昔、お母さんから秘密の話を聞いたことがある。私のお父さんと出会う前、お母さんには「最愛の人」がいたらしい。誰よりも好きで、何よりも優先していたけど、今は連絡先すら知らないと言っていた。
「もう34年も会っていないんですもの。あの人との思い出もあまり思い出せないし、きっと街ですれ違ってもわからないと思うわ。それに、わたしはお父さんとあなたが一番好きだから今はとても幸せよ。」
わたしはそうやって話をするお母さんの横顔を見て、嬉しいと思うと同時にほんのちょっとだけ胸が締めつれられた。
Je veux vraiment ?tre avec vous.
少しだけ開けた窓から柔らかい風が入ってくる。わたしは紅茶を飲みながら昨日買った小説を読み、向かいに座っている凛はミネラルウォーターを飲みながら自分の練習メニューに目を通していた。凛はもう、選手としての体作りを行い始めているので大好きなコーラは飲まないようにしているらしい。
「なあ」
凛はメニュー表から目を離さず、わたしに話しかけてきた。
「なあに」
「…ほんとうにいいのかな、これで。」
「凛、もう決めたことでしょ?それに凛が水泳じゃなくてわたしを選ぶような人だったらわたし、たぶん凛のこと好きになっていなかったと思うよ。」
「そうなのか?」
「うん、そうだよ。だからこれでいいんだよ。これが正解。」
「…そうか。うん、そうだよな」
凛は自分に言い聞かせるようにそう言い、その後に言おうとしていた言葉を流し込むかのようにミネラルウォーターをぐいっと飲んだ。
凛はまっすぐで不器用で、誠実すぎる人だから一つのことにしか真剣に向き合うことができない。だから凛に別れを切り出された時、すごく凛らしい答えだと思った。そんな自分に正直な凛がわたしは好きだったし、素直に応援したいとも思った。
「なあ、」
今日の凛はいつもより口数が多い気がする。
「なあに」
「……」
「いいよ、言ってみて。」
「…俺のこと、嫌いって言ってくれないか。」
少しだけ風が強くなり、レースのカーテンがさあっとたなびいた。
「ふふ、いきなりどうしたの」
「こんなこと頼むのは自分勝手だって分かってる。でも、こうでもしてもらわなきゃ前に進めねえんだ。」
凛の声がほんの少しだけ弱々しくなったので、ぱっと顔をあげると凛はこちらをまっすぐ見つめていた。いつになく真剣な目をしていた。
「もう仕方ないなあ」
わたしは笑いながらなんともないという感じで紅茶を一口啜った。さっきまで温かかった紅茶はすっかり冷めてしまっていた。
「……」
「凛、」
「……」
「…わたし、凛のこと嫌い。きっと一生大嫌いなままだよ。」
「……」
「凛?」
「あ?…ああ、悪りぃ。なまえ…ごめんな、それとありがとう。」
凛はそう言うとどこかほっとしたかのように笑った。いつもだったら、わたしたちが別れる前だったら、わたしが好きだよって言ったら俺もだって答えて笑ってくれたのに、今は真逆の言葉を言ってその笑顔を見せるんだね。
そんな凛の笑顔を見た途端、わたしは自分の気持ちが抑えられなくなってしまった。後になって思い返してみても自分でもなぜそんなことを言ったのかは未だにわからない。でも、どうしても、どうしても止められなかったのだ。
「凛」
いつもより強めに呼ぶと凛は少しだけ驚いた顔をした。
「な、んだよ」
「ごめん…ごめんね、凛。さっきの言葉やっぱり取り消す。わたし嘘でも凛のこと嫌いだって言えないよ。だってそんなこと言っちゃったら今までのわたしたちの思い出がなくなっちゃいそうだから。わたし、今でも凛が好き。きっとずっと好きなままだと思う。34年経っても凛のこと忘れないし、街中であっても絶対に気付く自信があるよ。」
「さ、34年?何言っているんだ?」
「とにかくわたしは凛が大好きなの。きっともう一生会えないのに、こんなこと言ってごめんね。」
わたしはそう言った後、唇か額か少しだけ迷って結局額にキスを落とした。凛は目を見開いて少し固まったのち、勢いよく立ち上がりわたしの部屋を後にした。
ドアがバタンと勢いよく閉められて部屋に静寂が戻ってきた。小さなため息をついたあと、凛が出ていった方向に目をやると廊下に小さくてキラキラしたものが落ちていた。
「…飴だ。」
床に落ちていたのは透明な飴だった。どうせ凛は飴ごときでこの部屋に戻ってくるわけでもないしとりあえず袋から出して口に含んでみた。その飴は鼻の奥がツンとするような、切ない味がした。
あけびの花の紫が
今日はなんだか目にしみる
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Je veux vraiment ?tre avec vous.:本当は貴方の傍にいたい(仏)
額へのキス:祝福
あけびの花言葉:唯一の恋
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