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▼ 開始地点にて 弐

ぬるく湿った嗅ぎなれた匂いと頬に張り付く髪の毛の感触。指先には硬く温かい布団のざらつき。寝返りを打って陣地からはみ出した足は急な冷たさに驚いて引っ込んだ。
耳の奥でカンカンという鐘の音がする。きっとまた町の方でボヤでもあったんだろう。急を知らせるその音は、人々の不安を煽るのに最適な甲高い声をしている。冬に片足を突っ込み乾き始めたこの時期、火鉢の不始末かそれとも焚火が煽られたかでしょっちゅう火の手が上がる。ここはその町から少し離れた山の麓だ。山火事でも起きない限り、炎と煙に巻かれることはないだろう。
そんなのんきな考えに至ると再び意識は引っ込みかけた。もう一度心地いいまどろみに身を任せようとしたものの、それを見抜いていた鶏が大きく一声あげた。耳をつんざくそれにはたまらず眠気も逃げ去ってしまった。
朝日はまだ低く弱々しい。障子の影もはっきりとしない。無遠慮な隙間風だけは嫌というほど主張してくるが。
ままよと布団を蹴り上げて部屋の隅に追いやる。今日は町のほうまで用事があるため、いつまでも寝床と仲良くしているわけにはいかないのだ。寝間着を脱ぎ去ると余計に目が覚めた。さむい。
いつもの着物をいそいそと着込んで、昨夜から脱いだままになっていた上着を拾って、さてと障子に向き合って、腰を抜かしそうになった。
ぬっ、と小さな人影が障子越しに立ちはだかっていたからだ。
まさかよからぬ何かじゃなかろうなと思考が停止しかけたが、よく見れば見なれた背丈の影だ。慎重に襖を引けば朝日を鈍く照り返す、やはり見知った銀色があった。

「びっくりさせるなよ佐吉……」
「すまない、まだ寝ているのかと思って」

少し切れ長な瞳をぱちくりとさせているのは、新顔の佐吉という男子だ。ついこの間紀之介のところへ行ったとき話のネタにさせてもらったのがこの子だ。 
朝日が顔を出したばかりだというのに佐吉はすでに身支度が済んでいた。寝ぼけた声でもないし、きっと僕よりも早く目覚めていたのだろう。

「さすがに早いな、ちゃんと眠れたのか」
「もちろんだ」

顔を洗おうと砂利の庭へ足をつける。佐吉もそれにならって後ろをついてきた。焼けた石で人を殺せるのは知っていたが、冷え切った石も十分それができるのではないだろうか。冷水を一気飲みした時のような痺れが頭の先までのぼり詰める。飛び跳ねるように庭を横切る。
じゃりじゃりと跳ね返る音に枯葉を砕く音が混じったころ、井戸にたどり着いた。老いた体で健気にも役割を果たし続けている。桶は木のぬくもりを忘れて転がっている。
桶を投げ入れて、井戸の底から闇を引き上げた。見ているだけでも冷たいものを感じる。余計な不快を感じる前に一気に顔を洗った。

「…………」

佐吉はさっきからその挙動をじっと見つめている。一言も発さないからいよいよ居心地が悪くなって、手ぬぐい越しに呼んだ。

「……なんだよ」
「いや……」

わざわざ僕の寝起きに合わせてやってきたのだ。何かしらの用があってもおかしくないと思う。一向に口を開かないのはこちらの態勢が整うのを待っているのか、それとも口が重くなるような何かを抱え込んでいるのか。

「ねぼけた僕でもいいなら話くらい聞くぞ」

ぽたぽたと顎から落ちる水滴を拭う。
なにか気に入らないことでもあったのか心配事でもあるのか、まさか僕が何かしてしまったのか。思い当たることは何もない。

「ついていってもいいか」

思っていたよりも早く返事が返ってきた。妙に決心したような顔でそんなことを言う。変に身構えていたせいで一瞬何のことかと放心しかけたが、思いついたのは今日の用事のことだった。確かに町で済ませたい用事はある。

「そんなに楽しいものじゃないぞ」
「少し、見てみたいだけだ」

うつむきがちに佐吉は言う。見てみたいというのは……町のことだろうか?
よくよく思い出してみると佐吉と連れ立って出かけたことはなかった。一人で行くか、ほかの子を連れていくか。佐吉がここに来てから季節が一つ変わろうとしているが、佐吉のそんな願望には全く気が付かなかった。
そもそも佐吉は自分の願望というのをあまり外に出さないようにしているように感じられる。願望がないように見せているとでも言ったほうがいいのか。
精神的に落ち着いていることが大人びているのか、子供らしくないのかはわからないが、僕という兄貴分がいる限り、少しくらいのお願いは聞いてやりたいものだ。

「もちろんいいさ。気が済むまでつきあってやるよ」

パッと顔をあげた佐吉は喜色でいっぱいだ。

「とりあえず、ほかの奴らもたたき起こそう。八つ時にでも出発できればいいだろう」
「任せてくれ!」
「あ、おい」

静止は聞こえなかったようで、砂利を巻き上げながらあっという間に襖の奥に消えてしまった。十数人を一度に起こす面倒さを知らない佐吉ではないとは思うが、やけに張り切っていた。

「……まあ、元気なのはいいことかあ」

朝の仕事が一つ減ったのも都合がいい。
太陽もようやく目覚めたらしい。冷えた耳先を日光が徐々に溶かしていく。草いきれの匂いが漂い始める。凶器と化していた砂利も、いつのまにかただの石ころに戻っていた。

*****

僕の言う用事というのは、あの若様から仰せつかったおつかいのことである。

「無い」
「なにが」
「読みつくしてしまった」

深いため息をついて天井を仰ぐ吉継の目の前には、本。おおよそこの歳の子供があっさりと読み切ることはできないであろう量の書物。今日はずいぶんと口が少ないなと思っていたら文字に取りつかれていたらしい。

「伊万里よ」
「……どうせ新しい読み物でも調達してこいとか言うんだろ」
「ヒヒ、さすがわれの小姓。よくわかっているではないか」

同時に放られた巾着は金属の音を立てて手の中に納まった。こういうおつかいも小姓の役割だというのはなんとなく察するようになってきた。そういうものなのかもしれないと思ってしまったり、それを命令されるのもまんざらでもないと思ってしまったり。もしかすると自分の根っこは手下気質なのではないかと思い至り、何とも言えない気分になった。

「今日はもう日も暮れる、次来る時には目新しいものを用意しておけ、待っておるぞ」

*****

「はぁ」
「疲れたのか?」
「いいや、ちょっと自分の性格ってどうなんだろうなと思って」
「……? よくわからないが伊万里は良い奴だと思うぞ」

それよりあれはなんだ、と目を輝かせて袖を引っ張る佐吉を見て、落ち込んでいる場合ではないなと思った。せっかく楽しんでいるのに水を差してはいけない。
町についてから佐吉は年相応に顔を上気させている。対して僕は昨日のやり取りを思い出しては、自分とはいったいどういう性質なのかと考えるばかりだ。
町に足を踏み入れた時にはちょうど八つ時を迎え、人々の活気も徐々に落ち着いてきていた。夕暮れになればまた人ごみがここを埋め尽くすのだろう。今のうちに用事を済ませておくのが賢明だと思う。
城下町……の端の端。裕福な商人が中心部に集まっているのに対して、火のついた車輪で店を回しているような商人が隅へ隅へと追いやられた末に出来上がった構造だ。中心地まで行くような用事は今までもこれからもないはずなので、逆に言えば便利でもある。それに裕福ではないからと言って不便というわけでもない。
佐吉は物珍しそうに街並みを見ている。漢字一文字の看板に首を傾げたり、声を張り上げて歩き回る物売りに目を奪われたり、飛脚の足さばきに心底驚いていたり。食欲をそそる香りが鼻をかすめることもあれば、頭が麻痺しかねない派手な匂いがどこかのいかがわしい店から漂ってきたりする。
確かにたくさんの人が動き回っているこの空間は退屈しない。佐吉の様子もその一部だ。ここにはたくさんの出来事がある。人との交流が乏しいあのねぐらでは体験できない物事がたくさんある。

(そういえば元々は武家の出か)

こちらに来る前の佐吉がどんな様子だったのかは知らないが、こういう場所にはあまり来たことがなかったのだろう。寺にいるときの落ち着いた様子とは打って変わって早足になっている。
暮らしに刺激を生むためにも色々と体験なりなんなりをさせるのも大事だよなと思う。とはいえ無駄遣いもできないので、何を買うというわけでもなくただ眺めるくらいしかできないのが悲しいことだが。

「用事というのはなんだ」

佐吉は自分のはしゃぎっぷりに気が付いたのか居住まいを正した。きっと僕の目線の温度を感じたんだろう。突然落ち着いてそんなことを言うものだから、僕は口角が上がるのをこらえなければいけなかった。

「ああ、城の若様が新しい読み物を手に入れて来いってうるさくてさ、それを買いに来たというわけだ」
 
懐から金子の巾着を取り出してみせると佐吉は拍子抜けしたかのように瞬きした。

「それだけか」
「ああ」
「寺の用事ではないのか」
「ちがうね」

するとどういうわけか微々たる羨望が混じった目で僕を見た。

「……少し羨ましいな」
「いや、これは別に小遣いというわけじゃ」
「そうじゃなく……」

ひっそりと佐吉はつぶやいた。それからしまったという風に唇を噛んだ。

「なにかお前の助けになれないかと思って、ついてきて」
「帰りにそれを運んでもらうだけでも十分助かるんだが……」

僕は佐吉の言いたいことが上手くつかめず、語尾が消えてしまった。佐吉は納得したようなしていないような曖昧なへの字口でいる。

「ええと、羨ましいってのはどういうことだ?」
「わ、わざわざそんなこと言えるはずないだろう」

しかし思わず口走ってしまうほどには抱え込んでいた感情だ。それがわからない限り佐吉を理解することはできないだろう。お互いに黙り込んでしまうとあとは我慢と自尊心の問題だ。僕は兄貴分としては何としてもかわいい弟分の信条を尊重してやりたいと思う。その考えが伝わったかどうかは定かではないが、佐吉はたどたどしくも自らの羨ましさというのを解き始めた。
心からの願望を聞いたのは初めてのような気がする。
曰く、主従の関係に漠然とした憧れがあったらしい。僕自身は誰かに従うことに美徳も何も感じない(あの若様に関して言えばもしかするとそうも言っていられないかもしれない)が、佐吉は違った。元は武家の生まれらしいから、そういうものを感じさせる場面にはいくらか出会ったことがあるのだろう。そして自分がいつか仕えることになるであろう誰かに思いを馳せながら暮らしてきたのだ。そういう教育だってされてきたのかもしれない。昔の佐吉の事は知らないので想像の域を出ないが、あながち遠くもないのだろう。
そんな頃に僕のもとへやってきて、その夢に近い憧れを体感できるかもしれない機会がやってきたのだ。先ほどまでの張り切りの意味が分かった気がする。まさか僕をその誰かに見立てていたとは思わなかったが、やはりそれは無理なのだ。僕は寺にいる子供たちを従えているわけではない。あくまでも僕と佐吉は同等な関係でしかない。立場の違いによる利害関係も生まれない。
羨ましいというのは僕と紀之介の関係、正確には僕のことだという。確かに僕は主の立場にはなれないが、今、実際には従の立場にいる。そりゃあ羨んで当然だ。

「わかったなら、もういいだろう」
「ああ、まあ、うん」

できる限り気持ちを尊重したいなどと思ってはいたが、つまるところは無理難題なのであった。
何と答えようかと考えあぐねている間に佐吉は気を取り直したようだ。歪みのないしゃんとした口元が少し憎い。はやく用事を済ませようと目をのぞき込んできた。今度は僕がへの字になる番だった。

「……行こうか」
 
*****

あれから佐吉に話しかけるのが妙に難しくなり、無駄口もたたけず土を蹴る音だけを聞いていた。佐吉は再び街並みに興味が湧いたのか忙しなく目線が動く。
今日はいたって秋晴れで、そのせいで朝もあんなに冷え込んでいたのだろうが、雲ひとつない吸い込まれそうな空だった。今となってはむしろ雨でも降ってくれていたほうが嬉しい。傘にぶつかる雨音で、言葉を交わさない口実を作れただろう。
空気が乾き始めたことによって火事が起こるのも珍しくない時期だ。焦げ臭いにおいが残っているのも普通のことだったし、寺の縁側に気づかないうちに煤の足跡ができているのも日常の一部だった。自分が火事に見舞われたことがないのをいいことにそんなことが言えるものだが。
耳の奥に残っていたカンカンカンカンという音が今になって大きくなってきた。
息をするのが嫌になる焦げ臭さが鼻をつきはじめていた。
町に入ったときには気が付かなかったし、鐘の音のこともすっかり忘れていた。歩を進めるごとに匂いは濃さを増し、しかしまったく火事の跡など見つからない。町人もいつもと変わらず、道端での談笑や売り文句を叫ぶのに勤しんでいる。
 いよいよ目的地が見えるかという曲がり角は、匂いと予感で充満している。

「……伊万里」
「これは……」

あたたかな木造建ての密集した中に、突如異質な黒色が現れた。佐吉と二人、呆然とその場に立ち尽くす。早朝の鐘の音の正体を思わぬところで知ることになってしまった。口を開くきっかけがこれとは、やはりなにかの戒めか。
目的地だったそこは、その体の半分に至るまでを真っ黒く塗り替えられ、炭と化し崩れ落ちていた。半分が焼け落ち、半分が元の形を保っているいびつな構造はいっそ下手な怪談だ。
野次馬騒ぎが昼間まで続いていなかったのは、運がいいのか悪いのか、この建物だけが火事に見舞われて隣家に燃え移らなかったおかげだろう。

「おいあんまり近づくなよ、あぶねェよ」

それから目を離せずにいると向かいの店番の男が声をかけてきた。お互い見知った顔だったので、僕の顔を見るとああ、と合点がいったように鼻を鳴らした。

「これ、今朝に?」
「ああ、店主が居眠りでな、火鉢を……」

男は手で何かを払いのける仕草をしてみせた。ひっくり返したのか。

「なるほど、そりゃあ馬鹿をやったな」
「隣に移らなくて良かったよ」
「主人はどこに?」

それなら、と指さされたのは二軒隣の民家だった。短く礼を言って指さされた先に向かう。

「伊万里、どうするんだ」
「焼けてないのがないかだけでも聞いとかないと」

佐吉は黙って着いてきた。
たどり着いた民家に転がり込むと、言われた通り店主はいた。ぴんぴんしていた。茶碗片手に箸を咥えてのそりとこちらを振り向いた。多少煤に汚れてはいるが至って無傷なようだ。
焼け残りがないかと聞くと、店の半分が焼けたように在庫も半分やられて半分生き残ったらしい。商売の気はあるようで、金さえ払うんなら好きに持って行け、と空いた手をひらひらさせている。おつかいは断念しなくて済むようだ。その手にめがけて巾着を放り投げると、店主の手に落ちるのを見届けないまま民家を飛び出した。

「まさかあれに入るのか?」
「焦げてるところに行かなきゃ大丈夫だって」

佐吉は露骨に嫌そうな顔をしたが、渋々といった感じでついてきた。
土間は煤にまみれて焦げ臭い。十歩もすれば黒焦げの梁や柱に囲まれることになる。店主の言う通り店の半分と共に書物も炭、灰になってしまっていた。しかしまた店主の言う通り、半分は煤やら灰やらを被っているだけで読めないことはなさそうだ。

「さて、何を持ってくかなあ」

足元に落ちていた真っ黒の本を拾う。「梅*無**」と表題すら読めなくなっている。しかし中身は無傷で読むには充分だ。煤を手に擦り付けて懐にしまい込んだ。

「ここまで来たからには私も手伝う。何でも言ってくれ」
「頼もしい、じゃああっちの方を……」

佐吉を連れてきてよかったと思う。いつもの半分とはいえ書物は大量だ。しかも荒れている。こんな中でひとり探し物をするのは億劫だったろう。それに帰りの荷物運びも半分になる。
紀之介のことだから有名どころは既に読破してしまっているはずだ。文字中毒のあいつのことだから少々難しい、それこそ兵法みたいな読む気の起きないものでも喜んで飛びつくだろう。かといって有名なものと言えば源氏物語か伊勢物語か、そんなものしか思い出せない。仕方がないので知らない題名を拾っては脇に抱えていった。───佐吉にそのことを伝えてなかったな。
店の奥に目をやると真っ黒な表紙と格闘している佐吉がいた。手についた煤は、用心を忘れると顔やら服やらにいつの間にか飛び移る。佐吉も例に漏れず頬を黒くしているが、本探しに夢中になって気が付いていないようだ。
ああ、そうだ、佐吉の方が教養がある。佐吉に聞けば早いじゃないか。

「さき……」

思い立ってよびかけると佐吉はこちらを振り向いた。薄暗がりで鈍くも光る銀色と若草色はこんなときでも変わらない煌々だ。

「佐吉!」

手にした棒切れを思い切り振りぬくと、ガツン、と壊れた木魚のような断末魔が鳴って、煤が降り注いだ。黒塗りの背景にごしゃりと沈黙したのを見届けて、へたり込む。

「な……」
「……気をつけなきゃな」

建物はいまだ、緩く崩壊しているらしい。闇と煤の混合体である天井は目を凝らしてもただの黒色だ。どれだけ脆くなっているかなんて一目でわかるわけがない。
佐吉は何が起きたかわかっていないようだったが、上からぱらぱらと落ちてくる木屑に気が付いて顔色を悪くした。

「何ともないか?」
「あ、ああ」
「よかった、とっとと出よう。本は見つけた分だけでいいや」

僕は足早に土間を乗り越えた。佐吉は顔色が悪いまま、突然僕のことを忘れでもしたかのようにこちらを見ている。

「……ありがとう」
「……礼なんていいよ。そもそもあんなとこに入らなけりゃ」
「いや、伊万里が助けてくれたことに違いはない」

もう一度ありがとうというと、それきりなにも言わなくなった。お互い黙ったまま、あの焼け落ちた黒色に心をもっていかれたまま、町を出るまで相手の息遣いに耳を澄ませていた。

次、紀之介のところに行くのはいつだったか。
何も知らないふりで、このことを聞いてみればいいだろう。
僕は手のひらに残る冷たい氷の感覚を味わっていた。
氷漬けにされた燃えかすはあの煤にまみれて誰にも見つかることはない。


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