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▼ 駒を進めて

ひいこら言いながら住処にたどり着いた時には太陽も役目を終えていて、煤まみれの僕たちはいい塩梅に薄暗がりと同化した。ひどい目にあったにもかかわらず、妙な気分の高まりでお互い恐怖などはすっかり忘れてしまっていた。見慣れた畳に触れるや否や、瞬き一つの間に眠った。

「大変だったんだぞ昨日は、少しくらいかわいい小姓を褒めてくれたっていいじゃないか」
「ああ、そうだな。よくやったぞ」
 
紀之介は僕が来た時から何やら大仰な巻物とにらめっこをして一度たりとも顔をあげようとしない。いや、本を運び終わったとき、積まれたその高さに目を少し見開いたくらいか。いつもなら小言の一つや二つを添えて薄ら笑いを向けるのに、いつにも増した生返事だ。

「なんだよ、そっけないな」

 僕がいない者であるかのように感じて不愉快である。字が読めないわけでもあるまいにいまだ微動だにしない。四つん這いになり紀之介の手元をのぞき込もうとしたが、器用にも身をひねって回避されてしまった。

「……」

 そのまま体制を崩して転がる。
 不満を込めて睨むとようやくこちらと目を合わせた。

「そんなにみられちゃ困ることなのか?」
「……さてな」
「ふん、残念ながらお前のおかげで字は読めるんだな」

 今度こそ文字を目に入れようと紀之介の手をつかんだ。紀之介の運動神経で避けきれるわけもなく、あきらめたようにもう抵抗しなかった。
──さて、そのころからよく聞くようになっていたのは、紀之介の御家が豊臣の傘下に入るという噂だった。
 戦があったのか、とか細かいことは知らなかったがどことなく町がざわついていたような気がする。自分に関係なくもない噂ではあったが、なぜだか深く考えたくはなかったのですっかり忘れていた。

「元服?」

 すぐに目に入ってきた文字はそれだった。

「われももういい年ということよ」
「一個上のくせになに言ってんだか」

 思い出しかけた噂とは関係がなさそうだと一息ついた。しかし紀之介は複雑な色で返事をした。

「時期が時期だからな、いい機会ということらしい」
「豊臣に与するっていう……」
「なんだ知っておったか」

 余計な心労だったな、と目を伏せる紀之介。

「城外でどう噂されているかは知らないが、近々ここを離れる」
「うん……まあ、そうなるよな」

 もはや思い出さないどころか忘れ去ることも不可能になってしまった。いまとなってはすっかり相手にほだされてしまい、傍らにいるのが当たり前であるような、そんな小恥ずかしい切実な関係なのだ。噂を思い出したくなかったのも、僕らがそうであるからに違いない。

「それで? 余計な心配ってのは?」
「……嫌なところが似おってからに」
「それは自虐?」

 図星を突かれると自分を繕えなくなるのは紀之介の癖だ。少なからず紀之介自身もここを離れることで自分たちに起こる大きな変化というものを憂いていたらしい。珍しく僕の方が感情の主導権を握っている。勝ち誇ったような僕に対して紀之介は、最大限の不愉快な角度を口元に生み出して、眉間に最大限のしわを作った。
 そんなちゃちなやり取りを僕は噛みしめるように眺めた。ここに来ることができるのも残りを片手で数えられるかどうかという風なのだ。
 仲間との別れというのはいくらか経験してきた。しかしいま眼前に迫っているのは、ただ友人と会えなくなるというだけでなく、今僕が存在しているこの空間ごとなくなってしまうという大きなものだ。未だに飛べない雛が残る鳥の巣が墜落する感覚だ。
 しかしこの離別に対して紀之介が無関心でなかったのはうれしいことだった。もしかすると僕をそのまま小姓として連れていってくれるのかもしれないという淡い期待もめばえかけていた。
 だがそれができるなら紀之介は迷いもなくそう言うだろう。不愉快な表情はそれから晴れることはなく、僕はその口の形ばかりを凝視して──。

「伊万里」
「……!?」

 落ち葉の割れる音に振り向くと同時に忘れかけていた声も飛んできた。男士三日会わざればなんとやらとも言うが、最後に会ってから月の大きさも元通りになる頃だった。紀之介が、わざわざやって来るなどと誰が思いつくだろうか。

「紀之介、どうしたんだよ一体……」
「われとお前のよしみだ、最後くらい挨拶をしておこうと思ってな」
「最後?」
「ああ、それからわれのことは吉継と呼べ」

 そんな台詞が始まったかと思えば、二の句には「明日城を出る」ときた。ついにか、と僕は一言も発さずにつらつらとした言葉を飲み込んでいた。
 連れていけない、と告げられたその日から吉継とは疎遠になってしまった。ちゃんとした世話係が付くし、もう子供でもないから遊び相手はいらないだろう、という方針らしかった。周りには遊び相手程度にしか見られていなかったということにはめまいにも似た失望を覚える。しかし口出しできる立場ではない。

「ヒヒヒ、いい顔よ」

 こういうときでさえ自分の本分は忘れていないようだ。色が冷めた僕の顔に手を伸ばしかけて、頭の上に影は落ちた。「あだっ」

「その顔がしばらく見られないのは残念だが、案ずるな、しばし待っていろ」

 撫ぜられるのかと思ったのも束の間、無理矢理な力で抑え込まれ吉継の顔が見られない。そんな台詞を吐く吉継の顔をどうしても見てやりたかったが、手のひらから解放されたときにはいつもの薄ら笑いを作り出していて叶わない。

「……針を飲まないで済むようにな」
「はて、小指をくれてやってもいいのだがな」

 そうしてあっけなく吉継と別れたきり、月が痩せてはまた太り、と数回繰り返された。

*****

「すまないが、少しばかり休憩させてはくれないかい?」

 ある日、少し顔色の悪い目元がやけに涼し気な男と、僕や佐吉なんかをひと握りに潰してしまえそうな大男が現れた。この暑いのに戦装束のようなのをきちりと揃えて佇んでいる。
 何も無いけど、と大した疑いも持たずに招き入れた。
 客などほとんどきたことがないこの場所でさてどうしたものかと唸っていると、戸の隙間から客人を覗き見たらしい佐吉が血相を変えて飛びついてきた。「……伊万里、たぶんあの方々は鷹狩りの最中だ」「たかがり?」
 佐吉は、来訪人は武家の人間だろうと言
う。やけにきれいな身なりをしていたのはそのためかと納得する僕の横で、弟分は少々顔を引き締めた。それからもてなしは私がすると言い放ち、僕を含めた他の人間を引っ込めさせようとした。

「おい、やけに強引だな」
「失礼のないようにしなければ、何を言われるかわからないからな……」
「そういうのも見たことがあるのか」

 くっと顎を引いたのは肯定の動作だろう。

「でも一応僕が年長なわけだし、お前ひとりに任せっきりにするのも僕が嫌だな」

 結局僕と佐吉の二人でもてなしじみたことをしようということにはなったが、佐吉は僕の数倍はせかせかと忙しなかった。僕に何やら細かく指示を飛ばして茶の用意をさせたり、物珍しそうに物陰から顔をのぞかせる他の子を見るや否やすっ飛んでいき、死角へ押し込めようとしたり。いや、忙しくしていたのはほとんどそのせいだったが。
 その後、客人の退散を告げると、緊張の糸が解けたようにへたりこんでしまった。しかし顔は高揚から真っ赤っかになっていて、僕は佐吉の憧れやらなんやらを思い出し、良かったなと頭を撫で回すに留めた。

「佐吉、とんでもない動きぶりだったなあ」
「失礼があってはいけないから……でも、うまく立ち回れたようだ」
 
 それからまた月が痩せ始める頃、その方々が再びやってきたかと思えば、佐吉を小姓としてもらい受けたいと言った。

「ちょうど人員を入れ替える時期でね、いい子がいないかと思って探していたんだよ」

 女と見紛うほどに柔和な笑みの男をまじまじと眺めると、その笑みは深まった。竹中半兵衛という名前は世界の狭い僕の知るところではなかったが、佐吉の言う通り大名の一人なのだということはなんとなく察せられた。
 僕に引き止める理由などない、というより既に佐吉はもう一方の──豊臣秀吉とやらに腕を引かれて、もとい肩に担ぎ上げられて、鷹狩りへと赴いていってしまった。

「……まあ、子供の出入りは激しいほうですから、ここ」

 そもそも決めるのは佐吉だ。それに佐吉の憧れが叶う絶好の機会だ。誰が引き留められよう。

「彼のように幼いながらも、自覚のある優秀な人材はどうしても必要でね。感謝するよ」 

僕はかわいい弟分の門出を祝う気持ちで送り出したのだ。

*****

 それが二人にとって良いことなのだ、と初めの頃は呑気に考えていたものだ。あの時僕が死んででも、止めるべきだったのだ。
 しかし、どれだけ僕が行動を変えても妨害しても、力任せにしようとも、決まっている運命というのは形を変えてやって来る。 大河の流れのようなものだ。石を投げ込んでも水底に石が増えるだけで流れは変えられない。たとえ川をせき止めるだけの石を積んだとしても、その時には必ず大雨が降り、川を氾濫させて関を壊すのだ。始まりは変えられないのだ。
 吉継が出ていく時も、佐吉が出ていく時も、僕は肺を掻きむしりたくなるのを堪えて、行ってこいと、口を耳まで裂いて笑顔を作らなければいけないのだ。

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