧嘩に勝てたことは数えるほどしかない。片手でも余るくらいだ。小さいころからなんとなく感じていたこの主従関係の形はもうひっくり返せそうにもない。

「……さて伊万里、斥候をして来やれ」

 何を言い返そうかと構えていた舌の根が乾いた。僕の失敗をどれだけいじくり返すのかと思ったが、思ったよりも早く真面目な声を聞いた。やはり三成の進言を聞き入れたな。さすがにこれ以上の戦況の不動は吉継としても思わしくないらしい。賢人に詫びねばならぬな、と軽い調子で言った。交渉決裂とか何とか言う口実を作るつもりだ。詫び、とはいっても軍師様のことだからこれくらいのことは予想の範囲内に違いない。
手で弄んでいた紙切れを広げ見せられる。戦場の地図だ。こちらの布陣と相手の大まかな配置が理路整然と乗っかっている。いかにもあの几帳面な軍師様という感じだ。弧を描くように包帯の指先がなぞる道筋を目で追う。いままで何度も見てきた道筋だ。吉継の台詞も一字一句思い出せる。作り物のような指が紙を撫でるたび、薬と雨の匂いが鼻腔の隅にちらつく。この間よりも薬の匂いが強いことに気が付いて視線を少し向けたが、吉継が気が付くことはなかった。

「あちらは小国と言えども今まで豊臣の進軍を辛うじて躱してきた悪運持ちよ、気を抜くでないぞ」

*****

 結論から言えば斥候は半分失敗することとなった。相手の奇襲部隊と鉢合わせしたからだ。軍の数人で息を殺して歩を進めていると、こちらの隊を蹴散らそうと息巻く敵部隊が突然に現れた。あちらが返事を出すのを渋ったのはこのための時間稼ぎだ。本陣の周囲の隊列が乱れ始めたのを見計らって特攻を仕掛けようとしたのだ。こちらの大将級の首を取ってしまえば豊臣に対抗できる存在として一難を免れる──とでも考えたのだろう。現実はそう甘くない。あの頂点二人に鍛えられた豊臣の兵がこれくらいのことで動じることはなく、一瞬のにらみ合いが起きた。誰が指示するまでもなく、各々が伝令と防衛の役目を果たすために動き、にらみ合いは弾けた。
 半分は成功した。すぐ横で合戦の叫びが聞こえる。相手方に奇襲の動き有り、という伝令は無事に本陣まで届いたようだ。派手な衝突音がそこかしこから聞こえる。三成が暴れている。安堵のため息は白い。こちらの勝ち戦は決まったようなものだ。吐き出した白い息を目で追うと足元とかち合った。
身を砕かれもう元には戻らない冷たい塊──人間だったものがゴロゴロと転がっている。文字通り氷の中で冷たくなっている。奇襲部隊は殲滅された。一人残らずここを通さなかった。大成功だ。様子見だけをするという吉継の思惑は果たされなかったが、戦を無事に進めさせるという僕の思惑は成功した。だから半々だ。
敵軍はこれから成す術もなく時代の潮流に飲まれてしまうことだろう。氷に半分巻き込まれた自分の足を引き抜く。あまり長くは聞いていたくない氷の割れる音。反動で後ろにひっくり返った。お世辞にもこの力の使い方が上手いとは言えない。一部始終を見ていた顔なじみの兵士が手を貸してくれた。
 この妙な力を持っているというだけで相手を戦意喪失させることができる、らしい。名だたる武将はこの力をもって戦を制しているとも言われている。確かに太閤様の後光のような凄まじい覇気や武田信玄の暑苦しいまでの闘気はそれに値するような代物だろう。一人いるだけで百人力なんて言う通説まである。しかし僕はそんな大層なことにこの力を使うつもりは毛頭ない。こうやって無難に確実に相手を殺す便利な力であるというだけで満足だ。
 ここでの鉢合わせがなければ、こちらに小さいとは言えない被害が出る。吉継の待つ本陣の背後から奇襲が起きこちらの混乱に便乗して戦の火蓋が切られるのだ。もちろん混乱は収まらず多くの被害が出た。吉継の冷静な指揮と三成の奮闘によって敗戦こそしないものの、二人の負った傷はお世辞にも軽いとは言えない。もちろん僕もだ。大阪への帰還中に残党の急襲も起こった。ここでもまた軍は混乱し、死人が出る。ここで僕は死んだり、生き残ったりした。
 今こうして二人が無傷で合戦の真っただ中にいることで、この後の混乱は起こらない。何事も起きずにいつも通りの遠征の結果を持ち帰ることができる。
 僕は何度も、この光景を見ている。


「余計な時を使いすぎた、疾く大阪へと帰還する」

 太陽の角度は元々の予定よりも大幅に傾いている。揺れ方もそぞろな濃い影が橙色に沿って流れていく。大将首を取ったにもかかわらず三成の機嫌は芳しくない。鼻息荒く足音もうるさい。後ろを歩くこちらにまで聞こえてきそうなほどだ。無意味に怒鳴り散らしたりしないところが彼の良いところではある。だがとばっちりを食らいたくない兵たちは無言を決め込んでいる。戦いによる疲弊も無関係ではないだろう。かくいう僕も、失敗できないという緊張感からひとまず解放されて下瞼が時々震える。着込んだ防具や抱えた獲物が朝よりも重く感じる。

「賢人も想定していたこととはいえ、アレの言う通りちと往生際の悪い者共であったな」
「そうだな」

 神輿を浮かべる労力がどれほどなのかは知らないが、傍目に見れば楽そうでいいなと思う。浮かんだ神輿は何でもない風に空中を滑っているのだが、それに乗った吉継はまるで荷物でもあるかのように微動だにしない。猫背をさらに丸めて頬杖をついている。その格好が意味するところを想像するのは難くない。最近は体調もそれほど悪くなく、各地を飛び回っていたとはいえ、今日の戦はさすがに応えたろう。ともすればそのまま眠ってしまいそうな雰囲気だ。お前が寝たりしたら抱えて帰るのは僕なんだからな。
 ひとまず落ち着いたとはいえ、完全に気を抜くことはできない。なにせもう数刻もすれば残党が飛び出してくるからだ。ここにいるどの人間もそんなことが起こるとは夢にも思っていないだろう。殉死でもしたいつもりなのか、仇を打てるとでも思っているのか。余計な場面を増やさないでほしい。
僕の記憶力にも限界がある。行動を一つ変えるだけでその先の道筋が全く別のものになってしまうことはザラにある。今日だって、僕が三成に提案をしていなければこちらの軍はこんなにぴんぴんとした状態で帰還することはできなかっただろう。そんな気の遠くなるほどの数の分岐を逐一覚えておかなければならない。さもなくば僕の望みは叶わない。
 三成の様子を見てくる、と言い残し少し歩を速める。吉継の返事はなかったが寝てしまったわけではなさそうだ。
日もほとんど山陰に隠れてしまい色の識別も難しくなってきた。そこいらの兵士の見分けなどもうつかなくなってしまっているが、この暗さの中でも薄ぼんやりと見えてくる白い背中を追いかけるのは容易だった。いつもより歩調は緩やかだ、がそれに気が付ける人間は少ないだろう。一瞬、昼間に見た夢を思い出しかけたが、輪郭をなぞっただけで鮮明なものは見えてこなかった。嫌な夢だったのだろうということだけはわかる。
 さらに背中が近づいた。呼びかければ振り向いてくれる距離だ。
声を張り上げようと息を吸い込み、

「石田三成ィ!」

発せられた声は僕のものではない! 右耳を捉えたのは聞き覚えのない若い声だ。心臓を鷲掴みにされたような激しい緊張が頭の中を白く塗りつぶそうとしてくる。 “いつも通り”なら、こんなに早く敵襲は起こらない。今日は何も手順を誤らなかったはずだ。考えられるのは一つだけ。この先に起こる出来事が今までとは全くの別物になってしまったということだ!
静かな道程に突如として突き刺さった叫びに周囲は途端にざわつき始める。敵襲かと身構える者、声が聞こえなかったのかざわめきに狼狽するだけの者。自分自身も半ば呆然としてしまっていたことに遅れて気が付いた。三成は、と慌てて視線を送ると、ざわめく周囲に対してそこだけ時間が止まったように突っ立っていた。声が聞こえてきたほうを睨みつけているらしい。最悪の事態はまだ起きていない。ここからでは庇うこともできないと走り出す。

「三成、声の主は見たか?」
 
声と三成の間に割って入る。

「いや……」

 三成も声しか聞こえなかったのだろう。未だにじっ、と感覚を凝らしていておもむろにその刀に手をかけた。対する僕はそういった気配に疎いため、ひたすら事が動くのを待っていなければいけなかった。
 ふと、夕焼けと暗闇の景色が、むくりと盛り上がるような妙な動きをした。景色と人が判別できない暗闇の中だ。見間違いなのか、それとも声の主なのか。
判断はできなかった。
突如視線が見当違いの方向へ向いたかと思うと胴体に大きな衝撃。気が付くと天地が逆転していた。もろな痛みの主張は激しいがそれにかまけて動けないままではいられない。
やっと起き上がると、立ちあがっている人間が周囲にいないことに気が付いた。なぎ倒されている。声の主の進んだ道筋を明らかにしていた。目で追うと三成がいた。それと、声の主なのであろう若者が肉薄して、凶器を交えていた。

「貴様……私が何者か、知った上での愚行か」
「ああ、知ってるさ……豊臣の左腕、だろ」

 耳鳴りのような金属音をまき散らしながら二人は動かない。僕が近づこう
とすると三成は視線でそれを諫めた。僕では足手まといになるということだろう。
 何もできない代わりに闖入者の観察をする。明らかに僕や三成よりも若い。小刀を二つ携え
ている。どこかの軍の間者であるならそれとわかる印がありそうなものだが、彼にはそれがない。浪人か何かだろうか。ここからでは聞こえないが、二人は何事か会話をしているようである。男の目的は何なのだ。

「……俺とアンタ、ギリギリの命のやり取りだ!」

 男がそう吠えた。徐々に三成は隊列の外に押し出されていく。男が激しく、的確に急所を狙っているのを三成は見切ろうとしているらしい。攻撃に転じようとしていない。ここで見失うのはまずい!

「みつ…っ!?」

 追いかけようと踏み出したが、意思に反して足は動いてくれない。焦りと疑問符が頭を埋め尽くすと、上から平温の声が降ってきた。

「ヤレ、落ち着け。ここで分散してはこちらの不利よ、フリ」

 言葉を返そうと思ったが首根っこをつかまれ、周到に口までふさがれてはそれも叶わない。必死に抗議の視線を送るが返される視線は冷たいばかりである。

「お前はいつまでも過保護よな、三成の手腕も知らぬではあるまいに」

 吉継の言い分ももっともだ。軍の大将を任されるほどなのだ。小姓の分際で心配なんておこがましいにもほどがあるというのは僕もよくわかっている。しかし身分の問題を除けば、三成は僕の弟も同然なのだ。
 目の端ではついに三成と男の姿が消えた。震え出しそうになるのを何とかこらえる。

「見たところあの男は勢いで飛び出してきたようだ。三成も疲労があれど、敵ではなかろ」

 三成とあの男がやりあって、どちらが勝つのかは分からない。吉継の言う通り何事もなく戻ってくるのかもしれないが、本当にやられてしまう可能性だってある。それを阻止するのが僕の役目であるのだ。この主に足止めをされてはもうどうすることもできないのだが……。吉継は、今のうちに隊列を組みなおす、といって僕をつないだままその場から離れてしまった。

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