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▼ 君子殉教

過去に捕らわれた先に未来はないと秀吉様が仰られたからには、過去への拘泥とは罪であると理解するべきなのだろう──。
家康の愚行をまさかお許しになられたという意味ではないとは思う。が、家康にこの怒りを向け続けることを秀吉様はお望みになられていない──。
私がただ、豊臣の臣としてのみ生きることこそ、恐らく秀吉様の望まれる道なのだ──。
秀吉様からお言葉を賜ってから、長い間同じ考えが目の前で堂々巡りしている。豊臣に叛旗を翻した家康をむざむざと見逃すのは到底赦されることではない。しかし秀吉様は家康を追うことを望まれてはいない。
私は只、秀吉様のお言葉に従っていればいい。なにをこのような迷いを内に生じさせる必要があるのか。私はまた、私自身をも赦すことができない。名も知らぬ目の前の兵を切り捨てたところで家康に近づけるわけもなければこの迷いが降り切れるわけもない。ただ命じられたままこの刀を振るうことしかできない。早くこの惑いを振り払わなければならない。
この戦も直に終わる。早くお二方に謁見の許可を賜りたい。このような愚かな迷いに捕らわれている私は処断されてしかるべきなのだと。そして真に豊臣の臣として生きる、それ以上の幸福がどこにあるのだろうか……過去の忘却という決意を宣誓するのだ。
秀吉様が仰った未来に、家康はいないのだ。あの方にとって奴は既に過去のものとなったのだ。それはおそらく半兵衛様も同様であるのだろう。ああ、それでいいではないか、裏切り者は只の裏切り者だ。只これから討ち果たし乗り越えていくだけの存在ではないか。秀吉様方が作り上げる未来こそが重要だということは言うまでもないことではないか。
気が付けば首から上のない胴体が空を仰いで泥を飛び散らせた。周囲が一瞬の静寂に満ちたが、瞬きの間に阿鼻叫喚の震えに満ちた、けたたましい逃走の騒ぎに陥った。
左近は命を全うしただろうか。あれからそう時間は経っていないが、半兵衛様と合流していてもおかしくはない時間だ。隊を引き上げる頃には戻ってくるだろう。あれは豊臣の一員になって日は浅いが、飲み込みは早い。自分では理解していないようだがその技量は並みの人間よりも優れている。
本陣へ戻ると刑部は既に撤退の指示を出していた。煩わしそうに首を鳴らしている。ヤレ三成、ぬしもまたよくあれほど動けるものよな。当然だ、怠慢は許されない。
隊列の中にあの目立つ背格好が見えないことに気が付いた。反射的に刑部に問いただすと左近と共にいるという。

「左近一人では道にも迷うかと思うてな、ヒヒッ」
「奴はこの辺りを訪れたことが無かったか……」

血糊の刃を拭う。賜った刀を乱雑に扱うわけにもいかない。錆びる前に研いでしまいたいところだ。
自分より刀が大事か、と呆れたように刑部は言う。口を開くたびに頬が引きつるのは返り血が乾いてしまったせいだろう。寄越された手ぬぐいでいくら顔を拭っても中々色は落ちなかった。手ぬぐいに落ちた見苦しい赤色を眺めるうちに戦闘の気の昂りは頭を引っ込めた。

「三成様ァ!」

隊の進行方向に逆らって派手な毛色が飛び跳ねる。何度もそう叫ばずとも聞こえているというに。

「どうした左近、騒々しいぞ」
「──三成様! やっ、やべぇです……!」

全身全霊をもって駆け戻る左近はどこか焦燥の色を見せている。息も絶え絶えに腹から絞り出すような声は私の耳をつんざいた。

「家康が、家康の野郎がッ、海賊と手を組んで、俺ら豊臣を潰しに……!」

凪いでいた脳髄は、一気に逆巻いた。
今、この身は、仇敵の心の臓を抉るためだけに存在しているのだ、という実感だけがそこにあった。

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